「少年ピエロは、叔母と共にヒトラーの別荘で暮らすことに。憧れのヒトラーに認めてもらうために一生懸命になるあまり、大切なものを見失っていく。」
パリに住んでいた少年ピエロは、とても心優しい少年で体が小さいことでいじめられることが多かった。唯一の友達はアパートの下階に住んでいる生まれつき耳の聞こえないアンシェル。いつも手話で話をしていた。アンシェルは物語を作るのが好きで、ピエロはいつもアンシェルが書いた物語を読んで楽しんでいた。
しかし、主人公のピエロはドイツ人の父とフランス人の母が亡くなり、孤児院に行くことに。その後、叔母と共にヒトラーの別荘で暮らすことになる。「ピエロ」は、ドイツ語風に「ペーター」と名乗らせられる。
チビで弱くいじめられっ子、しかし優しい心を持った少年だったが、憧れの偉大なる指導者から贈られた制服に袖を通した時から変わっていく。自分には力があると思い、人を見下し、命令しかしなくなる。ヒトラーに直接声をかけられ、側近のように振る舞い、筋金入りのナチスになりきった少年。そして、ヒトラー暗殺計画を企てていたおばや運転手を実行寸前で密告してしまう。
いくつもの挿話が記されていますが、気を寄せていたカタリーナにむりやり迫っていくピエロに対し、厳しく止めに入ったエマ。・・・
エマは一瞬、表情をゆるめ、じっとペーターの顔を見おろした。「どうしっちゃたんだい、ピエロ? ここへ来た時は、あんなにやさしい子だったじゃないか。無垢な魂は、こんなにもたやすく汚れてしまうものなのかい? 」(P255)
やがてドイツは降伏し、ヒトラーは自殺、ベルクホーフの使用人達はペーターを残し、皆去っていく。今や主なき山荘で逮捕され、捕虜収容所に送り込まれたピエロは、釈放後、長年の放浪の末、パリに戻ってくる。そこで、アンシェルと再会する。・・・
山荘のメイドのヘルタの別れ際の言葉。「ここで何が起きていたか知らないふりなんて、絶対するんじゃないよ。あんたには目もあるし耳もある。・・・全部聞いたんだよ。全部見たんだ。全部知ってたんだ。しかも、自分のしでかしたこともちゃんとわかってる。でもあんたは若い。まだ十六なんだから。関わった罪と折りあいをつけていく時間は、この先たっぷりある。でも、自分にむかって、ぼくは知らなかった、とは絶対に言っちゃいけない。それ以上に重い罪はないんだから」(P261)
以下は、再会したときの二人の会話(手話)※文中の「わたし」はアンシェルを指す。
〈ピエロ〉と、手話で犬を表す指の動きをしてみせる。わたしは少年のころ、彼のことを、やさしくて人を裏切らない「犬」の印で表していた。〈アンシェル〉と、彼は指を動かし、「キツネ」の印で応じた。・・・
〈ぼくらはまた、子どものころにもどれるかな?〉
わたしは首を横にふり、笑みを浮かべた。〈それには、あまりに多くのことがありすぎた。でも、もちろん、パリを出たあと、きみの身になにがあったのか、教えてくれないか。〉
〈この物語を語るには、かなり時間がかかるだろう〉ピエロは手話を続けた。・・・(P281)
この物語。まったくのフィクションです。しかし、ドイツ・ナチスの時代、ヒトラーに諸手を挙げて熱狂し、忠誠を誓い、行動したのは、大人も子どもも同様でした。むしろ、青少年の心を弄ぶように仕組んだのは、ナチスの巧妙な手段でした。当時の日本でも、「軍国少年」を純粋培養しました。
今、対中、対ロ、対北朝鮮ときな臭い状況の下、自衛隊の充足率がかなり低迷している中、青少年への勧誘が強化されそうな状況になっていくのではないでしょうか。
同じ作者の作品『縞模様のパジャマを着た少年』は、映画紹介で載せました。
ジョン・ボインの同名小説が原作で、ホロコーストに関わるドラマ。子供を主人公として描いた作品。
第二次大戦下のドイツ。快活で冒険好きな8歳のブルーノ(エイサ・バターフィールド)は、ナチス将校である父の転勤に伴いベルリンを遠く離れ、厳重な警戒下にある大きな屋敷へ引っ越してきた。ブルーノは、寝室の窓から遠くに見える「農場」で働く人々が昼間でも縞模様のパジャマを着ていることを不思議に思う。
学校に行かせてもらえず、遊び相手もなくて退屈しきっていたある日、屋敷の裏庭を抜け出し林を駆け抜けていくと、有刺鉄線を張り巡らした「農場」にたどり着く。フェンスの向こうにはパジャマ姿の同い年の少年シュムエル(ジャック・スキャンロン)が一人ぼっちで座っていた。
シュムエルはユダヤ人、ナチスによってその「強制収容所」に送り込まれていた。シュムエルの存在は家族には秘密だったが、有刺鉄線越しに、シュムエルとチェスをしたり、ボール投げをしたりするうちに、子ども同士の友情が芽生えてくる。
ブルーノの母親は、夫の職務に違和感を感じ始める。息子のブルーノも、収容所の焼却場から立ち上る異臭について、たびたび両親に聞く。ついに、母親と二人の子供達は、別の所へ引っ越すことに。しかし、ブルーノはシュムエルのことが気にかかっていた。
ブルーノは引越しの当日、収容所内で行方が分からなくなったシュムエルの父を一緒に探す為、強制収容所の有刺鉄線の下をかいくぐり、シュムエルと同じ縞模様のパジャマを着て紛れ込む。しかし間もなく、豪雨の降り注ぐ中、他のユダヤ人収容者とともに追い立てられるようにして、二人は「シャワー室」に入っていく。
ブルーノの母親は、息子がいないことに気付き、収容所挙げての捜索が始る。真っ暗なシャワー室の中で不安におののく大勢のユダヤ人、ブルーノとシュムエルは手をしっかり握り合う。
父親も半狂乱で、収容所内を調べまわる。豪雨の中、母親は、鉄条網の外で、息子が脱ぎ捨てた衣類を抱きしめながら号泣する。
ラストシーンは、閉じられたシャワー室の扉。カメラの引きとともに、脱ぎ捨てられたたくさんの縞模様のパジャマ(囚人服)が映る。次第に灯りが消えていく。・・・
この物語の原作はジョン・ボインというアイルランドの若い作家(DVD特別編では、解説に登場)が2006年に出版し、世界的ベストセラーになった。それをイギリスとアメリカの合作で映画化。
ラストシーン。ブルーノが両親にとってかけがえのない子供だったように、シュムエルもその他のたくさんのユダヤ人もそれぞれの誰かにとってかけがえのない人だった。一方では、存在そのものが忌まわしいものとして生命を奪われる(奪う)。
これまでもかけがえのない多くの人間の生命が、戦争や政策、体制の名の下で「人種」「民族」「反・・」という括りで一緒くたにされて、意図的に抹殺されていく(していく)。それは今もなお世界の隅々で起こっていることではないか。それをどうすればいいのか、空しさも残る現実。
ユダヤ人たちが明るく楽しむ収容所内での生活ぶりを映した映画(もちろん、ナチスのプロパガンダだった、と今は言えるが、当時は・・)によって、疑っていた父親に対して信頼を取り戻すブルーノ。
家庭教師によって次第に「ナチズム」に染まっていく姉。
精神的に追い詰められていく母親。・・・
シュムエルが屋敷に食器洗いでやってきたときのエピソード。
ブルーノは「こんな子は知らない」と言い放ち、その後、懲罰を受けて傷だらけのシュムエルとフェンス越しに再会するシーン。
それぞれが、身につまされるシーンの積み重ね。
もちろん、強制(最終、絶滅)収容所は、アウシュビッツを含め、二重の高電圧の流れる鉄条網で囲まれ、銃を肩に掛けた監視兵が常に見張っている。映画のような出来事はぜったいにありえない。あり得ない物語をなぜ創作したのか?
ここに、映画が現在の私たちへの問題提起(ホロコーストを共有できるのか? どういうかたちで共有し継承していくのか? 主人公が少年達であることも含めて、鋭い問いかけのような気がします。
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この小説にも多くの問いかけがあるように思いました。