「青物横丁」付近を過ぎると、東海道は一路、川崎宿を目指して進みます。街道筋をたどってみました。
ところで、「青物横丁」駅の由来
江戸時代に農民がこの地に青物(当時は野菜や山菜のことを指した)を持ち寄って市場を開いたことに由来する。地元では「青横(あおよこ)」という略称が使われている。日本で唯一「横丁」が駅名に入っている駅である、と「Wikipedia」に。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。南品川から青物横丁、鈴ヶ森まで。海岸線沿いに東海道は進んでいく。中央に流れる川が「立会川」。
ほぼ同じ場所の現在のようす(「同」より)。
旧東海道がどのか道か定かで内ほどの変化。第一京浜と交わる辺りが「鈴ヶ森」刑場跡。
住宅街になり、商店は少なくなって、町工場などが目立つ。それでも、街道筋らしい商家や古い建物も残っている。
人通りも車も少ない。
直線道路。かつては、海岸沿いの道。道の右側は、品川から大井にかけての海が見えていたところ。
振り返って品川方向を望む。
「SAMEZU」とある。
「鮫洲」の由来
南品川海晏寺によれば、建長三年(1251)の頃、品川の海上で大鮫の死体を漁師が拾い上げ腹を割いたところ、聖観音の木像が出現した。これにより「鮫洲」の名が生まれたとか。
『江戸砂子』に次の紹介がある。
鮫洲明神さみずの海辺にあり。今砂水と書く。むかし此浜へ丈余の鮫あがる。漁師どもこれを殺してけり。その折ふし此辺疫病大にはやる。かの鮫のたたり也とて鮫の頭を神にまつりて鮫頭明神といふと也
また『江戸名所図会』では、
按ずるにこの祭神を鮫の頭とする事、恐らくは海晏寺本尊の縁起に混じて附会なるべし。或人云、砂水昔は鮫洲に作りけると。然らば鮫州のの明神と称えて佳ならんか。或冊子に云士、この所に佐美津川とて細き流の潮とまらずして、佐美津ばかりなりとて名付けしといふあり・・・
(以上、東京の地名の由来・東京23区辞典HPより)
道の曲がり具合がかつての街道(海岸線)を彷彿とさせる。
お蕎麦の店・「吉田屋」。
「立会川」河口・勝島運河の向こうは、首都高。
西側・旧東海道を望む。
釣り船などがたくさん係留されている。
立会川河口堤防船だまり。
ところで、「青物横丁」駅の由来
江戸時代に農民がこの地に青物(当時は野菜や山菜のことを指した)を持ち寄って市場を開いたことに由来する。地元では「青横(あおよこ)」という略称が使われている。日本で唯一「横丁」が駅名に入っている駅である、と「Wikipedia」に。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。南品川から青物横丁、鈴ヶ森まで。海岸線沿いに東海道は進んでいく。中央に流れる川が「立会川」。
ほぼ同じ場所の現在のようす(「同」より)。
旧東海道がどのか道か定かで内ほどの変化。第一京浜と交わる辺りが「鈴ヶ森」刑場跡。
住宅街になり、商店は少なくなって、町工場などが目立つ。それでも、街道筋らしい商家や古い建物も残っている。
人通りも車も少ない。
直線道路。かつては、海岸沿いの道。道の右側は、品川から大井にかけての海が見えていたところ。
振り返って品川方向を望む。
「SAMEZU」とある。
「鮫洲」の由来
南品川海晏寺によれば、建長三年(1251)の頃、品川の海上で大鮫の死体を漁師が拾い上げ腹を割いたところ、聖観音の木像が出現した。これにより「鮫洲」の名が生まれたとか。
『江戸砂子』に次の紹介がある。
鮫洲明神さみずの海辺にあり。今砂水と書く。むかし此浜へ丈余の鮫あがる。漁師どもこれを殺してけり。その折ふし此辺疫病大にはやる。かの鮫のたたり也とて鮫の頭を神にまつりて鮫頭明神といふと也
また『江戸名所図会』では、
按ずるにこの祭神を鮫の頭とする事、恐らくは海晏寺本尊の縁起に混じて附会なるべし。或人云、砂水昔は鮫洲に作りけると。然らば鮫州のの明神と称えて佳ならんか。或冊子に云士、この所に佐美津川とて細き流の潮とまらずして、佐美津ばかりなりとて名付けしといふあり・・・
(以上、東京の地名の由来・東京23区辞典HPより)
道の曲がり具合がかつての街道(海岸線)を彷彿とさせる。
お蕎麦の店・「吉田屋」。
「立会川」河口・勝島運河の向こうは、首都高。
西側・旧東海道を望む。
釣り船などがたくさん係留されている。
立会川河口堤防船だまり。