まもなく9月1日。関東大震災。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生。
3月11日の東日本大震災そして福島第一原発の大事故。いまだ復旧のメドが付かないまま、半年が過ぎようとしています。一方で、政治はますます混沌としていくばかり。
3年前。次のような記事を載せました。今も昔も変わらない、というか愚かな歴史を繰り返してはならないと思います。再掲しました。
写真は、墨田区・春日通り、大横川にかかる横川橋東詰にある「震災慰霊碑」。関東大震災の際、より安全な場所として避難した避難先や火に追われた人々が集まった場所が、火災旋風に襲われたり、火に囲まれて脱出できなかったりして、多くの人々が犠牲となった。
中でも、本所被服廠跡(現在の墨田区横網町公園)。火災旋風が発生し、約4万4千人が焼死または窒息死した。他にも下町の橋の袂や広場で多くの人が犠牲になった。
そのうちの一つが、東京都墨田区横川1丁目、横川橋の袂。ここに、追悼碑がある。揮毫した人物が、戦前の軍人・政治家だった「斉藤実」。2・26事件で暗殺された。
1932(昭和7)年の5・15事件でショックを受けた昭和天皇は、「ファッショに近い者は絶対に不可」との強い気持ちだった。一方、軍部や立憲政友会右派の森恪らは、右翼に近い平沼騏一郎を担ごうとしていた。
元老・西園寺公望は当初、それまでの二大政党制のもとで、政党内閣を続けるつもりだったが、軍内部の状況を知るに及んで、政党内閣ではもたないと判断した。天皇の意向に応え、しかも、軍部も正面切って反対できない候補として、齋藤を首相に指名した。これによって、政党政治は終わりを告げた。
蔵相・高橋是清と手を組んで、経済恐慌に苦しむ農村の救済に一定の業績を上げたが、外交問題では軍部の要求通り満州国を承認した。国内政治の安定を最大の眼目に置き、軍部との決定的対立は避けたのである。
それでも、軍部は齋藤のリベラル臭を嫌い、嫌がらせを続け、閣僚のスキャンダル暴きに狂奔した。その犠牲になって辞任する閣僚も出たが、齋藤は後任人事を務め抜き、何とかしのいだ。
しかしながら、帝人事件で大蔵次官らが逮捕されるに及んで、ついに内閣総辞職に追い込まれた。百十数人が収監されながら、公判では全員無罪という奇怪な事件だった。検察の平沼閥、軍、政友会右派らが仕組んだ「空中楼閣」説さえある。
齋藤内閣は部分的には抵抗しつつも、総体としては日本の軍国主義化の流れを止めることはできなかった。各方面の妥協で生まれた「挙国一致内閣」の限界といえよう。
ともに滞米経験があり親英米派だった高橋と斎藤は、それから4年後、1936(昭和11)年の2・26事件で殺害される。
内大臣(前総理・子爵・予備役海軍大将)斎藤實は、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受ける。
襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を制圧して、特に抵抗もなく内府の殺害に成功する。他に犠牲者はいない。斎藤の体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、彼の体には摘出不可能な弾丸がなお多く存在していた。
目の前での殺人に妻春子は「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴もうとした。その結果腕に貫通銃創を負う。春子はひるまず、なお斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさったという。春子の傷口はすぐに手当がなされたものの化膿等により、その後一週間以上高熱が下がらなかった。
春子は1971年(満98歳)まで生存したが、晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。この事件発生当時に着用していた斎藤実および春子の衣服が斎藤実記念館に現物展示されている。
「挙国一致内閣」今は、「挙党体制」とか「挙党一致」で民主党の代表選。首相選びが
始まって、相変わらず党員としての権利を剥奪され、代表戦に投票権のない小沢さんが影で取り仕切っている(というか表面に出てくる)、実におかしな、それ故、長年の「日本の政界」の構造そのものです。
3月11日の東日本大震災そして福島第一原発の大事故。いまだ復旧のメドが付かないまま、半年が過ぎようとしています。一方で、政治はますます混沌としていくばかり。
3年前。次のような記事を載せました。今も昔も変わらない、というか愚かな歴史を繰り返してはならないと思います。再掲しました。
写真は、墨田区・春日通り、大横川にかかる横川橋東詰にある「震災慰霊碑」。関東大震災の際、より安全な場所として避難した避難先や火に追われた人々が集まった場所が、火災旋風に襲われたり、火に囲まれて脱出できなかったりして、多くの人々が犠牲となった。
中でも、本所被服廠跡(現在の墨田区横網町公園)。火災旋風が発生し、約4万4千人が焼死または窒息死した。他にも下町の橋の袂や広場で多くの人が犠牲になった。
そのうちの一つが、東京都墨田区横川1丁目、横川橋の袂。ここに、追悼碑がある。揮毫した人物が、戦前の軍人・政治家だった「斉藤実」。2・26事件で暗殺された。
1932(昭和7)年の5・15事件でショックを受けた昭和天皇は、「ファッショに近い者は絶対に不可」との強い気持ちだった。一方、軍部や立憲政友会右派の森恪らは、右翼に近い平沼騏一郎を担ごうとしていた。
元老・西園寺公望は当初、それまでの二大政党制のもとで、政党内閣を続けるつもりだったが、軍内部の状況を知るに及んで、政党内閣ではもたないと判断した。天皇の意向に応え、しかも、軍部も正面切って反対できない候補として、齋藤を首相に指名した。これによって、政党政治は終わりを告げた。
蔵相・高橋是清と手を組んで、経済恐慌に苦しむ農村の救済に一定の業績を上げたが、外交問題では軍部の要求通り満州国を承認した。国内政治の安定を最大の眼目に置き、軍部との決定的対立は避けたのである。
それでも、軍部は齋藤のリベラル臭を嫌い、嫌がらせを続け、閣僚のスキャンダル暴きに狂奔した。その犠牲になって辞任する閣僚も出たが、齋藤は後任人事を務め抜き、何とかしのいだ。
しかしながら、帝人事件で大蔵次官らが逮捕されるに及んで、ついに内閣総辞職に追い込まれた。百十数人が収監されながら、公判では全員無罪という奇怪な事件だった。検察の平沼閥、軍、政友会右派らが仕組んだ「空中楼閣」説さえある。
齋藤内閣は部分的には抵抗しつつも、総体としては日本の軍国主義化の流れを止めることはできなかった。各方面の妥協で生まれた「挙国一致内閣」の限界といえよう。
ともに滞米経験があり親英米派だった高橋と斎藤は、それから4年後、1936(昭和11)年の2・26事件で殺害される。
内大臣(前総理・子爵・予備役海軍大将)斎藤實は、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受ける。
襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を制圧して、特に抵抗もなく内府の殺害に成功する。他に犠牲者はいない。斎藤の体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、彼の体には摘出不可能な弾丸がなお多く存在していた。
目の前での殺人に妻春子は「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴もうとした。その結果腕に貫通銃創を負う。春子はひるまず、なお斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさったという。春子の傷口はすぐに手当がなされたものの化膿等により、その後一週間以上高熱が下がらなかった。
春子は1971年(満98歳)まで生存したが、晩年に至るまで当時の出来事を鮮明に覚えていた。この事件発生当時に着用していた斎藤実および春子の衣服が斎藤実記念館に現物展示されている。
「挙国一致内閣」今は、「挙党体制」とか「挙党一致」で民主党の代表選。首相選びが
始まって、相変わらず党員としての権利を剥奪され、代表戦に投票権のない小沢さんが影で取り仕切っている(というか表面に出てくる)、実におかしな、それ故、長年の「日本の政界」の構造そのものです。