=======第六章、結婚そして独立==================
浅市が帰ってきて10日が経った頃、道で出会った知人が、「あんたの兄の澤義さんが駅前で共産党の大塚さん(当時の青森の共産党青年局長)となんだか騒いでるよ」と知らせてくれた。
浅市はすぐさま駅に行ってみた。数十人の党員と赤旗を翻し、拡声器で大塚氏がなにやら演説をしていて、その脇で兄が仲間とスクラムを組んでいた。
そこで思い切って浅市は「兄さんを返してほしい」と叫んだ。大塚氏と浅市の議論が大衆を前に始まった。
そこへ兄の澤義が間に入っての大論争になり、天皇制や戦争責任など二時間以上も論じ合ったそうだ。
翌日の新聞の一面に「兄弟のイデオロギー論争白熱」みたいな見出しで大きく載ったそうだ。
その後、家へようやく帰ってきた兄、澤義と論争の続きが三日三晩続いたそうだ。どっちも負けず嫌い、ところが浅市のほうが強情っ張りでは兄の上をいく。
浅市が論破して兄はついに降参したという。どんな内容かは聞いていない。
抜群の記憶力の頭脳とひたむきな思いが兄に通じたのだろうか。
党員をやめた兄、澤義はしばらく目標を失っていたが、長兄と家の仕事をしながら民謡を習い始めた。
青森油川で警察をやめて、津軽民謡を指導していた成田雲竹の一番弟子になったのだった。
師は後に日本民謡協会から名人位、国からは勲五等を受ける。そして後にその兄は弟、浅市の書の道場でで民謡教室を開くことになるのであった。
長男の沢一と次男の澤義の二人が家業に就いたことで身が軽くなった浅市は一層書の勉強に励んだ。また八重との交流も復活した。
ある日、訪ねて行った浅市に対し八重の父がこう言った。
「間山さん!そんなに娘が気にいったならさっさと連れてってくれ!」。
八重は花嫁道具もなく少しの衣類と床屋の道具を持って青森へきた。
ところが段取りもなく浅市の家に来たものだから、母、つえ はただただ驚いて「いやぁ困った困った」と言う。
家には二人の住む部屋もない。浅市の立憲養正会の同志の一人が、うちに来なさいと話がまとまった。
そんなこんなで八重は近所の家を周り、床屋はいかがですか?と働き始めた。
浅市は同志の計らいで、あけび職人を紹介してもらい、そのあけび細工を手伝いながら、二人の新婚生活が始まった。浅市23歳、八重26歳であった。
ほどなくして、八重は妊娠、冬の大寒の1月21日長男が誕生。
親子三人であけび職人の住む側の長屋に引越した。そこで一年後、二男を誕生。(それが私だった)
あけび細工が売れて、順調に生活をしていたが、職人仲間が函館で浅市の売上金をすべて持ち逃げしてしまった。一ヶ月はゆうに暮らせるほどの金だったので、そのショックから立ち直れずに浅市はヤケになりパチンコを毎日するようになった。
それでもミルク代を稼がなければならないので、八重は産後の肥立ちも明けないまま、極寒の冬に周り床屋をしなければならなかった。二男をおぶって長男の手をひき角巻をかぶって吹雪の中を毎日歩いたそうである。
不憫に思った人から衣類や餅やコメなどももらったそうだ。
床屋がダメなときはパチンコで得たタバコを売って生活もしたと聞いた。
そんな生活を、長屋を仕切っていた露天商の親分の◇村さんが心配して、「わしの仕事をよかったら手伝ってくれんか」と誘ってくれた。父は喜んで引き受けたそうだ。
街の繁華街で『ぽんせんべい、お面』など、宵宮では結構頑張って働いたそうだ。
青森市だと世間の目もあったので、もっぱら五所川原とか弘前での仕事だったそうだ。
(世間体は悪いが、このころ一番幸せだった気がすると母は後に話していた。)
露天商を手伝ってることが、実家の兄に伝わり、ある日リヤカー2台もってきて、荷物を積み長屋を引き払ってしまった。
「この大馬鹿者!間山の名さ恥をぬる気だが!おめぇヤクザにでもなるんだが!」
と母親にこっぴどく怒られたそうだ。
そして実家にちかい物置小屋を急ぎ改造した家を当てがられ、「さぁここで習字の塾でもやればいいから」
習字の開塾を5月5日にしてポスターをつくり、街の電信柱に張って歩いたりした。
兄もこんにゃくの配達をしながらも趣意書をお店においてもらった。
みんなの支援で遂に昭和27年、5月5日間山浅市の習字塾が開かれた。
最初に集まったのは20人を超えて、大人のお弟子さんも2名ほどいたという。その晩は祝宴となり、多くの先輩の書道の先生や国柱会、友人たちが集まって門出を祝っってくれた。
米町の道場と外崎先生の懐南書道塾の経験もあってか、指導は問題もなく順調だった。
すこし遅れて看板も出来上がり、屋号は『水茎書道塾』となった。雅号も陵風と名乗ることにした。
明治天皇の御歌の『鏡には映らぬ人の真心を さやかに見ゆる水茎のあと』から引用したのだった。
毎週火木土三回 最初の月謝は100円くらいだったと聞いている。母は相変わらず周り床屋をしていたし、合間に浅市はあけび細工も復活させた。(第七章へ続く)
下は『水茎書道塾』が順調に栄え、その書道展をした折の陵風(浅市)の33歳の時の写真です。その左の水茎展の書はこの記事の筆者の水木りょうさんの9歳の時の作品です。