日本の旧石器時代は4万年前から12000年前までの38000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。
縄文時代の代表的な遺跡として青森県の三内丸山遺跡がありその概要は、驚異の三内丸山遺跡と縄文時代に繁栄した青森県 と題する記事でご紹介いたしました。
そこで今回は、弥生時代の代表的な遺跡として佐賀県の「吉野ケ里遺跡」の概略をご紹介したいと思います。
この遺跡は稲作の始まった紀元前300年から紀元後300年にわたって造営された環濠村落で数多くの建物は堀や柵で囲まれ独立した小王国のような構造になっています。敵の襲撃に備えた堅固な柵や堀で囲まれた小さな王国です。
原始的ながらも中世の城郭都市を彷彿とさせる構造になっています。その様子を下の図で示します。
この図はまつりごとの行われていた北内郭で出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。
下の写真の出典は、http://www.yado.co.jp/kankou/saga/sagasi/yosino/yosino.htmです。
上は政治の行われていた北内郭の写真で、下はその北内郭を環濠と柵の外から撮った写真です。
手前の高床式の家と竪穴式の倉庫は食料の貯蔵庫と考えられます。
上の写真と比較するために縄文時代の三内丸山遺跡の写真をもう一度掲載します。
この写真と吉野ケ里遺跡を比較すると明快に次の2点が大きな違いです。
(1)青森の縄文時代は戦争が少なかったらしく、敵襲へ備えた環濠や堅固な柵が無かった。
(2)青森の建物群は非常に土俗的デザインで原始的な構造をしている。それに対して佐賀県の建物群は高床式の発展した高殿式構造を有し、中国大陸や東南アジアからの文化的影響が暗示されている。
その上、縄文文化は北東北から南北海道にかけて栄えたのに対して弥生文化は九州や西日本で始まっているのです。
稲作という大きな生産力のある農業が人口増加を生み、いろいろな手工芸や鋳物細工や鉄器製造の職人をそだてたのです。
生活に使用される道具も次第に石器から金属製へと変って行ったのです。土器のデザインも呪術的な装飾が姿を消し、実用的な簡素な形に変化して行きました。
縄文文化を支えたのがアイヌ民族で、弥生文化を支えたのが朝鮮や中国から移住してきた日本人と仮定すると判りが良いのです。
しかし事実はもっと、もっと複雑でアイヌ人も弥生文化を受け入れたのかも知れません。アイヌと日本人の混血も進み、地方によってはその区別もなくなったのかもしれません。そんなことを考えながらもう少し弥生文化の様子を見てみましょう。
以下の全ての図面の出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。
上は環濠の内部へ入る入り口の様子で、敵襲を防ぐ逆木や乱杭が恐ろしい印象を与えています。
上は畑作の様子です。吉野ケ里遺跡ではまだ水田の跡は見つかっていませんが付近の湿地からは鍬などの農具が見つかっているの当然、稲作もされていたに違いないと考えられています。
上は王の墳墓です。銅剣とガラスの管玉が副葬されていました。この墳墓の形は後の古墳時代の古墳の原型のように見えます。
あまり長くなりますので、ここで一旦止めにして、続きはまたの日にご報告したいと思います。(続く)