毎年発刊されている、このアンソロジー、ひところは老人の死あるいは老境を扱う、老々介護を含めて、そういう類の作品が多かった。書き手も読み手も、というか読者層の老人化がかなり進行していた。日本的私小説世界の中で、現実世界を描きながら、激しく動く現実にはほとんどコミットしないまま、次第に文学の衰退も現実化していく。その中で、いつしか女性作家が次第にその地位を固め、独特の元気な作品が多くなった時もあった、・・・。
そして今回。昨年発表された作品から選び、編集され、発刊された。しかし、一方で、我々は3.11という未曾有の大地震・大災害。そして、フクシマ原発の大惨事、という出来事にいまだに収拾が付かないまま、政治も経済も混沌として、方向性を見いだせない現実世界のまっただ中に置かされている。
これらの作品が3.11以前に発表されたものであることを踏まえてもなお現実に関わってある種の光明、または諦め、あるいは虚無、、、など今の日本の状況下での一人一人の精神生活にどのような影響を与えうるか、それともまったく無意義か。あらためて文学の持つ意味が問われてきている。
そういう意味で、今回の20の短編作品の中では、立松和平の「鉄腕ボトル」と津村節子の「異郷」にひかれた。それはたぶんに前者はこの作品発表後に亡くなった方であり、後者は亡くなった夫の吉村昭に関わる話だからだ。それにとどまらず、飲みっぷりが豪快で自分をさらけ出して生きた編集者への回顧談を装いつつ、その死後、何年も経ってその妻や子ども達の行方を知らない現実をさりげなく描いて終わりにする手法。立松和平も亡くなってしまった。
後者は、夫が死んで3年。世間の煩わしさから逃れるようにホテルに長逗留にしつつも、長年連れ添っていながら「死ぬ時を定めていた」夫に気づかぬ己などかえって夫の死という現実から逃れない己の存在を捉え直して、帰京する。その後、夫の死ととことん向かい合った連作を発表することにつながる布石となった作品。
川上弘美の「小鳥」は、不思議な川上ワールドを示して、とても面白かった。高橋源一郎もしかり。中上健次の娘の作品も掲載されているが、読後感はイマイチ。
冒頭の解説のリーダー文で沼野充義氏が記すように「終わりと始まりー死を悼み、生を寿ぐ小説の営み」が、今後どのように新たな読者を作り出していくかが問われていると思う。それが3.11を痛切に体験しつつある我々へのメッセージ性を獲得する文学の役割ではないか、作者と読者の営為として、想定外の事実に押しつぶされてしまいそうな現実を目の当たりにしての。事実は小説よりも奇なり、などと嘯く暇などない。
そして今回。昨年発表された作品から選び、編集され、発刊された。しかし、一方で、我々は3.11という未曾有の大地震・大災害。そして、フクシマ原発の大惨事、という出来事にいまだに収拾が付かないまま、政治も経済も混沌として、方向性を見いだせない現実世界のまっただ中に置かされている。
これらの作品が3.11以前に発表されたものであることを踏まえてもなお現実に関わってある種の光明、または諦め、あるいは虚無、、、など今の日本の状況下での一人一人の精神生活にどのような影響を与えうるか、それともまったく無意義か。あらためて文学の持つ意味が問われてきている。
そういう意味で、今回の20の短編作品の中では、立松和平の「鉄腕ボトル」と津村節子の「異郷」にひかれた。それはたぶんに前者はこの作品発表後に亡くなった方であり、後者は亡くなった夫の吉村昭に関わる話だからだ。それにとどまらず、飲みっぷりが豪快で自分をさらけ出して生きた編集者への回顧談を装いつつ、その死後、何年も経ってその妻や子ども達の行方を知らない現実をさりげなく描いて終わりにする手法。立松和平も亡くなってしまった。
後者は、夫が死んで3年。世間の煩わしさから逃れるようにホテルに長逗留にしつつも、長年連れ添っていながら「死ぬ時を定めていた」夫に気づかぬ己などかえって夫の死という現実から逃れない己の存在を捉え直して、帰京する。その後、夫の死ととことん向かい合った連作を発表することにつながる布石となった作品。
川上弘美の「小鳥」は、不思議な川上ワールドを示して、とても面白かった。高橋源一郎もしかり。中上健次の娘の作品も掲載されているが、読後感はイマイチ。
冒頭の解説のリーダー文で沼野充義氏が記すように「終わりと始まりー死を悼み、生を寿ぐ小説の営み」が、今後どのように新たな読者を作り出していくかが問われていると思う。それが3.11を痛切に体験しつつある我々へのメッセージ性を獲得する文学の役割ではないか、作者と読者の営為として、想定外の事実に押しつぶされてしまいそうな現実を目の当たりにしての。事実は小説よりも奇なり、などと嘯く暇などない。