後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

夫婦の義理(3)蔵王の樹氷コースと妻の災難

2008年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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生活がやっと少し安定した1973年冬に、甲斐駒の麓に、6畳と4・5畳の山小屋を作った。そこから近い諏訪湖に、子供2人とともに一家でスケートに行く。

妻が昔から持っていた白いフィギアスケート靴をはいていきなり滑り出す。アッという間に、遥か沖に輝く氷板の上に小さく見える。子供2人も妻の指導で間もなく滑れるようになる。

自分は借りたスケートで、よたよた滑る。スケートなんてあまりしたことが無い。仙台市で育ったので、作並スキー場や蔵王スキー場へ良く行った。

決して上手ではないが、蔵王の地蔵岳からドッコ沼まで、何キロも樹氷の間を滑り降りることが出来た。上の写真のような山岳コースである。(上の写真は蔵王スキー場の公式サイトから引用した。)

次の年の冬に白樺湖スキー場へ行った。蔵王に比べるとなだらかな小さなコースである。スケートが上手な妻なら、スキーも自分より上手いと信じきっていた。

そこで一家4人、リフトに乗り、いきなり頂上まで行った。鼻歌まじりに滑り降りて、振り返ると、妻がまだ頂上付近で、転びながら雪まみれになって悪闘苦戦している。子供2人は転びはするが途中まで滑り降りている。

諏訪湖であんなに上手に滑れた妻がしりもちをついている。スキー板が外れる。板だけが滑りおりてしまう。妻は腿まで雪につかりながらそれを拾いに行く。履いてはちょっと滑りすぐ転ぶ。急斜面を真っ直ぐ下ろうとして止まらず、絶叫する。そういえば曲がり方も止まり方も教えていなかった。「こけつまろびつ」ようやく麓まで降りてきた。呆れて見ていた我々は大爆笑。

諏訪湖での笑顔は泣き顔になっている。

スケートが上手なので、スキーも上手と、筆者は信じきっていたのだ。妻はおっちょこちょいなので何も考えず夫婦の義理でリフトに乗ってしまったのだ。妻はスキーの恐ろしさを知らなかった。

よほど怖かったらしく、その後何十年にもなるが喧嘩になると「おもいやりが無い実例」としてこの話を持ち出す。此方の旗色が酷く悪くなり夫婦喧嘩が終了する。つまらない話ですが、育ちも趣味も違う2人が結婚するといろいろ難しい問題が起きます。結婚とは大変なものです。(続く)


土方歳三、東京の田舎に静かに眠る

2008年09月25日 | 写真

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土方歳三は1836年に生まれ、1869年、33歳で箱館で戦死した。

東京都、旧南多摩郡、日野村の石田で育ち、墓も石田寺(せきでんじ)にある。

石の多い田圃に囲まれた貧しい農村地帯であったという。現在も田舎の風景が彼方此方に残り、静かな田園風景が広がっている。

上の列の中心の写真には彼の墓石がある。(右側の小さな墓石で、その下に写真が飾ってある)。

 中段の右端の写真には歳三の生涯がかなり詳しく紹介してある。

最下段の左3枚は石田寺の風景、最後の2枚は近所にある生家跡にある資料館に関する写真である。(資料館は毎月、日曜日に2回しか公開されていない)

幕末から明治の間の戦乱に人生を翻弄された一人の男の短い生涯を偲びつつしばし黙祷する。

新撰組の組長、近藤勇は箱館へ行く前に捕まり、流山で処刑された。近藤勇の墓は調布飛行場の北側の生家のそばの寺にある。

副組長の土方歳三は仙台付近の港で榎本武揚の江戸幕府艦隊に乗り込み、箱舘政府設立に参加した。

1869年、馬上で腹部に銃弾を受け、華々しく死んでいったという。そのせいか土方歳三は現在でも箱舘の人々に大切されている。日野市石田にいる歳三の子孫が函館へ時々招かれるという。(個人的に偶然、日野の人と親しいので歳三のことをいろいろ聞いている)

 撮影日時:9月25日御前10時頃、石田寺への交通:JR中央線立川駅で多摩モノレールへ乗り換え。高幡不動、多摩センター方面行きに乗り、「万願寺駅」で下車。モノレールに沿って下り方向へ歩き、左へ曲がる。萬願寺駅より徒歩14分位。尚、大変分かり難いので、途中2回くらい土地の人へ聞くことが肝要。(終わり)


夫婦の義理(2)35年間スケート場で凍える思いをする

2008年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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見合い結婚をした夫婦は育ちも趣味も違うことが多い。円満に過ごすには、「夫婦の義理」と諦めて相手の趣味に少しお付き合いをする。 妻の趣味はいろいろあるが、フィギュアスケート。中学1年から後楽園、新宿コマ、軽井沢、白樺湖などのスケート場で滑ったという。結婚後も毎冬、4,5回は滑りたいという。車で行くことになるので筆者もスケート靴を買って、冬の間車に積んで35年間スケートをした。

本来、運動は苦手で、嫌い。スケートは運動神経と平衡感覚が無いと立っていられない。苦しい思いをして無様な格好でリンクを一周すると妻はスイスイと何周もしている。いつも威張っている此方を、勝ち誇ったように見ている。側により過ぎると掴まれるので距離を置いて指導しようとする。回りの子供達がニヤニヤと笑っている。いつも自分の子供2人も連れて行くので自然に上手になる。

奥多摩、諏訪湖、富士山、白樺・蓼科、西武園、読売ランドなどの屋外スケート場へも滑りに行った。下手なのですぐ疲れて、端で休んでいると、強風や吹雪がふきつけてくる。零下10度や15度になることも稀では無い。本人と子供2人は休みなく滑っているのでポカポカ温かいという。

中年、いや60歳近い妻がスカートを翻して滑っているのは珍しい光景なので皆が驚いて見ている。日本では中年になるとどうしてスケートを止めてしまうのだろうか?

兎に角、スケート場は筆者にとって地獄だ。2、3時間も辛抱をして、やっと帰路につくとすぐに次は何処へ行こうと相談を始める。これを冬の間、3回から5回やられる。車で行くので逃げられない。

夫婦の義理とは辛いもの。こんな状態が、妻の25歳から60歳まで続いた。還暦になったので、「骨も脆くなっているから怪我しても看病はしないよ」と断言した。そうしたら素直に止めた。これで寒いスケート場通いも終わった。  結婚とは大変なものとしみじみ思う。(続く)


岡本太郎著「青春ピカソ」のご紹介

2008年09月24日 | 本と雑誌

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(絵の出典:http://www.new-york-art.com/Tarou-sakuhin.htm 岡本太郎作品集より)

この本は昭和28年12月に新潮社から出版され、最近、平成12年に新潮文庫として再版された。内容は鬼神のような芸術の天才、太郎が書いたものなので理解出来ない所が多い。しかし、その骨子は、19歳で渡仏した太郎が2年半の苦悩、苦節の後、偶然、ピカソの百号の大作に会った事から始まる。彼は胸が熱くなり、涙がにじんだと書く。ーーー「これだ!全身が叫んだ。・・・撃って来るもの、それは画面の色や線の魅力ばかりではない。その奥からたくましい芸術家の精神がビリビリとこちらの全身に伝わって来る。グンと一本の棒を呑み込まされたように絵の前で私は身動き出来なかった。」---そして太郎はピカソの崇拝者になったが。この崇拝者は崇拝する対象を否定し、権威の座から引きずりおろし、それを超越するという鬼神のような独創の化神なのだ。太郎を不遜な人と非難するのは容易だ。しかし、その前にこの本を読んで貰いたい。

太郎は崇拝する対象を超越するために、ピカソの芸術が何故偉大であるか?を徹底的に研究し、その結果を整理し、素人にも分かりやすく書こうとしたのが、この本の内容である。分かりやすく書こうとする努力は分かるが、凡庸の身には理解を超える所が多い。従って書評は書けない。本の終わりにある詩人の宗 左近 氏の書評が良い。

そこで、自分が感動した2ケ所だけを紹介する。

偉大な芸術家を褒めたたえるだけで、その欠点を分析し、その芸術を否定しない日本人が多すぎる。その態度の目的は、芸術の権威者を褒め称え、ついでに自分もその権威を借りて、権威者になろうとしているのだ。これは俗物であり芸術家では無い。---まあ、そのような意味のことを書いている。ピカソの絵は嫌いだが、太郎の絵が好きだ、と言うのも自由だ。他人に馬鹿にされるより自分の頭で何を感じ、考えたか?が重要なのだ。恥ずかしいことは何もない。

これは学者というものを職業にしている人々にもあてはまる。欧米の偉大な学者を褒め称えるだけで、それを乗り越えようとしない学者が日本には多過る。

もう一つの所は絵画鑑賞が絵を描くと同じように独創的な仕事であるという所である。彼の文章を引用すると長くなるので、本書の27ページと28ページにある「観賞と創造」の節をご覧頂きたい。

岡本太郎美術館へ行くと精神の高揚もあるが、一方で何故か酷く疲れる理由が分かったような気がする。好きな画家の美術館へ行くと疲れるのは何故かが分かる。この本の紹介ほど難しいものは無いので、皆様へ是非ご一読をお勧めしたい。

(終わり)


秋の雑木林の散歩ー南北朝の戦いを偲びつつ、

2008年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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東京都府中市は律令国家、むさしのくに の国府のあった古い町である。その北地区に都立浅間山公園があり、雑木林が山を覆っている。今日は、爽やかな秋風に誘われて雑木林の中の散策へ出かけた。

雑木林の中はほの暗く、見上げると緑豊かな樹冠の間から秋空が見える。まだツクツク法師蝉が夏を惜しむかのように鳴いている。

雑木林に魂を吸い取られたような気分で尾根づたいに歩いていた。尾根の南端、人見街道の近所に来て南北朝の戦いのことを思い出した。

この山の南下に広がる、人見ケ原では北朝方の足利尊氏軍と南朝方の新田義興・義宗兄弟軍が1352年に死闘を繰り広げたところである。地侍の人見四郎も加わったとも言われている。尾根の南端には人見四郎の墓もたっている。

思えば、1336年から1392年までの南北朝時代は、日本の歴史で特異な時代である。天皇が同時に2人居たのだ。足利尊氏と北朝に組する地方の武将と、南朝方へ忠誠を誓う武将たちと壮絶な戦が続いた。

このブログでも以前、4月3日掲載記事で取り上げたが、岩手県北部の八戸南部藩の南部師行は、南朝側の北畠顕家の部下として足利尊氏を討つため京都・大阪方面へ2度も遠征した。しかし2度目には足利軍に負け、1338年泉州石津(現在の堺市)で死ぬ。

散策の帰り道は、南北朝の動乱の時代の武士や農民の気持ちなどを偲びつつ歩いた。このような内戦の無い時代に生まれたことを感謝せずには居られない。

(終わり)

撮影日時:9月24日午前11時前後、撮影場所:東京都府中市、都立浅間山公園にて


夫婦の義理(1)ヨットへ一緒に行く

2008年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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1961年にオハイオ州で結婚式をあげた。当時のアメリカではどんな場面でも夫婦は、腕を組んでいた。公園でも映画館でも。あまりの徹底ぶりに驚いて、友人のアメリカ人に訳を聞いた。答えによると、それは夫婦の義務で、そうしていないと、「離婚交渉中」と見られるのだそうだ。そんな所で新婚を過ごしたので、夫婦の義務として、遊ぶときも一緒にするようになった。夫婦の義務を義理と読み替えて。

そのお陰で老妻も4回に一度はヨットへ一緒に行く。ヨットは妻にとって地獄。日焼けはするし、暑いし、寒いし、作業は厳しいし、危ないしで大変だ。夏にはパラソルを開いて乗っている。そんなヨットは皆無なので、他のヨットが少し近づいてきて、不思議そうに見て離れて行く。

義理で20年行っているので、ヨットのことを覚えて、あれこれコメントする。セールが少したるみ過ぎているとか、もっと風上へ登れるとか。知っていることを言われていささか不愉快だが、義理で来てもらっているので我慢して、言われる通り修正する。

風が弱い時はキャビンの中で波音を聞きながら寝ている。揺り籠のように波が船を動かしている。

夫婦の義理で良く一緒に遊ぶが、それが一方にとってはつらい思いをしていることも多い。そんなことなどを、「夫婦の義理」という随筆シリーズとして書いて見たいと思う。(続く)


晴れたのでヨットへ行きました

2008年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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今日は晴れたので、久しぶりにヨットへ行ってきました。向こうからベンツ社製のジェットフォイール船が高速で迫ってきます。でも帆走船が航路の優先権がありますので避けません。下手に避けると先方が混乱して、衝突します。本当にぶつかりそうになるまで、此方は舵を切りません。風が止まったり、強風が吹いたりの、変な風の日でしたので、ジブセール1枚で、のんびり秋の日のセイリングを楽しんで来ました。

(終わり)

撮影日時:9月23日午前11時30分頃、撮影場所:霞ヶ浦、土浦港口の外にて


どんどん痩せるダイエット法とグログ

2008年09月22日 | うんちく・小ネタ

9月1日に80キロカロリーを1点と勘定して、毎日平均12点以下に食事を減量する点数制ダイエット法を始めてから、今日で21日が経過しました。途中で中休みを3回ほどして、一日22点くらいの暴飲暴食をいたしました。

でもブログで1週間毎にご報告しようと思っているので、体重減少が着実にすすみ、今日現在では、始めに69キロあったのが65.0キログラムまで下がりました。66キロから65キロまでが大変でした。腕時計がゆるくなり、結婚指輪が指から簡単に抜けるようになりました。腰のバンドも目が一つ少なくなりました。

体の調子は空腹を我慢すれば快調の一語につきます。目標は64キログラムなのでもう10日くらい続行する予定です。(終わり)


楽しくて、考えさせる数々のブログのご紹介

2008年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを書いていると、他のブログも見るようになります。

サイドバーの「推薦したい他のブログ」の欄には下の8つのブログを出してあります。

http://sizen068.blog95.fc2.com/ 鬼家(オニイエ)雅夫 さん。山梨の山荘と自然の美しい写真のブログ。筆者のブログの師匠です。

http://www.gan-sho.book-store.jp/sub4.html 木内光夫文学会。伊東市近辺の地域文化を支える文学会の作品紹介を中心にしたブログ。木内光夫さんは鬼家雅夫さんの実弟です。

http://blog.goo.ne.jp/hanamusasiちひろさんのブログ。琵琶湖周辺にお住まいの方で近辺の風景写真が素晴らしい。鋭い芸術的感性を感じさせる写真が印象的なブログです。

http://blog.goo.ne.jp/koiredawa 水戸市にお住まいの玲さんのブログ。写真が美しい。なにか女性らしい柔らかな感性を思わせる写真。写真術も抜群です。

http://blog.goo.ne.jp/mugi411 mugi さん。イスラム文化圏、インド・中近東の歴史、文化にかんする学問的研究や評論のブログ。写真は無い、正座して読むブログです。

http://968yasan.blog51.fc2.com/ トリフォリューム レベンス さん。那須高原で色々なクローバーを栽培し、「クローバー王国」を作っている方。女王様の風格の方です。

http://homepage2.nifty.com/fledermaus/index.html、「昼のガスパール」というブログ。 オペラとウイーン文化のブログです。

http://koto-dama.cocolog-nifty.com/blog/ mikaさんの宮澤賢治の作品などの朗読のブログです。プロの演劇人、みか さんの朗読は感動的です。

以上8つのブログについては、以前に何度かご説明しました。

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今回は下の5つのブログをご紹介したいと思います。

http://blog.livedoor.jp/ricecurry2007/ machan さんのブログ、

http://asiancloth.blog69.fc2.com/  ひかるのさんのブログ、

http://www.ashia.to/profile/show/id/52346 カルフォニア観光さんのブログ、

http://kitta1001.blog27.fc2.com/ きった さんのブログ、

http://fanblogs.jp/dryuki/ ゆき さんのブログ、

machan さんは大阪にお住まいで、毎日のニュースに対してご自分の意見を簡潔に書いています。ニュースが出ると即刻、コメントが掲載されます。視点がマスコミの視点と異なり大声で、「賛成だ!」と叫びたくなることが多いのです。速報なので緊迫感もあります。写真は時々有りますが、基本的には読むブログです。

ひかるの さんのブログは、お住まいのカトマンズとバンコックを中心にして、広くインド、ベトナム、ラオス、カンボジアなどの南アジアの染織と日常生活に関するブログです。カトマンズに関するブログは別のURLです。

http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season/archive

写真も多いのですが、文章も良いブログです。日本が高度成長で失った家族や人間同士の暖かい関係を描いた写真や文章には何か考えさせられます。

カルフォルニア観光さんのブログは現地にお住まいの若い女性の方のブログです。カルフォルニアの観光案内とワインやチーズの宣伝のためのブログです。


霧の高原に咲く花々

2008年09月22日 | 写真

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草津、白根山頂近くの高原には霧が流れ、紅葉が少し始まっていました。

リンドウやミヤマウスユキソウが咲いています。ナナカマドやヌルデが紅葉しかけ、秋の高原を彩っています。拙い写真ですが、霧の高原の花々をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

撮影日時:9月17日午後3時頃、撮影場所:群馬県草津、白根山、山頂南斜面、

撮影者:Mrs.藤山  (終わり)


外国体験のいろいろ(67)中国とロシア、中国と日本の関係の奥底

2008年09月21日 | 旅行記

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◎ロシアの無神経さが中国人の植民地主義への怨念をかきたてる

中国の5000年の歴史で、西洋人に侵略され植民地になったことは歴史的大事件だ。その期間は清朝から1949年の共産国家としての独立までの約100年に及ぶ。

1981年に北京の大学へ集中講義に行った際、親しくなった教授から「1959年にソ連と中国が大喧嘩をした理由を知っていますか」と聞かれたことがある。

「日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっている」と私が答えた。

この教授は苦笑いして「イデオロギー論議なんて高尚な話ではない。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからである。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということだ」

「それは知らなかった」「毛沢東は断固拒絶した。ソ連は中国全土から引き揚げる時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収した。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残った」

中国人はロシアが中国全土を植民地にしようしたという怨念を忘れない。

@日本が武漢、桂林まで武力占領したことを忘れてはいけない

中国人は面と向かって、日中戦争の話は絶対にしない。でも忘れてはいけない。

昭和12年から日本が一方的に始めた日中戦争で、蒋介石の中国軍を追い、武漢、桂林まで軍事占領した事実を忘れてはいけない。この戦争は8年間続いた。

中国は現在、経済発展の為に、中国全土の工業特区に、欧米や日本の企業の工場を誘致している。しかし、工業団地は周辺の貧しい農村とあまりにも違う。特区の恩恵にあずからない貧困農民には、工業特区がかつての外国租界と同じように見えるに違いない。

現在、中国は北京オリンピックの成功で国全体は良い雰囲気だという報道が多い。だからと言って日本人は、かつて中国を8年間ちかく武力占領したという事実を忘れてはいけないと思う。

 

1994年に河北省を訪問した。首都の保定市の工業特区を見学する。

東京のある会社が工場を作り大きな利潤を上げていた。水道関連設備を製作している会社で日本の工場を完全にたたんで中国へ移転したという。そんなリスクの大きいことをした社長がしみじみと言っていた、「日本の武力占領の時代を忘れないようにしている限り、中国では会社が利潤をあげられる」 

失敗した会社は、その社長や幹部が過去の武力占領を忘れていたからだと言う。真偽のほどは分からない。しかし外国と付き合う時、歴史抜きで付き合うと必ず失敗するのは本当のような気がする。

日本の若い人々は関係ないと思うだろうが、被害を受けた方は決して忘れない。それが人間のさがだからである。倫理ではなく、利潤を上げるためにも忘れないほうが良い。忘れないことと、卑屈になることは別だ。(続く)

写真の出典 ;http://www.arachina.com/photos/guilin/157.htm 


軽井沢奥の白糸の滝ー何処を注意して見るか?

2008年09月21日 | 写真

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この滝の上には川が一切無い。水平な緻密な岩の上に水を通うしやすい砂のような土が重なって斜面を作っている。裏山に降った雨が絶えず土層を通って、水平な岩の上にたまり滲みだし、水平に広がる滝になる。岩の上が水平なので幅いっぱいに水が万遍なく落ちるので、幾千条もの白い糸を広く垂らしたように見える。このタイプの滝は富士山の西南にもある。それも白糸の滝という。滝の下流は堅い岩で出来た谷川になるので、水が階段状に流れ下る。その様子を写したのが下の3枚の写真です。全国各地に同じような名前の滝があるのではないかと思う。(終わり)

撮影日時:9月17日午後1時ころ、撮影場所:長野県軽井沢町、旧三笠ホテル奥の白糸の滝にて。


カトリックの葬儀

2008年09月20日 | うんちく・小ネタ

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今日は教会でお世話になったトマス・M.S.氏の葬儀がありました。

葬儀のミサは毎日曜日のミサと同じような次第ですが、説教はなく、神父様による故人の生涯の説明があります。賛美歌や、お祈りの後、最後に参列者による献花があり、賛美歌を歌いながら出棺を見送ります。

イエス様が教会まで降りてこられてトマスの手をとって連れて行かれるような感じがします。とても荘厳な雰囲気が会堂にあふれます。天に召されるのだと思っても、お年を召した奥様の悲しみが伝わり、粛然とした気持ちで座っておりました。

写真は主任司祭の山本量太郎神父様が信者に聖餅を与えるためトマスの棺の前に出て来られたところです。

いつものミサよりも神秘的でイエス様が身近に感じられました。

日曜朝のミサは明るくて楽しく、イエスさまに勇気づけられて、元気になって教会を出て来ます。

お葬式は悲しいものとは分かっていても淋しいものです。

仏教のお葬式にも出ることが多い年齢になりました。お世話になったり、一緒に仕事をした方々が次々に旅立って行きます。中には生前に、お別れの手紙を下さる方も居られます。心の準備が出来ますので有り難いと思いながら、淋しくなります。

しかし年老いてくると、悲しさも静かに受け入れることが出来るようになります。

平穏な境地で、今日もトマス・M.S.氏の為にお祈りして来ました。 (終わり)

9月20日午後、カトリック小金井教会にて、


ホテル趣味のための犠牲

2008年09月20日 | うんちく・小ネタ

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趣味にはいろいろあり、日常生活がある程度犠牲になることが多い。その犠牲が大きいほど面白い趣味である。1969年、ドイツで聞いた、「苦しくても高級なホテルへ泊まりなさい。美味しい食物の味は忘れるが、良いホテルの一泊は一生忘れない」と。

出張の度に高級ホテルには泊まれない。大抵便利なビジネス・ホテル。しかし家人と一緒の時は犠牲を払っても良いホテルに行くようにしている。左の写真は7月7日に紹介した、鬼首ホテル、右は上高地帝国ホテル。どちらも一度行ったら一生忘れられない。違いはある。左は清潔そうな機能的なデザイン、右は伝統的な山小屋風。室内の照明も左は明るく、右は意図的に暗くしてある。従業員のサービスはどちらも良い。しかし左は日本の良い旅館のようなサービス、右は欧羅巴的な、サッパリしたサービス。どちらが好きかは個人の趣味による。

1979年にフランスのヴェルサイユで会議があった。フランス人の知人へ頼む、「内装が美しく、しかも経済的なところを予約しておいて」と。部屋に入ると壁一面に縞馬のような文様がある。これで眠られるのだろうか?ところが10分もすると、少し暗い色のゼブラ模様が何故か心を休ませる。良く眠れる。それ以来、フランスでは内装の美しいホテルに泊まるようにした。知人へ一々頼む手間隙が大変ではあるが。これも犠牲の一つ。フランスのホテルの内装は一見派手な模様に見えるが、しばらくすると心地良い。そして抽象画的な美しさが楽しい。

話はいきなり飛ぶが、クルーザーヨットのフランス艇はキャビンの壁や調度が、色彩豊かで楽しい。しかし、ヨットの上の方についている金具が悪い。日本製に全て取り替えなければいけないという。話がそれたのでこの辺で止めます(終わり)