1969年(昭和44年)8月9日公開の時代劇。フジテレビ、勝プロダクション製作。
動乱の幕末時代を舞台に、京の都を震撼させ、その名を轟かせた土佐の最強の剣士・岡田以蔵の半生を描いた。司馬遼太郎の小説『人斬り以蔵』をもととしている。
《あらすじ》
岡田以蔵は、土佐の貧乏郷士に生まれ育ち、酒と女に目のない暴れ者だった。そんな彼を“人斬り以蔵”とまで呼ばれる刺客にしこんだのは、土佐勤王党の首領・武市半平太。冷酷な革命家・武市は、自分の政策遂行の上で、暗殺者としての腕を必要とした。
土佐藩主の執政・吉田東洋を門出の血祭りにあげる。このとき、以蔵は半平太に呼び出され、東洋暗殺の現場を視察せよと命じられる。その夜の見聞が、以蔵を変えた。以蔵は、人斬りとしての本能を呼び醒ましてゆく。「天誅」という言葉を何度も繰り返す。
京に上った二人は、以蔵の手で敵対者を次々に暗殺、この活躍は、薩摩の人斬り田中新兵衛と比較されるほどになった。瑞山と号した武市は勤皇一派の中心人物となり、京都で栄華を尽くしていく。そのもとで、以蔵にとっての関心事は、女郎おみのを抱くことと、姉小路邸で見かけた綾姫を偲ぶことだった。
その後、以蔵は武市の命に従わず、渡辺金三郎等を襲って目覚しい働きをみせるも、藩名と自身の姓名を声高に叫んだ失態を武市に厳しく叱責される。
以蔵はいったんは武市から離反する動きを起こそうとしたが、女郎のおみのに武市に謝罪することを薦められ、以蔵はますます武市の命ずるまま人斬りの運命から逃れる事が出来なくなっていく。
ある日、武市は、以蔵に新兵衛の刀を持たせ、自分を後だてにしていた姉小路を暗殺させる。この件で嫌疑をかけられた新兵衛は、自ら切腹して果てる。
姉小路卿を斬った直後から以蔵は酒に溺れるようになり、浪人狩りの網にかかった以蔵は、武市からも冷たく見捨てられ、厳しい拷問にかけられた。報酬に30両をせしめた以蔵はおみのを苦界から救い出すが、自分の立場の惨めさを思い知らされた。
そんな以蔵に人斬りをやめるよう忠告したのは、坂本竜馬。竜馬は新しい日本をつくるために自分と行動を共にすることを勧めたが、しかし、以蔵は、武市の「飼い犬」として流れに押し流されてゆく。
土佐藩執政吉田暗殺事件が露見し、武市一派は土佐に呼び戻され、取り調べられた。武市にとっては無用になった以蔵を自らの立場を守るために使者に毒をいれた酒を持たせる。九死に一生を得た以蔵は、武市一派の行状を暴露した。
5月、土佐の春祭りの囃子を遠くに聞きながら、以蔵は磔の刑によってその数奇な生涯を閉じる。
《スタッフ》
監督:五社英雄
脚本:橋本忍
参考文献:司馬遼太郎『人斬り以蔵』
撮影:森田富士郎
音楽:佐藤勝
美術:西岡善信
《キャスト》
岡田以蔵:勝新太郎
武市半平太:仲代達矢
田中新兵衛:三島由紀夫
おみの:倍賞美津子
綾姫:新條多久美
姉小路公知:仲谷昇
松田治之助:下元勉
皆川一郎:山本圭
おたき:賀原夏子
勝海舟:山内明
牢名主:萩本欽一
吉田東洋:辰巳柳太郎
坂本竜馬:石原裕次郎
主人公・岡田以蔵に扮したのは、勝新太郎。冷徹な殺人者というイメージではなく、どこか泥臭く人間味がある硬骨漢として描かれ、新たな「人斬り以蔵」像を作り上げている。
一方、以蔵の生涯を支配する存在となった土佐勤皇党盟主・武市瑞山役には、仲代達矢が扮し、一方で清廉な革命家、一方で冷徹、非情な政治家として描いた。

武市とは異なる手法で倒幕を図る坂本龍馬役には石原裕次郎が扮し、時に人斬りの道を邁進する以蔵を諌め、また以蔵の苦境を救う存在として登場。
さらに以蔵と並ぶ「人斬り」薩摩藩士・田中新兵衛を演じたのは、三島由紀夫。切腹することで鮮烈な印象を残したが、その翌年、自身も壮絶な切腹死を遂げることとなった。以蔵が愛する女郎おみのには、倍賞美津子が扮した。

今観ると、勝新太郎をはじめ、役者揃いの映画。なかでも、勝の存在感は見事。感情表現も動きも抜群。

まだお坊ちゃん・裕次郎もまったく形無し。

能面・三島由紀夫の切腹場面は、たしかに1年後の実際を彷彿とさせる鬼気迫るものがあった。


しかし、勝新以外は、まったく時代劇向きではないことが判明した感じ。でも、ストーリー的には、なかなかよく出来た時代劇。
さて、実際の岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日(1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、映画で描かれた人物像とは異なるようだ。(以下「Wikipedia」より)
土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)に二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれる。嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父・義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。
武市瑞山(半平太)に師事し、はじめ小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。安政3年(1856年)9月、瑞山に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。翌年、土佐に帰る。
万延元年(1860年)、時勢探索に赴く瑞山に従って、同門の久松喜代馬、島村外内らと共に中国、九州で武術修行を行う。その途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するであろうと武市が配慮し、豊後岡藩の藩士に以蔵の滞在と、後日、藩士江戸行の便ができたとき随行させてもらえるよう頼んだ。武市と別れ、以蔵のみ岡藩にとどまり直指流剣術を学ぶ。文久元年(1861年)、江戸に出て、翌年土佐に帰る。その間、武市の結成した土佐勤王党に加盟。文久2年6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。
これ以降、土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付けの井上佐市郎の暗殺に参加。 また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。 越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。 このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられたと言われる。しかし同時代の史料では同志から「天誅の名人」と呼ばれても、「人斬り」という呼称が使われた形跡は確認できない。一般的に「幕末四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、創作物によって「人斬り」の名が定着したものである。
以蔵は瑞山在京時の文久3年(1863年)1月に脱藩、その後八月十八日の政変で土佐勤王党は失速。 脱藩後の以蔵は、土佐勤王党員の記録から長州藩邸の世話になっていたと推察される。その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、同志と疎遠になった後は一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に行っていたという逸話が残っているが、いつしかその龍馬らにも見放され、無宿者となるほど身を持ち崩した。
元治元年(1864年)6月頃、犯罪者として幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺に関して首領・武市瑞山を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられた。
投獄後の以蔵は、拷問により暗殺に関与した仲間等を次々に自白し、これが土佐勤王党崩壊の端緒となる。以蔵の自白が引き金となり、まだ捕らえられていなかった同志が次々と捕らえられて入牢した事、吉田東洋暗殺の背後には山内家保守派層の関与が公然の秘密であった事から、同志はお家騒動への発展を恐れ以蔵毒殺計画が仲間内で相談される。しかし強引な毒殺は瑞山や島村寿之助らが止め、以蔵の弟で勤王党血盟者である啓吉に、以蔵の父から毒殺の許可、ないしは自害を求める手紙を寄越すよう獄外の同志に連絡を取らせる。これらの遣り取りの間に、瑞山の弟・田内衛吉は拷問に耐え切れず兄に毒薬の手配を頼み自害、島村衛吉は拷問死。獄中書簡に依ると、結局以蔵に毒は送られることなく結審を迎えたと考えられている。慶応元年3月25日岡本次郎書簡武市瑞山宛では以蔵に関して「是迄の不義、血を出して改心」と伝えており、自白を反省していた様子が伺える。
『土佐偉人伝』によれば、同囚中の志士・檜垣直枝が自白した以蔵を励まし「拷問の惨烈なるは同志皆はじめから期するところなり、子その痛苦に忍ぶあたわざれば、速やかにその罪を自白して、早く死地につけ、必ず同志の累をなすなかれ」と説得に当たり以蔵はこれにより慚憤したとなっている。
以蔵は死刑言い渡しの際、瑞山によろしく伝えて欲しいと牢番に伝言を頼んだ。しかし、瑞山の手紙ではその厚顔無恥ぶりを呆れられている。なお勤王党の獄で以蔵の自白により真っ先に犠牲になった者は、武市の身内であった。
『土佐偉人伝』(寺石正路)には「天資剛勇にして武技を好み、躯幹魁偉にして偉丈夫たり。宜振、はじめ勇にしてあと怯なり。人みなこれを惜しむ。武市瑞山もまたその粗暴にして真勇なきをもって大事を謀らず、しかも少壮殺人を嗜みて人を斬る草の如く。その挙、おうおう常軌を逸す(中略)末路、投獄同志みな鉄石漢にして拷問の惨苦なるも忍んで一言を発せず、しかるに宜振、独りその苦痛に忍びず罪案を白状し累を同志に及ぼし遂に勤王の大獄を羅織せしは遺憾というべし」と書かれている。
『維新土佐勤王史』には「血気の勇はついに頼むに足らず、全く酒色のために堕落して、当初剣客なりし本分を忘れ、その乱行至らざる所なく、果ては無宿者鉄蔵の名を以て、京都所司代に脆くも捕縛せられぬ」とある
慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。享年28。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」。墓所は高知県高知市薊野駅近郊の真宗寺山(しんしゅうじやま)にある累代墓地。宜振の名で埋葬されている。
以蔵の人物像を決定づけたのが司馬遼太郎の『人斬り以蔵』(1964年)である。
以蔵に関しては「獄中で毒を送られた以蔵がそれに勘付き、武市らによる自身への毒殺未遂を恨んで自白に及んだ」というエピソードが有名だが、これは司馬遼太郎の創作である。司馬版『人斬り以蔵』では、父は郷士だが以蔵自身は他の同志より身分の低い最貧困層出身で軽んじられ、粗暴で余りにも教養・道徳心に欠けた人物であり、よって汚れ仕事(人斬り)を専門に請け負わざるを得なかったという描かれ方になってる。しかし研究者によると貧民ではなく一般的な郷士の子息としての教育は受けていたこと、天誅は複数の仲間と相談の上で協力し、また天誅希望者が殺到するほど競い合って行っていたことなどが判明している。
2010年大河ドラマ『龍馬伝』の放送によるイメージアップを機に、地域の史跡研究会有志などによる、以蔵のための慰霊祭が初めて開催される。
土佐藩出身の志士たちのために各地で慰霊祭が行われていたが、以蔵は自白で同志に累を及ぼしたことで維新後顕彰を拒否されており、加えて現在に至るまで人斬りやテロリストとしての負のイメージがつきまとい、慰霊祭は行われてこなかった。なお『龍馬伝』内における以蔵は、武市に従順な性格で、拷問に耐え最後まで自白しないなど、史実とはまったく正反対の人物に描かれた。
勝海舟の自伝『氷川清話』によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。勝は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている。
動乱の幕末時代を舞台に、京の都を震撼させ、その名を轟かせた土佐の最強の剣士・岡田以蔵の半生を描いた。司馬遼太郎の小説『人斬り以蔵』をもととしている。
《あらすじ》
岡田以蔵は、土佐の貧乏郷士に生まれ育ち、酒と女に目のない暴れ者だった。そんな彼を“人斬り以蔵”とまで呼ばれる刺客にしこんだのは、土佐勤王党の首領・武市半平太。冷酷な革命家・武市は、自分の政策遂行の上で、暗殺者としての腕を必要とした。
土佐藩主の執政・吉田東洋を門出の血祭りにあげる。このとき、以蔵は半平太に呼び出され、東洋暗殺の現場を視察せよと命じられる。その夜の見聞が、以蔵を変えた。以蔵は、人斬りとしての本能を呼び醒ましてゆく。「天誅」という言葉を何度も繰り返す。
京に上った二人は、以蔵の手で敵対者を次々に暗殺、この活躍は、薩摩の人斬り田中新兵衛と比較されるほどになった。瑞山と号した武市は勤皇一派の中心人物となり、京都で栄華を尽くしていく。そのもとで、以蔵にとっての関心事は、女郎おみのを抱くことと、姉小路邸で見かけた綾姫を偲ぶことだった。
その後、以蔵は武市の命に従わず、渡辺金三郎等を襲って目覚しい働きをみせるも、藩名と自身の姓名を声高に叫んだ失態を武市に厳しく叱責される。
以蔵はいったんは武市から離反する動きを起こそうとしたが、女郎のおみのに武市に謝罪することを薦められ、以蔵はますます武市の命ずるまま人斬りの運命から逃れる事が出来なくなっていく。
ある日、武市は、以蔵に新兵衛の刀を持たせ、自分を後だてにしていた姉小路を暗殺させる。この件で嫌疑をかけられた新兵衛は、自ら切腹して果てる。
姉小路卿を斬った直後から以蔵は酒に溺れるようになり、浪人狩りの網にかかった以蔵は、武市からも冷たく見捨てられ、厳しい拷問にかけられた。報酬に30両をせしめた以蔵はおみのを苦界から救い出すが、自分の立場の惨めさを思い知らされた。
そんな以蔵に人斬りをやめるよう忠告したのは、坂本竜馬。竜馬は新しい日本をつくるために自分と行動を共にすることを勧めたが、しかし、以蔵は、武市の「飼い犬」として流れに押し流されてゆく。
土佐藩執政吉田暗殺事件が露見し、武市一派は土佐に呼び戻され、取り調べられた。武市にとっては無用になった以蔵を自らの立場を守るために使者に毒をいれた酒を持たせる。九死に一生を得た以蔵は、武市一派の行状を暴露した。
5月、土佐の春祭りの囃子を遠くに聞きながら、以蔵は磔の刑によってその数奇な生涯を閉じる。
《スタッフ》
監督:五社英雄
脚本:橋本忍
参考文献:司馬遼太郎『人斬り以蔵』
撮影:森田富士郎
音楽:佐藤勝
美術:西岡善信
《キャスト》
岡田以蔵:勝新太郎
武市半平太:仲代達矢
田中新兵衛:三島由紀夫
おみの:倍賞美津子
綾姫:新條多久美
姉小路公知:仲谷昇
松田治之助:下元勉
皆川一郎:山本圭
おたき:賀原夏子
勝海舟:山内明
牢名主:萩本欽一
吉田東洋:辰巳柳太郎
坂本竜馬:石原裕次郎
主人公・岡田以蔵に扮したのは、勝新太郎。冷徹な殺人者というイメージではなく、どこか泥臭く人間味がある硬骨漢として描かれ、新たな「人斬り以蔵」像を作り上げている。
一方、以蔵の生涯を支配する存在となった土佐勤皇党盟主・武市瑞山役には、仲代達矢が扮し、一方で清廉な革命家、一方で冷徹、非情な政治家として描いた。

武市とは異なる手法で倒幕を図る坂本龍馬役には石原裕次郎が扮し、時に人斬りの道を邁進する以蔵を諌め、また以蔵の苦境を救う存在として登場。
さらに以蔵と並ぶ「人斬り」薩摩藩士・田中新兵衛を演じたのは、三島由紀夫。切腹することで鮮烈な印象を残したが、その翌年、自身も壮絶な切腹死を遂げることとなった。以蔵が愛する女郎おみのには、倍賞美津子が扮した。

今観ると、勝新太郎をはじめ、役者揃いの映画。なかでも、勝の存在感は見事。感情表現も動きも抜群。

まだお坊ちゃん・裕次郎もまったく形無し。

能面・三島由紀夫の切腹場面は、たしかに1年後の実際を彷彿とさせる鬼気迫るものがあった。


しかし、勝新以外は、まったく時代劇向きではないことが判明した感じ。でも、ストーリー的には、なかなかよく出来た時代劇。
さて、実際の岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日(1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、映画で描かれた人物像とは異なるようだ。(以下「Wikipedia」より)
土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)に二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれる。嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父・義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。
武市瑞山(半平太)に師事し、はじめ小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。安政3年(1856年)9月、瑞山に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。翌年、土佐に帰る。
万延元年(1860年)、時勢探索に赴く瑞山に従って、同門の久松喜代馬、島村外内らと共に中国、九州で武術修行を行う。その途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するであろうと武市が配慮し、豊後岡藩の藩士に以蔵の滞在と、後日、藩士江戸行の便ができたとき随行させてもらえるよう頼んだ。武市と別れ、以蔵のみ岡藩にとどまり直指流剣術を学ぶ。文久元年(1861年)、江戸に出て、翌年土佐に帰る。その間、武市の結成した土佐勤王党に加盟。文久2年6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。
これ以降、土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付けの井上佐市郎の暗殺に参加。 また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。 越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。 このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられたと言われる。しかし同時代の史料では同志から「天誅の名人」と呼ばれても、「人斬り」という呼称が使われた形跡は確認できない。一般的に「幕末四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、創作物によって「人斬り」の名が定着したものである。
以蔵は瑞山在京時の文久3年(1863年)1月に脱藩、その後八月十八日の政変で土佐勤王党は失速。 脱藩後の以蔵は、土佐勤王党員の記録から長州藩邸の世話になっていたと推察される。その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、同志と疎遠になった後は一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に行っていたという逸話が残っているが、いつしかその龍馬らにも見放され、無宿者となるほど身を持ち崩した。
元治元年(1864年)6月頃、犯罪者として幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺に関して首領・武市瑞山を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられた。
投獄後の以蔵は、拷問により暗殺に関与した仲間等を次々に自白し、これが土佐勤王党崩壊の端緒となる。以蔵の自白が引き金となり、まだ捕らえられていなかった同志が次々と捕らえられて入牢した事、吉田東洋暗殺の背後には山内家保守派層の関与が公然の秘密であった事から、同志はお家騒動への発展を恐れ以蔵毒殺計画が仲間内で相談される。しかし強引な毒殺は瑞山や島村寿之助らが止め、以蔵の弟で勤王党血盟者である啓吉に、以蔵の父から毒殺の許可、ないしは自害を求める手紙を寄越すよう獄外の同志に連絡を取らせる。これらの遣り取りの間に、瑞山の弟・田内衛吉は拷問に耐え切れず兄に毒薬の手配を頼み自害、島村衛吉は拷問死。獄中書簡に依ると、結局以蔵に毒は送られることなく結審を迎えたと考えられている。慶応元年3月25日岡本次郎書簡武市瑞山宛では以蔵に関して「是迄の不義、血を出して改心」と伝えており、自白を反省していた様子が伺える。
『土佐偉人伝』によれば、同囚中の志士・檜垣直枝が自白した以蔵を励まし「拷問の惨烈なるは同志皆はじめから期するところなり、子その痛苦に忍ぶあたわざれば、速やかにその罪を自白して、早く死地につけ、必ず同志の累をなすなかれ」と説得に当たり以蔵はこれにより慚憤したとなっている。
以蔵は死刑言い渡しの際、瑞山によろしく伝えて欲しいと牢番に伝言を頼んだ。しかし、瑞山の手紙ではその厚顔無恥ぶりを呆れられている。なお勤王党の獄で以蔵の自白により真っ先に犠牲になった者は、武市の身内であった。
『土佐偉人伝』(寺石正路)には「天資剛勇にして武技を好み、躯幹魁偉にして偉丈夫たり。宜振、はじめ勇にしてあと怯なり。人みなこれを惜しむ。武市瑞山もまたその粗暴にして真勇なきをもって大事を謀らず、しかも少壮殺人を嗜みて人を斬る草の如く。その挙、おうおう常軌を逸す(中略)末路、投獄同志みな鉄石漢にして拷問の惨苦なるも忍んで一言を発せず、しかるに宜振、独りその苦痛に忍びず罪案を白状し累を同志に及ぼし遂に勤王の大獄を羅織せしは遺憾というべし」と書かれている。
『維新土佐勤王史』には「血気の勇はついに頼むに足らず、全く酒色のために堕落して、当初剣客なりし本分を忘れ、その乱行至らざる所なく、果ては無宿者鉄蔵の名を以て、京都所司代に脆くも捕縛せられぬ」とある
慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。享年28。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」。墓所は高知県高知市薊野駅近郊の真宗寺山(しんしゅうじやま)にある累代墓地。宜振の名で埋葬されている。
以蔵の人物像を決定づけたのが司馬遼太郎の『人斬り以蔵』(1964年)である。
以蔵に関しては「獄中で毒を送られた以蔵がそれに勘付き、武市らによる自身への毒殺未遂を恨んで自白に及んだ」というエピソードが有名だが、これは司馬遼太郎の創作である。司馬版『人斬り以蔵』では、父は郷士だが以蔵自身は他の同志より身分の低い最貧困層出身で軽んじられ、粗暴で余りにも教養・道徳心に欠けた人物であり、よって汚れ仕事(人斬り)を専門に請け負わざるを得なかったという描かれ方になってる。しかし研究者によると貧民ではなく一般的な郷士の子息としての教育は受けていたこと、天誅は複数の仲間と相談の上で協力し、また天誅希望者が殺到するほど競い合って行っていたことなどが判明している。
2010年大河ドラマ『龍馬伝』の放送によるイメージアップを機に、地域の史跡研究会有志などによる、以蔵のための慰霊祭が初めて開催される。
土佐藩出身の志士たちのために各地で慰霊祭が行われていたが、以蔵は自白で同志に累を及ぼしたことで維新後顕彰を拒否されており、加えて現在に至るまで人斬りやテロリストとしての負のイメージがつきまとい、慰霊祭は行われてこなかった。なお『龍馬伝』内における以蔵は、武市に従順な性格で、拷問に耐え最後まで自白しないなど、史実とはまったく正反対の人物に描かれた。
勝海舟の自伝『氷川清話』によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。勝は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている。