後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

熱烈日中友好時代(4)中国人の信義・金応培さんの思い出

2013年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日なので宗教に関連した記事を書きます。

ヨハネ・パウロII世が2月に長崎へ巡礼に来た1981年、11月に私は共産国の中国の瀋陽市にあるカトリック教会のミサに出ました。案内してくれたのが金応培さんでした。

当時、彼は瀋陽の東北工学院の助教授をしていました。そして、東京にある大学の私の研究室に1年間、留学していたのです。

文化大革命で破壊された教会がまだ復興していなかった時代でした。北京にはカトリック教会が幾つかありましたが、まだ再開していません。

ところが瀋陽まで来たら再開していたのです。以下にその教会とミサの様子を報告します。

(1)金応培さんに連れて行ってもらった中国のカトリック教会の惨状

瀋陽市のカトリック教会は天主堂といい、下の写真のような教会によく似ていました。しかし外壁のタイルや飾りレンガが紅衛兵によってボロボロにされ、それは無残な姿でした。

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(中国 広西壮族自治区の北海市の天主堂、出典http://www.asiaphoto.matrix.jp/gall_02arch_b.html )

内部に入って見ると、大勢の質素ながら洗濯したばかりのような清潔な人民服を着た男性達や、いろいろな服装をした女性達が、膝まづいて祈っていました。

 満員の信者達が、祈りが終わると、みんな変な座り方で板床に座ったのです。正座の習慣がない中国人です。

 よく見ると内部の椅子が全て運び出されていて、信者は板床に直接座っているのです。その板床も紅衛兵に壊され、所々に穴が開いています。

まもなく十字架像をかかげた侍者の列の後に神父さんが入ってきました。ミサの始まりです。中国語の聖歌があり、中国語で聖書を朗読します。

日本のミサと同じなので、中国語の分からない私でも自然に立ったり、座ったり、聖歌のメロディを唱和したりして、厳かなミサが終わりました。

ミサの間に、ドイツで一年間、通った教会のことや、パリのモンマルトルの丘の上にある白い教会で祈ったことを思い出しました。

そして南米のベネズエラで闘牛場でおこなわれた野外ミサで、現地のインディオの人々と一緒に祈ったことを思い出しました。

民族が異なり、言葉も違いますがキリスト教の信仰は同じです。そんなことを実感させられた瀋陽の天主堂のミサでしした。

ミサが終わったところで、金応培さんが神父さんを呼んで来て、私を紹介してくれました。

私が、「今年の2月にヨハネ・パウロII世は日本を訪問したことをご存知ですか?」と尋ねました。「よく知っています。私どもも長い時間がかかっても必ずローマ法王のもとに入りたいと思っています」と言います。

当時も、現在も中国のカトリック教(天主教)はローマ法王の傘下に入れません。

中国政府が台湾のカトリック教会をローマ法王が切り離したら、中国大陸のカトリック教会がローマ法王の傘下に入るのを認めるという条件を出しています。

ローマ法王は台湾の信者がたとえ一人になっても絶対に信者を見捨てません。それがカトリックというものなのです。

(2)金応培さんから教わった日本の満州開拓の実態

金応培さんには瀋陽のいろいろな所へ観光に連れて行って貰いました。

下の写真は100年ほど前に日本人が設計して、満鉄が建てた瀋陽駅です。かなり立派な建物で、何となく東京駅に似ています。

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(上の瀋陽駅の写真の出典:http://lonelytraveler.cocolog-nifty.com/eki/2007/08/post_7a49.html

それから瀋陽は何と言っても、清朝の発祥の地です。満州族のヌルハチが瀋陽に都を置き、清朝の初代皇帝になったのです。

したの写真はその宮殿の様子です。勿論、この宮殿はヌルハチの時代のものではなく、後の時代に次第に増設していった宮殿です。

北京の故宮と同じような配置になっていますが、規模はずっと小さい宮殿でした。

(下の清の皇帝の瀋陽の宮殿の写真。出典:http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=0819&f=column_0819_003.shtml&pt=large。ヌルハチ皇帝は1621年に瀋陽に都を置いた。)

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観光案内をしながら朝鮮族の金応培さんが何故、中国共産党員になって瀋陽市に住んでいるか説明してくれました。

当時、朝鮮は日本領で、農村に住んでいた金さん一家が日本人に強制的に農地を買い上げられたそうです。仕方なく満州に移住しました。

そうしたらその農地も日本からやって来た満蒙開拓団によって強制的に買い上げられます。

もう日本人は嫌だと思い、日本人の来ないような奥地の森林地帯へ移住したそうです。

生活は一層苦しくなったのですが、向学心の強い金応培さんは自分で学費を稼ぎました。

深い森のなかに入ると人間の拳くらいの大きな松ボックリがあるそうです。その松ボックリを拾い集め、中にある松の実を収集したのです。

それを持って町に出て、中華料理店へ高く売ります。

こうして中学校、高校を優秀な成績で卒業し、瀋陽の東北工学院に入学したのです。

大学にはいると優秀な金さんはすぐに共産党への入党を誘われたそうです。否応はありません。

当時、日本へ留学できたのは共産党の党員に限られていました。1981年はそういう時代でした。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

下に1981年、長崎へ巡礼に来たヨハネパウロII世の写真を示します。

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中国進出の日本企業は1万4400社…帝国データバンク調べ

http://response.jp/article/2012/09/27/182064.html

2012年9月27日(木) 08時53分
中国進出企業数・都道府県別順位の画像
中国進出企業数・都道府県別順位の画像
業種別構成比の画像

日本企業は 何故中国から撤退しないのでしょうか?
http://blogs.yahoo.co.jp/ryotoanariza/31554996.html


北海道、12日間のバイクの旅、その二

2013年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の記事では夏の北海道の涼しげな風景写真お送りいたします。

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我が国の最北端の宗谷岬です。

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知床のオシンコシンの滝です。

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根室の東、北海道の最東端の納沙布岬です。

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釧路湿原に鶴が遊んでいる風景です。

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日高のサラブレットの牧場です。青草をはみ、走りまわっています。

夏の北海道は気温が丁度良く、道路も下の写真のように広々としてバイクの旅には最適な所です。

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湖も支笏湖、洞爺湖、サロマ湖、能取湖、網走湖、屈斜路湖、阿寒湖、摩周湖、風連湖と周遊したそうです。

曇っていたり、霧が出ていたりして鮮明な写真ではありませんが、お楽しみ頂ければ嬉しく思います。(終わり)


北海道、12日間のバイクの旅、その一

2013年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

近所に住む50歳近い男性が2,3年前からバイクを始めて、2年前からイタリア車のドカッティを買って、乗っています。

年を取って、子供も3人もいるのに、バイクを始めたので危険ではないかと心配していましが無事故、無違反の安全運転です。奥さんも応援してくれるそうです。

心配なので車で何度か随走して見ましたら、あぶなげがありません。

コツは4輪車と同じように運転することです。4輪車の間や脇をすり抜けたり、無理な追い越しをしないことです。あくまでも車線の真ん中を走り、4輪車の動きと同じようにすることが重要です。

彼が北海道一周、12日間のツーリングに出るというので、ブログ掲載用の写真を撮ってくるように頼みました。

苫小牧にフェリーで渡り、小樽、積丹半島、宗谷岬、網走、知床、羅臼、野付半島のトドワラ、根室の納沙布岬、釧路、帯広、富良野、十勝、日高、苫小牧へと北海道を時計まわりに大回りしながら、湖や湿原も丁寧に見て来たようです。

この旅の写真を2回に分けてお送りします。お楽しみ頂ければ幸いです。

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・上がドカッティ800ccのバイクです。後ろに高く積んであるのが10日間使った寝袋です。

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・常磐高速道路で大洗港へ行き、フェリーのサン・フラワー号に乗ります。夕方に出港で、一晩寝ると苫小牧に着きます。7月29日の雨の旅立ちになりました。

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・上は積丹半島の神威岬です。

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・バイク乗りの平均年齢は48歳です。最近は中年層の趣味として流行していてバイクで旅をする人は上のような「ライダース・ハウス」に泊まるそうです。朝食つきですが、風呂が無いので夕方に近くの温泉に入り、夕食を食べてからゴロ寝です。中年にはキツイのでバス付きのホテルと交互に泊まるのが普通だそうです。それから2食付の民宿にも泊まります。お金があっても豪華な旅館やホテルに泊まっていけないのがライダー文化のようです。

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・富良野によってラベンダーの花畑も見ました。

いろいろ聞くとライダー文化のようなものがあって特殊な文化圏が出来ているようです。

昔の若者達の暴走バイク群のとは全然違う趣味のようです。時代は変わるものです。

(続く)