おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小田急線「鶴川駅」~東急バス「四季の家」。その4。鴨志田住宅。寺家(じけ)ふるさとの森。くまの橋・むじな池。寺家ふるさと村。(「都県境を探ってみる」。第16回目)

2023-03-31 21:26:44 | 都県境を探ってみる

鴨志田地区。

                     西側(白紙の地域)は、町田市。周辺は、今でも緑豊か。

この一帯は、横浜市青葉区にあり、中高層住宅や一戸建ての住宅が建ち並んでいます。

                     1970年代のようす。

   日体大を含め、丘陵地帯の大規模な住宅開発が進められている。

                     2010年代のようす。

住宅が建ち並び、大きな街造りになっている。「鴨志田」住宅地区は、上部。 

おしゃれな飲食店などが。

                    

「鴨志田公園」から下っていくと、大きな森と、田畑が。

    

           懐かしい田園風景が広がります。「寺家田んぼ」。

森の中の小道。

「くまの橋」。  

「むじな池」。

               

この辺一帯は、「寺家ふるさとの森」と名付けられています。

「寺家ふるさとの森」。

森を出ると、田んぼが見えてきます。

        

寺家ふるさと村

東京都町田市と川崎市に隣接し、雑木林の丘に挟まれた「谷戸田」と呼ばれる細長く伸びた水田が幾筋もある「昔ながらの横浜の田園風景」が色濃く残っているところです。
ふるさと村内には、水田や畑、森だけでなく、住宅や道路、水路もあります。
水田や畑、水路は農家さんの大切な場所です。
道路は農家さんを始め、住民の方の生活道路です。
散策する時は、農のある景観を守っている人々がいることを意識して、マナーを守ってお楽しみください。

・ふるさと村内の田んぼや畑は農家さんの土地です。また、水路は耕作に必要なものです。
・散策する際は、道から外れ、水田や畑、水路など、立入らないでください。
・自生する生き物を持ち帰ったり、ほかの場所から生き物を持ち込んだりしないでください。
・現在、寺家ふるさと村エリアでは、自家用車の路上駐車が大変多くなっております。歩行者や農業者の通行の妨げになりますので、周辺への路上駐車はおやめください。
・できるだけ公共交通機関でお越しください。
・新型コロナウイルス感染防止のため、他の利用者と一定以上の距離を確保することや、マスク着用や咳エチケット、手洗い等の感染防対策の徹底にご協力ください。

(この項、「」HPより)

寺家の歴史

豊富な遺跡群

寺家町は、古代より恵まれた環境にあり、中央の台地には縄文・弥生時代の住居跡として、畑を少し掘れば、至る所に土器片が散見されます。
古墳時代にも、丘々に数個の塚が造られていますし、お伊勢森古墳の西側には横穴古墳も見られます。

「吾妻鏡」に最初の記録が

東円寺の開基は、何時頃か記録はありませんが、過去帳によれば、大正年間中興とありそれ以前であることは明らかですが、大正11年、柿生の王禅寺に合併しています。
中世、鎌倉時代は「吾妻鏡」にあるように、当地は頼朝に従った鴨志田一族の領地でしたが、畠山重忠と共に倒れ、後に入ったのが、現在の大曽根,金子一族の先祖です。
弘安8年の霜月の騒動に破れ、一族は当地に農民として、ひっそりと暮らしてきたものと思われます。

徳川時代には年貢を免除された

小田原北条時代、北条氏直から大曽根飛騨守あての古文書が残されており、大曽根氏は鴨志田、寺家の小領主として軍役を負う替わりに年貢は免除されていました。
徳川初期は金子氏を名乗り、小領主として暫くは年貢を免除されていましたが、旗本、筧(かけい)小座右衛門の所領となりました。徳川中期は又、大曽根氏にもどっています。
文禄及び元禄の検地帳等の古文書によると、元禄10年には37戸が農業に従事しその後、天保14年には28戸に減少し、明治10年の改正戸籍では29戸、人口143人、田畑、山林、宅地の総計は76町4反余となっています。

農業を伝承しふるさと村づくり

村の水田は天水に依存し、各谷戸の奥には先人達の努力により、用水池が6箇所造られていました。
農産物は、米98石の他、大麦、小麦、粟、ヒエ、ソバ、ゴマ、生糸、醤油、桑が記録されており、明治から大正時代は養蚕が盛んとなりました。
村は明治4年都筑郡寺家村と称し、明治21年の合併で中里村寺家となりました。
横浜市に編入されたのは昭和14年で、平成6年緑区からの分区により現在の青葉区寺家町となり、人口は341人、89世帯で面積86ヘクタール余となっています。
戦後は村をあげての土地改良事業に取り組み、農業基盤の整備と近代化を進めてきましたが、また、同時に美しいふるさと作りのため、桜千本を植林し、4月の寺家は村中花ざかりとなります。

寺家ふるさと村の構想

しかし、都市開発が隣町にまで押し寄せるだけでなく、小規模な農家が多くを占めるこの地区では、就業者の減少・高齢化が進み農業の先行きが見えなくなっていました。
また、水田とともに美しい景観を形作っていた雑木林も、薪炭林としての利用がなされなくなるとともに、手入れする人もなく、アズマネザサの生い茂る薮山と化していました。
そうした状況をふまえ、横浜市では、身近な自然とのふれあいによる、潤いある生活を求める市民の要望を生かすような、新しい農業施策を構想しました。
それは、良好な田園景観を有する農業地帯を舞台に、その地域の農業振興とともに、山林や農地という自然環境の保全活用を合わせた”ふるさと村”づくりです。
寺家地区を舞台にしたこの”ふるさと村”づくりの構想の柱となったのは次の3点です。

  1. 美しい田園景観を保全しながら、土地、人をも含めての農村資源の活用を図る。
  2. 観光農業の推進等で農業の第三次産業を促し、農家の生活安定と寺家の中での就業機会の増大に努め、村の活性化を図っていく。
  3. 新住民、学童等が、自然、農業、農村文化を体験することにより、健康で心豊かな人づくりに役立てるとともに、農村部と都市部との相互理解を深めていく。

この構想は、昭和56年策定の横浜市の21世紀プランの中に位置づけられ、農林水産省の自然活用型農村地域構造改善事業(神奈川県・緑の里整備事業)として認証を受け、昭和58年度の”ふるさとの森”整備から昭和62年11月の”四季の家”のオープンまでに各種の施設が整備されました。

(この項、「同」HPより)

ここは、一度訪問したいと思っていたところです。田植え前の田んぼが一面に広がり、たくさんの方々が散策に訪れています。

「日体大」を抜けてきた都県境とは、この西南の「大池」のところで、出会います。 

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