おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

品川橋。南品川。脇本陣跡。・・・(品川宿。その2。)

2014-04-18 21:38:09 | 旧東海道



1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。蛇行して北上している川が「目黒川」。架かっている橋が「品川橋」この橋を境に北品川、南品川に分かれていた。南品川宿の西側一帯は寺町になっていて、現在も京急線との間にたくさんのお寺が建ち並んでいる。

 
(「今昔マップ」より)。同じ地域の変遷図。
 左上は、大正時代。「北品川宿」の場所が現在の御殿山辺りに記され、本来の東海道筋には「本宿」とある。「目黒川」は上流からかなり蛇行して旧東海道を越え、その先で北上し東京湾に注いでいた。赤い線が旧東海道。
 右上は、目黒川が直線で東京湾に流入するよう河川変更した頃。
 下は、2000年代初頭の頃。東京湾の埋立が進み、電車、道路など交通整備などによって、旧東海道の道筋は見極めにくくなってしまった。
 なお、現在、京浜急行はJR品川駅まで乗り入れているが、左上では、まだ現在の「北品川」駅」付近どまりになっている。

 注:地図上で薄いピンク色の部分は高台、薄い黄色部分は微高地。青色が海面。海面上に黄色の部分があるが、現在の陸地を示している。

「東海道北品川」という名称の交差点付近。
来た道を振り返る。にぎやかな商店街。
「品川宿交流館」。

通りから一歩入ると細い路地に民家が並んでいる。


賑やかな商店街の裏手に連なる家、家。下町的雰囲気の色濃く残る町でもある。

目黒川に架かる「品川橋」から下流(東京湾方向)を望む。
「品川橋の今昔」碑。「境橋」とも「行き合い橋」とも呼ばれ、北品川宿と南品川宿との境となっている。
南品川宿を望む。道の左手「城南信用金庫」がかつての脇本陣の跡。
説明板。

 この高札の場所は、脇本陣跡(現城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)治兵衛が営んでいた。品川宿を南北に分けていた目黒川は大正時代末期頃まで大きく蛇行し荏原神社の北側を流れていた。・・・東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継ぎ立て業務を行なう宿場の役所問屋場跡(現製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられたました。

 注:「製菓実験社」は、製パンなどを扱う専門誌の会社。「金子ビル」内。

旧東海道。南を望む。北品川地区に比べると、人通りも激しくなく、静かな通り。
「区立城南小学校」しゃれた案内板。
旧東海道・南品川との表示。
道の右側一帯は、お寺が多くあって、緑の濃い空間が続く。その奥には、墓地。
「品川宿の松」。

 街道を往来する旅人のための道標であった「街道松」を植えて、品川宿の緑の軸として次の世代に継承していく計画です。これはまた各宿場まちとの友好・交流の証でもあります。
 第一号となった街道松は、1992年(平成4年)に浜松宿と三島宿から寄贈いただきました。以来、公園や広場だけでなく、マンション建設などの際には管理組合のみなさんにご協力いただき、東海道に面した空間に街道松を植えていただいています。これらの街道松は、東海道53次シンポジュウムを通じて交流のある各宿場のご厚意によるものです。
HPより)

 この辺りは、京急「青物横丁」駅付近。品川宿の南のはずれ。
「東海道南品川」という交差点。
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