私は東京都の多摩地方の小金井市に50年住んでいます。この小金井の2万年前の石器時代から江戸時代までの歴史はかなり調べ上げ、このブログで数多くの記事を掲載してきました。(例えば自宅から北へ2km位の所にある小平市鈴木町の歴史は、私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷 に詳しく書いてあります)
ところが40年前から通っている山梨、北杜市の山林の中の小屋の周辺の考古学的な歴史については記事を書いていません。
そこで今回から数回にわたって山梨、北杜市の考古学的歴史についてその概略を調べ、記事を掲載したいと思います。まず小屋の前を流れている小川の写真を示します。
この小屋に泊まるたびに、この場所には石器時代から人間が住んでいたに違いないと想像しています。
食料にする木の実や、鹿や猪のような野生動物の豊富な土地です。
事実、上の写真の小川の300mほど下流の木内正夫さんの山荘の敷地から縄文土器らしい器の破片が出ているのです。
日本の石器時代は4万年前に始まり、12000年前からは縄文土器時代になります。しかし縄文時代も石器は非常に重要な生活用具だったのです。
特に獲った獣の皮を剥いだり、肉を切るためには鋭利な黒曜石の刃物が必要だったのです。
その黒曜石の一大産地が私の小屋から40kmと近い八ヶ岳の西にある和田峠、星が塔、麦草峠にあり、八ヶ岳近辺は黒曜石製の刃物の生産地として大いに栄えていたのです。
したがって八ヶ岳の麓の現在の山梨県の北杜市や長野県側の富士見町には石器時代や縄文時代に多くの人が住んでいたのです。その証拠は江戸尻考古館に展示してある多数の見事な縄文土器であります。
この場所で出来る黒曜石製の刃物は石器時代から関東一円をはじめ全国に流通し、一部は海外のシベリア沿海州まで運ばれていたのです。
もっとも黒曜石の産地は伊豆七島の神津島からも多量に産出し、それも日本全国や沿海州まで運ばれていたのです。
黒曜石は産地によって成分が少しずつ違うので、蛍光X線分析装置で調べれば正確に原産地が判明するのです。
その研究の結果、日本中の黒曜石の産地が明確に判っています。(詳しくは、日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見に説明してあります。)
さてそれでは石器時代や縄文時代に、私の小屋の周辺に人が住んで居たのでしょうか?
私は一年中は定住していなかったと想像しています。
小屋のある場所の冬は、寒すぎるのです。雪は少ないのですが零下20度くらいになります。日本酒が凍るのです。
夏の間だけ小屋掛けして鹿などを獲っていたのだろうと想像しています。秋には木の実を多量に採集していたのでしょう。
縄文土器の破片らしいものは木内さんが発見しましたが住居跡や集落跡が見つかっていません。
木の実採集や、獣の狩のためにこの小川を遡ってきたでしょうが、定住していたという考古学的な証拠がありません。
数名で協力しあって鹿などを近くの石空川(いしうとろかわ)の広い河原に追い出して黒曜石の穂先のついた槍で下の絵のように仕留めていたと想像出来ます。
(この絵は、神奈川県相模原市の田名向原遺跡展示館の展示絵画です。)
なお念のため言えば、4万年前から1万2千年前までの石器時代の日本は寒冷期で現在のシベリアや樺太のような植物が生えていたのです。
当時の日本人の人口は2万人から多くても10万人と推定されています。
気候が温暖化する縄文時代中期には26万人まで増えますが、その後はまた人口が減少します。農耕の始まる弥生時代になって人口が確実に増加しはじめるのです。
石器時代や縄文時代は北海道も含めて日本全国に最大でもたった26万人しか人間がいなかったのです。
それに比較して狩の対象になる獲物が日本中に溢れるように住んでいたのです。
ですから当時の人々の肉食は現在想像するよりも豊かだったに違いありません。
下に当時の人々が狩りの対象としていた動物の一覧図を示します。(続く)
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
(この絵は、神奈川県相模原市の田名向原遺跡展示館の展示絵画です。)