国道16号線・「岩槻大橋」のたもとに。
下流方向。
上流に「新曲輪橋」。
※「国道16号線」は首都圏の環状幹線道路。都心から郊外へ向かうときには必ず遭遇します。
(「」より)
※環状路線であるものの、東京湾の海上区間があるため「東京環状道路」の別名に反して完全な環状道路となっておらず、また神奈川県横須賀市と千葉県富津市の端部はいずれも東京湾の港湾とも接続していない。法令上の起終点は横浜市になっているが、事実上の道路末端は、東側は富津市富津交差点で、西側は横須賀市走水で終わっている。
「富津」交差点。(「房総往還」歩きのときのもの)
ここで、「国道16号線(東京環状道路)」は終了。横浜から約220.5㎞の地点。
この先、直線道路も左折道路もどちらも「(千葉)県道」となります。特にそれらしい標識はありませんが、陸上道路としての国道16号線は終了となります。
「↑柏 春日部」。
すぐ上流に、「新曲輪(くるわ)橋」。
曲輪(くるわ)
城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。
主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。
江戸時代には中心的な曲輪に、本丸(ほんまる)・二の丸(にのまる)・三の丸(さんのまる)などの名前が付く。
右岸奥周辺が「岩槻城址公園」。
岩槻は「日光御成街道」歩きのときに通りました。
※「本郷追分」(東大赤門付近)で「中山道」と分かれ、「幸手」で「日光街道」に合流する。
その時の記録。・・・
「日光御成道一里塚跡」碑。
・・・日光御成道が通っていた岩槻でも、桜久保、岩槻城下久保宿町、相野原(現存、県指定史跡)の三ヶ所に一里塚が設けられていました。その内の岩槻城下久保宿町の一里塚は、現在の岩槻市役所前のあたりに設けられていました。
江戸日本橋より9里目、本郷追分から8里目。
・・・
モニュメントの人形。
旧岩槻市のマンホール。
蓋を三等分し、上部には岩槻城黒門と桜の花、右には園内の池にかかる朱塗りの八つ橋、左には岩槻城鐘楼と市の花「ヤマブキ」がデザインされている。汚水蓋。
「岩槻橋(仮)」。
岩槻橋は、第二次緊急輸送道路である主要地方道さいたま春日部線(都市計画道路岩槻中央通り線)と一級河川元荒川の交差箇所に位置し、さいたま市の副都心である岩槻駅周辺地区を横断する路線の一部として重要な橋りょうです。
現在の岩槻橋は幅員が狭く、歩道も片側のみの設置であることから、通行車両や歩行者等の安全確保が課題となっております。一方、車道橋については昭和16年の竣工後、約80年が経過し、老朽化による損傷が著しい状況であり、また現在の耐震基準を満足しておりません。
そのため、歩行者や自転車等の安全性向上や緊急輸送道路の耐震化などを目的として、岩槻橋を架け替え、それにあわせて必要となる現道の影響範囲区間を都市計画道路として整備を行います。(「さいたま市」HPより)
工事中の新橋。
下流方向。
「興農事業完成記念」碑。昭和2年建立。
東武線の鉄橋が見えてきます。
今回の川歩きはここで終了。「東岩槻駅」に向かいます。
東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。
※「東武アーバンパークライン」はかつて「東武野田線」という名称でした。春日部駅で乗り換え、帰途につきます。