今日は日曜日なので宗教に関連した記事を書きます。
ヨハネ・パウロII世が2月に長崎へ巡礼に来た1981年、11月に私は共産国の中国の瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。案内してくれたのが金応培さんでした。
当時、彼は瀋陽の東北工学院の助教授をしていました。そして、東京にある大学の私の研究室に1年間、留学していたのです。
文化大革命で破壊された教会がまだ復興していなかった時代でした。北京にはカトリック教会が幾つかありましたが、まだ再開していません。
ところが瀋陽まで来たら再開していたのです。以下にその教会とミサの様子を報告します。
(1)金応培さんに連れて行ってもらった中国のカトリック教会の惨状
瀋陽市のカトリック教会は天主堂といい、下の写真のような教会によく似ていました。しかし外壁のタイルや飾りレンガが紅衛兵によってボロボロにされ、それは無残な姿でした。
(中国 広西壮族自治区の北海市の天主堂、出典:http://www.asiaphoto.matrix.jp/gall_02arch_b.html )
内部に入って見ると、大勢の質素ながら洗濯したばかりのような清潔な人民服を着た男性達や、いろいろな服装をした女性達が、膝まづいて祈っていました。
満員の信者達が、祈りが終わると、みんな変な座り方で板床に座ったのです。正座の習慣がない中国人です。
よく見ると内部の椅子が全て運び出されていて、信者は板床に直接座っているのです。その板床も紅衛兵に壊され、所々に穴が開いています。
まもなく十字架像をかかげた侍者の列の後に神父さんが入ってきました。ミサの始まりです。中国語の聖歌があり、中国語で聖書を朗読します。
日本のミサと同じなので、中国語の分からない私でも自然に立ったり、座ったり、聖歌のメロディを唱和したりして、厳かなミサが終わりました。
ミサの間に、ドイツで一年間、通った教会のことや、パリのモンマルトルの丘の上にある白い教会で祈ったことを思い出しました。
そして南米のベネズエラで闘牛場でおこなわれた野外ミサで、現地のインディオの人々と一緒に祈ったことを思い出しました。
民族が異なり、言葉も違いますがキリスト教の信仰は同じです。そんなことを実感させられた瀋陽の天主堂のミサでしした。
ミサが終わったところで、金応培さんが神父さんを呼んで来て、私を紹介してくれました。
私が、「今年の2月にヨハネ・パウロII世は日本を訪問したことをご存知ですか?」と尋ねました。「よく知っています。私どもも長い時間がかかっても必ずローマ法王のもとに入りたいと思っています」と言います。
当時も、現在も中国のカトリック教(天主教)はローマ法王の傘下に入れません。
中国政府が台湾のカトリック教会をローマ法王が切り離したら、中国大陸のカトリック教会がローマ法王の傘下に入るのを認めるという条件を出しています。
ローマ法王は台湾の信者がたとえ一人になっても絶対に信者を見捨てません。それがカトリックというものなのです。
(2)金応培さんから教わった日本の満州開拓の実態
金応培さんには瀋陽のいろいろな所へ観光に連れて行って貰いました。
下の写真は100年ほど前に日本人が設計して、満鉄が建てた瀋陽駅です。かなり立派な建物で、何となく東京駅に似ています。
(上の瀋陽駅の写真の出典:http://lonelytraveler.cocolog-nifty.com/eki/2007/08/post_7a49.html)
それから瀋陽は何と言っても、清朝の発祥の地です。満州族のヌルハチが瀋陽に都を置き、清朝の初代皇帝になったのです。
したの写真はその宮殿の様子です。勿論、この宮殿はヌルハチの時代のものではなく、後の時代に次第に増設していった宮殿です。
北京の故宮と同じような配置になっていますが、規模はずっと小さい宮殿でした。
(下の清の皇帝の瀋陽の宮殿の写真。出典:http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0819&f=column_0819_003.shtml&pt=large。ヌルハチ皇帝は1621年に瀋陽に都を置いた。)
観光案内をしながら朝鮮族の金応培さんが何故、中国共産党員になって瀋陽市に住んでいるか説明してくれました。
当時、朝鮮は日本領で、農村に住んでいた金さん一家が日本人に強制的に農地を買い上げられたそうです。仕方なく満州に移住しました。
そうしたらその農地も日本からやって来た満蒙開拓団によって強制的に買い上げられます。
もう日本人は嫌だと思い、日本人の来ないような奥地の森林地帯へ移住したそうです。
生活は一層苦しくなったのですが、向学心の強い金応培さんは自分で学費を稼ぎました。
深い森のなかに入ると人間の拳くらいの大きな松ボックリがあるそうです。その松ボックリを拾い集め、中にある松の実を収集したのです。
それを持って町に出て、中華料理店へ高く売ります。
こうして中学校、高校を優秀な成績で卒業し、瀋陽の東北工学院に入学したのです。
大学にはいると優秀な金さんはすぐに共産党への入党を誘われたそうです。否応はありません。
当時、日本へ留学できたのは共産党の党員に限られていました。1981年はそういう時代でした。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
下に1981年、長崎へ巡礼に来たヨハネパウロII世の写真を示します。