「富士見橋」をくぐると、「新中川」沿いに進みます。「新中川」と線路の間や東側にはかつては畑・耕作地が続いていましたが、現在は、ぐっと少なくなって、マンションや住宅地に変わりつつあります。それでも、周りが農村地帯だった名残りが踏切の名にも残っています。
富士見橋下を通る貨物列車。(午前6時25分頃)。
かなり長い。(同)。
遠ざかる貨物列車。(同)。
紫蘇がたくさん。
「新金貨物線」を進む機関車(ほぼ同じ場所で今年春頃の撮影)。(午後1時30分頃)。
「耕道第二踏切」。「新中川」の堤防道に抜ける踏切。「新中川」が開削される以前からの農耕地があった名残りでしょう。
明治10年頃のようす。田んぼが広がっている。一番右の水路は「東用水」。右端中央の水路は「中井堀」とそこから分岐する「西井堀」。中川の氾濫原流域が東に大きく湾曲している。現在、その中央を「環七」が通っている。地図上で下方、東西を貫き、少し湾曲した道が「古代東海道」に擬せられている道。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
「富士見橋」方向を望む。
幅1㍍。車・オートバイなどは当然通れません。耕運機ははたして?
表示。
踏切を通過する貨物列車。間に合わず最後尾近くでなんだかよくわからん写真ですが。(午前10時45分頃)。
「耕道第二踏切」近くの中川土手から遠くにスカイツリー。左に流れていく川が「新中川」。
「耕道踏切」。ここも同様。背後には、ささやかな畑地。
「東京街道踏切」。「小松川街道」の続きか? 旧水路(中井堀・仲井堀)は、「新中川」に向かって川の中に消えていく。「西井堀」との分岐点も川の中に水没。
赤い線が「新金線」青色部分が「新中川」、○が「東京街道踏切」。
踏切脇の「中井堀」水路跡。左方向が「新中川」。しっかりした鉄橋(いつまで残すことやら)。
雑草を刈った後のようす。
「新中川」土手から踏切を望む。道(水路跡)が新中川によって途切れている。
新小岩から金町に向かう電気機関車。(「東京街道踏切」から)
鉄橋を通過する。(同)
「細田踏切」。
その付近を通過する貨物列車。かなり長い。午後4時前。
「立石大通踏切」。「古代東海道」にある踏切。
西側「三和橋」(「新中川」に架かる橋)方向を望む。広く整備されいます。通過する車両数は、「水戸街道」の踏切「新宿新道」に次いで多い。
○が踏切のところ。
室町時代以降、中川の流路変更や新田開発などによって、このあたりは大きく変貌します。「奥戸の渡し」の位置に大きな変化がなかったとすれば、現在の「奥戸橋」付近にあたります。さらに、中川を越したあたりも古代道を正確には分かりません。しばらく進むと、環七を越え、区立奥戸小あたりから、はっきりとした直線道路が「京成小岩駅」踏切以東にまで延びています。明治以前には一部、南に迂回する道筋の方が顕著でしたが、それも本来の直線道に改修されています。
現在、この道路は、柴又街道付近まで道路の拡幅整備工事が盛んに行われ、用地買収も進んでいます。かつて古代人の東西往復道としてにぎわったであろう「官道」が、今また便利な葛飾区南部の東西を貫く幹線道路として蘇ってきています。実に歴史のおもしろさを感じます。
「古代東海道」は、柴又街道を過ぎると、「上小岩遺跡通り」と名付けられた直線道としてそのまま京成線の踏切を越え、「岩槻街道」と交差、しばらく行くと、江戸川堤防手前の寺院のところで突き当たりになります。
「区立奥戸小」前に設置されている「案内板」。ただし、便宜上、南北がほぼ反対になっていて、上が南方向。さらに、「新金線」は表示されていない。
このあたりで、「新中川」開削のために線路が少し東にカーブすることになりました。線路の向こう側が「新中川」方向。
中川放水路の開削工事では多くの家屋が立ち退きに。JR新金線も同様に、まっすぐに進んでいた線路は東側にカーブすることになりました。ここがもともとの線路だったところの分岐点(線路の西側地点)。金町方向を望む。
赤い線が旧線路。
線路跡は舗装道路になっています。右が旧線路。左が現在の線路。
新中川土手から見たところ。直線道路が旧線路。
「金町」方向を望む。
最後の踏切、「奥中区道踏切」。ここから「新小岩」へは高架となって「新中川」を越えていき、本線に合流する。
「奥中区道踏切」から「新小岩」方向を望む。線路の右手に見えるのは、「葛飾区立奥戸中学校」。「新中川」開削の際、旧線路と新線路の間に建てられた学校。
最初の高架橋。完成が、「1957・10」とある。 ○に注目。
「新中川」
1938年7月に東京東部で起こった浸水戸数6万戸に及ぶ被害に対する反省から、翌年(1939年)4月、中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置された。しかし戦争激化のため1945年4月には計画は一旦中止、事務所も廃止となる。
1947年9月、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討された。1949年11月 中川改修事務所は再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化した。
葛飾区、江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963年3月に中川放水路は完成した。
1965年3月、一級河川に指定され、河川名を「新中川」に改称された。
「1957(昭和32)年10月完成」ということは、本格的な開削工事が始まり、線路の移設が完成したことでもあるでしょう。
現在のようす。(「今昔マップ」より)
「新金貨物線」と同じように興味深いのは、「越中島支線」。非電化の単線貨物線。ここは、一日2、3本貨物列車が通る。機会があれば、この支線を探索します。
「越中島支線」。新小岩~(亀戸)~(小名木川)~越中島。

























室町時代以降、中川の流路変更や新田開発などによって、このあたりは大きく変貌します。「奥戸の渡し」の位置に大きな変化がなかったとすれば、現在の「奥戸橋」付近にあたります。さらに、中川を越したあたりも古代道を正確には分かりません。しばらく進むと、環七を越え、区立奥戸小あたりから、はっきりとした直線道路が「京成小岩駅」踏切以東にまで延びています。明治以前には一部、南に迂回する道筋の方が顕著でしたが、それも本来の直線道に改修されています。
現在、この道路は、柴又街道付近まで道路の拡幅整備工事が盛んに行われ、用地買収も進んでいます。かつて古代人の東西往復道としてにぎわったであろう「官道」が、今また便利な葛飾区南部の東西を貫く幹線道路として蘇ってきています。実に歴史のおもしろさを感じます。
「古代東海道」は、柴又街道を過ぎると、「上小岩遺跡通り」と名付けられた直線道としてそのまま京成線の踏切を越え、「岩槻街道」と交差、しばらく行くと、江戸川堤防手前の寺院のところで突き当たりになります。










「新中川」
1938年7月に東京東部で起こった浸水戸数6万戸に及ぶ被害に対する反省から、翌年(1939年)4月、中川開削・改修を目的に東京府中川改修事務所が設置された。しかし戦争激化のため1945年4月には計画は一旦中止、事務所も廃止となる。
1947年9月、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水したことにより、改めて中川改修が検討された。1949年11月 中川改修事務所は再開され、中川放水路(新中川)の開削が本格化した。
葛飾区、江戸川区などでは多くの家屋等の立退きを余儀なくされるなどの大工事の末、1963年3月に中川放水路は完成した。
1965年3月、一級河川に指定され、河川名を「新中川」に改称された。
「1957(昭和32)年10月完成」ということは、本格的な開削工事が始まり、線路の移設が完成したことでもあるでしょう。

「新金貨物線」と同じように興味深いのは、「越中島支線」。非電化の単線貨物線。ここは、一日2、3本貨物列車が通る。機会があれば、この支線を探索します。
