おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

墨田区・北斎通り(その2)。

2012-12-14 20:07:56 | 歴史・痕跡
 このあたりから清澄通り(「江戸博」)との出会いまで随所に北斎の浮世絵が。また、由緒ある史跡なども多くあります。

「深川万年橋」。北斎の生きた時代と変わらぬ橋名や名所は今も。
 通り沿いには古めかしい建物も。この屋号は「青桺傳動機店」。今も営業しているのかどうか。
「百人一首うばがゑとき 持統天皇」。「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山」を絵解きしたもの。
「新版浮絵忠臣蔵 初段鶴ヶ岡」。
「北斎漫画 相撲」。
 北斎は題材は多種多様。枕絵から子供向けのものまで次々と出版。ただ引っ越しを93回も繰り返し(その大半は現在の墨田区内)、金銭感覚もうとく、終生貧乏暮らしだったようです。終焉の地は浅草聖天町・遍照院境内仮宅。
「北斎生誕の地」。通り沿いの北側。とある店先に掲示されている。
「野見宿禰(のみのすくね)神社」。「北斎生誕の地」の掲示板と四つ角をはさんでほぼ南側にある神社。かつて東側に高砂部屋があった。明治18(1885)年親方の高砂浦五郎が津軽藩上屋敷跡地であったこの地に相撲の神様・野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まり、という。石柱には力士や相撲関係者の名前が刻まれている。また、境内には歴代横綱の名を記した石碑がある。
 野見宿禰。
 能見宿天穂日命の14世の子孫であると伝えられる出雲国の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速に勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後、垂仁天皇に仕えたという。また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる「埴輪の制」を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなった、という。
「緑町公園」にある説明板。「津軽藩上屋敷跡」この屋敷の火の見櫓。一般では板木で火災を知らせたが、この屋敷の火の見櫓には太鼓が下がっていて、その太鼓で火事を知らせていたという。
その説明板に載っていた江戸時代の切絵図。矢印が現在地。上が南の方角。中央の水路が「南割下水」。右側が現在の「江戸博」付近。上部(南)の用水路は「竪川」。現在、上には首都高が走る。
緑町公園。「津軽家上屋敷」跡地。この公園の敷地南側に「すみだ北斎美術館」を建設中(平成27年開館予定)。
 《区の解説文》
 世界的な画家として評価の高い「葛飾北斎」は、本所割下水(現在の墨田区亀沢付近)で生まれたと言われており、90年の生涯のほとんどを区内で過ごしながら、多くの作品を残しました。区では、この郷土の偉大な芸術家を区民の誇りとして永く顕彰するとともに、観光や産業などの地域活性化の拠点ともなる施設「すみだ北斎美術館」の開設準備を進めています。「すみだ北斎美術館」では、作品の展示はもとより、収集保存、情報提供、教育普及など、北斎生誕の地の美術館にふさわしい事業を幅広く展開していきます
「観光案内地図」。公園内に設置されている。
「東都駿台」。植木の中に埋もれているのも風情がある。
「江戸遊」。しゃれた雰囲気の銭湯スパ。
HPから。
「江戸博」。
「フユサクラ」。ちらほら花が。
「従千住花街眺望ノ富士」。


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