おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

臥薪嘗胆。会稽の恥をすすぐ。捲土重来。中国四大美人。西施。・・・。

2013-07-22 20:35:42 | 格言・ことわざ
 前回引用の『史記』、『18史略』にちなんで。格言のいくつかを。

 紀元前6世紀末、呉王闔閭は隣国の越に武力侵攻したが敗れ、自らも負傷、まもなく病死。そのとき、闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と誓った。夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪(たきぎ)の上で寝ることの痛みでその屈辱を忘れず復讐を誓った。(「臥薪」)
 しばらくして夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は降伏し、夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ね、許されて越に帰国した。その後、富国強兵に励み、自らは苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにした。(「嘗胆」)
 勝者の呉王夫差は中原の覇者となることを目指して隣国の各国に盛んに兵を送り込むなどしたため、国力が次第に疲弊していく。その上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑する。
 ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王への復帰を認めなかったために自殺した。

臥薪嘗胆
 のちのちの成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て、苦い胆をなめる意から。
 もともとは、上の話にもあるように、敗戦の恥をすすぎ、仇を討とうと、復讐を自らに課して苦労を重ねることに由来する。


 呉軍は越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰める。勾践は「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては、必ず災いとなる」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許してしまう。

会稽の恥をすすぐ
 「会稽の恥」とは、戦いに大敗した屈辱。また、他人から受けたひどい屈辱のこと。
 屈辱的な講和をさせられた恨みを晴らすことを、「会稽の恥を雪(すす)ぐ」という。

 こういう言葉もあるが。
呉越同舟
 仲の悪い者同士や敵味方が、同じ場所や境遇にいること。本来は、仲の悪い者同士でも同じ災難や利害が一致すれば、協力したり助け合ったりするたとえ。「呉」「越」はともに宿敵同士で、その攻防戦は三十八年に及んだ。
 『孫子』で、「呉と越は宿敵同士でしばしば戦いを繰り広げたが、その憎しみ合っている両国の人が、同じ舟に乗って川を渡るときに大風が吹いて舟が覆りそうになれば、普段の恨みも忘れて互いに助けあうだろう」とたとえた故事から。
 
 そうはいっても、選挙後の「反自公」での野党結集もなかなか難しい。「民主党」の例もあり、烏合の衆ではまた瓦解。
 ※「烏合の衆」=規律や統制もなく、ただ寄り集まっただけの群衆・軍勢。役立たずな人々の集まり。(『後漢書』の出典)。 「烏合」とは、カラスの集団のことで、カラスが集まっても、鳴いてうるさいだけで、無秩序でばらばらであることから来ている。
 
 そのうえ、「捲土重来を期して」かつてない大・大勝利に導いたアベさんほどの勢いはなさそう。

捲土重来を期す
 一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して巻き返すことのたとえ。巻き起こった土煙が再びやって来る意から。「捲土」は土煙が巻き上がることで、勢いの激しいことのたとえ。「重来」は再びやって来ること。もとは一度敗れた軍が再び勢いを盛り返して攻めて来ることをいったもの。

 ついでに前回の話に出てきた「西施」にまつわるお話。

 越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた西施は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
 呉が滅びた後、呉王・勾践の夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。一方で、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。
 中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、それが西施の場合は大根足であったとされ、常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
 また、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」とあてられる。

※中国の四大美人

1.西施(春秋時代)
2.王昭君(漢)
3.貂蝉(後漢)
4.楊貴妃(唐)


左から、西施【沈魚美人】、王昭君【落雁美人】、貂蝉【閉月美人】、楊貴妃【羞花美人】。
 ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くことやまた虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くことも。

※四大美人の欠点
 西施(大根足)以外では、
 王昭君は、極端ななで肩だったために、いつも大きな肩パッドをしていた。
 貂蝉は、耳たぶが極端に反り返っていた。それを気にして大きくて重いイヤリングを着け、その反りを抑えていた。
 楊貴妃は、ものすごい腋臭だったために、一日に何度も入浴し、強い香水を着けていた(いずれも)らしい。

 詩の題材にもなって、唐代の詩人李白・王維などが、詩を詠んでいる。日本でも、松尾芭蕉が「奥の細道」で「象潟や雨に西施がねぶの花(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)」と詠んだ。

顰に倣う(ひそみにならう)
 西施には胸が痛む持病があったという。ある日、その発作が起きた。彼女が胸元を押さえ、顰(眉間)にしわを寄せた姿にはなんともなまめかしく、か弱い女性の美しさがにじみ出ていた。彼女が里から歩いて来るその様に、里の人たちは皆、目が釘付けになった。
 ある里に一人の醜い女がいた。この日、西施が胸元を押さえ、眉をひそめた様子にたくさんの人が釘付けになっているのを見た女は、西施のまねをして、胸元を押さえ、眉をひそめて、村を行ったり来たりした。この醜い女が大げさにふるまうとただでさえ醜い顔がもっとひどくなった。そのため、この女の奇怪な様を見ると里の人々は、すぐに戸を閉め、貧乏人は妻や子を連れて遠くに逃げるといった具合であった。
 このことが顰に倣う(ひそみにならう)、むやみに人のまねをするのは愚かなことという故事になった。「西施捧心」と四字熟語とも表される。日本では、先人に倣った行為にあたって自らをへりくだる表現としても用いられる。

 そこで、芭蕉の『奥の細道』より。

 江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風 真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫 作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干満珠寺と云。此 処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道 遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

象潟や雨に西施がねぶの花
※「ねぶ」=「ネムノキ」。


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「日暮れて道遠し」などとうそぶいているつもり? そんな余裕などないはずなのに。

2013-07-22 00:01:52 | 格言・ことわざ
海江田代表、続投の意向=「改革は道半ば」【13参院選】(時事通信) - goo ニュース
 「改革は道半ば」って言っても、誰が支えるの? そもそも、いったい何を改革してきたの? 道半ばって、前途はなくなってしまうほどの大敗北! 国民向けのアピール度も最低、政治家としての魅力もなし! 
 東京、大阪、埼玉など大都市では議席0。四国では議員が0。その責任を幹事長にだけ押し付けて、自分は代表の地位に恋々としようとするの? 
 プロ野球のコミッショナーや柔道連盟の会長など、居座る御仁が目立つ昨今。
 しかし、政治は結果がすべて。いさぎよく辞任すべきなのに、都議選に引き続く大・大惨敗の党内、次のなり手がいないまま、責任のなすり合いが始まっている様相。それを見越しての発言か。
 こうして、民主党。ついこの前の政権党の面影の片鱗すらまったくなくしたまま、あだ花のごとく消え去る運命に、嗚呼・・・。
 待てよ! 中国通のこの方、さては、「日暮れて道遠し」にあやかって、自ら、悲壮な覚悟を披歴したものか!
吾日莫途遠、吾故倒行而逆施之。
◦莫 … 暮と同じ。
◦途 … 道。塗とも書く。
◦倒行 … 倒れるほどに急いで進むこと。
◦逆施 … 道理に逆らって行動する。

 伍子胥は、既に死んでいた平王の墓を暴き、死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。この事をかつての親友申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥が言ったことば。
 この逸話。司馬遷の「史記」に「列伝」の一つとして記録されています。

 伍子胥は、楚国の出身。伍子胥は九尺(約2m)を超える身長と盛んな意気を持っていた。
 楚の平王は父の伍奢を捕え、都から離れていた子である伍尚と伍子胥に父の命で「都に来るように」と使者を送った。平王の無道ぶりを知っていた伍子胥は自分たちを殺すための罠と見破り、復讐を誓って鄭に脱出し、さらに呉に逃亡した。伍奢と伍尚は処刑されることになったが、伍奢は伍子胥が逃亡したのを知ると「楚の君臣は兵の難に苦しむことになるだろう」と言い残した。
 呉で伍子胥は公子光に仕えた。その後、公子光は呉王僚を暗殺、公子光は即位して闔閭となって、伍子胥を側近に立てた。伍子胥は、楚の隣国の呉王の側近という立場を得た。また、伍子胥は孫武の著した「孫子兵法」を献上し、孫武は闔閭に招かれ、その才能を認められ将軍として迎えられた。
 伍子胥は孫武と共に闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。紀元前506年、楚に出兵した。十分な準備に加え、兵法の天才孫武・楚の地理と内情を良く知る伍子胥という人材が揃い、連戦連勝して遂には楚の都郢を陥落させた。
 父を処刑した平王は既に死んでいたが、伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした(これが「死屍に鞭(むちう)つ」の語源になる)。この事をかつての親友申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥は「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。「自分はもう年を取っているので、やり方などは気にしておれないのだ」あるいは「時間は無いのにやるべきことは沢山ある。だから非常識な振る舞いをしたのだ」と。
 首都陥落直前に楚王(廃太子の異母弟である昭王)は逃亡していた。放っておけば地方の兵などを使って再興しかねないため、徹底的に探させたがなかなか見つからなかった。
 その間に越王の允常が呉に攻め入ってきたため、兵の半分を帰した。更に申包胥が秦の援軍を取り付け、形勢は悪化。闔閭は楚に留まっていたが、将軍として従っていた闔閭の弟夫概が勝手に帰国し呉王を名乗ったため、楚から引き上げてこれを討った。
 呉に戻った伍子胥は再び闔閭の補佐に努め、呉を天下に並ぶもの無き強国にまで押し上げ、中原に進出していく前に隣国の越を攻めるよう進言した。闔閭はこれを聞き入れ、呉の富国強兵に尽力した。紀元前496年、伍子胥の進言により、自ら兵を率いてこれを衝いて越を討伐した。しかし、呉軍は越軍に大敗した。この時、闔閭も越軍の放った矢によって、片足を負傷し破傷風を起こして容態が悪くなり床に伏せるようになる。
 闔閭の容態が芳しくなくなると、数人の公子のうちのひとりの夫差が伍子胥の元を訪れ、自分を後継者に推してくれるよう頼んだ。伍子胥は闔閭の元を訪れ夫差公子を太子に推すが、闔閭は「夫差は情に薄く君主の器に足りないのではないか」と憂いた。これに伍子胥は「足りない所は周囲が補えばよいのです。それより早く後継を明らかにしないと、権力闘争が起こりかねません」と答え、闔閭はこれを認めた。闔閭は夫差を呼び「越王・勾践が父の仇と忘れるな」と言い、夫差も「3年以内には必ず仇を取ります」と答えた。
 間もなく闔閭が死去して夫差が後を継ぎ、父の復讐を誓う。伍子胥もそれを補佐し、着々と準備を進めた。紀元前494年に越軍が呉に攻め入るが、越軍は大敗。呉軍はその勢いのまま越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰めた。
 勾践は使者を送り「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては必ず災いとなります」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許した。
 これ以降、越は恭順したふりと賄賂で、警戒を次第に解かせていく。これを上辺と見抜き、越に対する警戒を忠告する伍子胥と、越など置いて一刻も早く中原へ進出したいと願う夫差との間は上手く行かなくなってきた。范蠡が密偵を使い、夫差の耳に伍子胥の中傷を流し込んだとも言われる。また、西施という美女を送り込んで、夫差を骨抜きにさせて越を警戒しないように仕向けたとも言われる。
 夫差は北方の斉が幼少の君主に代替わりし政情が不安定なことを知ると、侵攻を画策した。伍子胥は「斉は皮膚の病、越は内臓の病(目に付き気になるのは皮膚の病気=斉の内乱だが、気づきにくく生命に係わるのは内臓の病気=越の存在である)」などと進言したが、夫差はそれを退けて、かえって呉軍は艾陵において斉軍を撃破したこともあり、以後夫差は伍子胥の進言を軽視するようになった。
 また伍子胥を疎ましく思っていた宰相伯嚭への越からの贈賄工作も重なって、様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられたこともあって、両者の不仲を増大させた。 その後も夫差は越など眼中になく、中原へ進出し覇者になろうとした。諸侯との覇を巡っての戦費や外交費は呉の財政を逼迫させ、度重なる出兵や重税は民を疲弊させ、呉はその国力を急速に消耗させていった。
 これではいつか越に呉は滅ぼされるだろうと見切った伍子胥は、斉に使者に行った際に息子を斉に預けた。しかし先王から多大な恩を受けた自らは呉を見捨てられないと戻り、この事が本国に帰った後に問題になって、伍子胥は夫差から剣を渡され自害するようにと命令された。
 その際、伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い、自ら首をはねて死んだ。
 伍子胥が死んだ後、越を警戒する者がいなくなった。
 その後、国力を蓄えた越に呉は滅ぼされた。越の使者に対して夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません。伍子胥の言葉を取り上げずに、自分自身がこんなに陥ったのは残念です」と言い残して自決した。

 伍子胥ほどの迫力と胆力を有しているならば、起死回生の行動に打って出るということもあろうが、はたして・・・。
 「まだまだ泥水をすすらないといけない」などと発言しているが、それほどの根性がありそうにも思えない、という印象を持ってしまう。「落ちた犬は叩け」式のマスコミからの攻撃に耐える以上に打って出る(反撃する)肝っ玉があるかないかが試されている。
 
 
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