この書は1959年に発刊されたものの全文訳。著者は、大学で哲学を学び博士号を得たその日にアメリカ陸軍に最下級の一兵卒として応召、4年間の軍務に服した。北アフリカ、イタリア、フランス、ドイツと転戦し、スパイ摘発を任務とする部隊に所属した。この時の戦場体験がこの本の根幹をなしている。その執筆のきっかけとなっているのが当時泥沼化しつつあったベトナム戦争である。
第二次大戦後、朝鮮戦争を経てベトナムへの介入と、アメリカが押しすすめていた戦争政策によって、召集されて戦場にかり出された(主体的に志願した者も多いが)兵士たちが、どうしてソンミ村での虐殺を引き起こすことになっていくのか、ここに重要な問題意識があったようだ。
航空機で爆弾を投下する、その下で多くの敵国人が死に傷つき、焼け出されていく。その最たるものは、ヒロシマとナガサキへの原爆投下、東京下町大空襲、そしてドイツの都市・ドレスデンへの絨毯爆撃・・・。これらは、「現実感のない状態」下での戦争行為(殺人・破壊攻撃)。無自覚のまま、たまたま遠距離から多数の人を殺す者は、自分の行為を釈明しなければならない必要を認めない。あまりにも現実感のない殺人行為だから。
しかし一方では、敵兵との遭遇(白兵戦)の中での戦闘。この場合の兵士達の、あるいは指揮官の心理状態は、どのようなものか。
当時、戦場を転々としながらスパイ摘発、具体的な敵兵(もしくは兵士以外の人間)と常に対峙していながら書き留めていた、自らの日記・メモを折り込みながら、誰もが持ち合わせている人間としての罪の意識、良心の存在が、現実の戦闘行為の中でいかにして失われていくかを内省的にとらえる。また、同僚達の心理状態を鋭く観察していく。自分たちを守り、敵に壊滅的な打撃を与える武器への異常なほどの執着・・・。
敵を人間視しないという考え方、一方で敵は自分と同じ人間であるという考え方。殺人や破壊などに対する罪悪感の消失、命令された行為である(から)として良心の責め苦から逃れることができる。敵人を野蛮な動物に喩えることも、普通に肯定していく。
さらに、常に死と向き合っている極限状態の中で、意識の麻痺、死を肯定せざるを得ない(死は誰彼とえり好みをしないのだ!)という冷酷な現実。本能的な自己保存欲、戦闘中に頂点に達する仲間・連帯意識(自らの死、他者の死を戦友と共有する)。
戦争が終わっても、再び戦争を望み、懐かしむ心の存在。そういう果てしもない戦争への願望。
筆者は、そこに我々はどう変わらなければならないのか、という問題提起として、自然や事物への関心、とりわけ、人間は勿論、自然を含む人間以外の他者との親密な関係を作り上げていくこと。すなわち「現実感のない」自然観を乗り越えることを主張する。
ニーチェの言葉を引用しながら、「人間と自然が遊離してしまったことが20世紀に発生した全面戦争の原因の一端にある。・・・原子爆弾の開発などは現代精神の典型で究めて危険なものに思われる。最近(注:1950年代後半の時点)行われた水素爆弾の実験などは神への冒涜である。この種の実験によって海の魚を汚染することが、非難に値するとは誰も考えていないようである。・・・」と。
この書が世に出て50年以上経っても、なおまだ人間の精神は成長していない。