おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

八方塞がり。八方破れ。八方睨み。四面楚歌。・・・。

2013-08-21 20:17:32 | 格言・ことわざ
タンク汚染水漏れ、「レベル3」相当 福島第一原発(朝日新聞) - goo ニュース
 産経の見出しではないが。さすがの産経も憂いている? 

八方塞がり=どの方面にも進めず、手の打ちようがないことのたとえ。
【注釈】
 「八方」とは、東西南北・北東・東南・南西・西北の八つの方角のことで、あらゆる方角を意味する。
 陰陽道の占いで、どの方角で何をしても不吉だということから、転じて、どこにも抜け道がなく、誰にも信用されず途方に暮れていることもいう。
【注意】
八方を10進法の8とするのは誤り。
《誤用例》 「占いで八方塞がりと言われたが、ポジティブに考えよう。残りの二方が良いならいいじゃないか」
【英語】
I am in a pretty fix.
より。
 
 誤用例みたいな用い方があるとは! あり得ない感じですが。前向き志向もここまでくると「東電」 並み。

 それにしても、相変わらずの東電の発表。小出しにして、重要な事態を後から。参院選挙直前の「流出」もそういうやり方。小児の甲状腺がんも確実に増えているのに、原発事故の影響ではない!と。しかし、さすがに住民の不安が大きいため、診断の方法、周知のしかた、今後のことなど、再検討へ。
 各地の原発推進派は、これでも、福島の現実を気にしながらも、ああした事故は今後はない(はず)と、地元経済・雇用のためにはやむをえない、と。・・・。
 今の福島原発事故処理。「八方塞がり」というよりも、「八方破れ」が正しい言い方。「八方破れ」=備えがなく、いたるところすきだらけであること。(「デジタル大辞泉」より)
 せめて「八方睨み」になっていなければならなかった事態。

 いよいよ東電など原発推進派を「四面楚歌」の状況に追い込むしかないでね。

「四面楚歌」は、高校の漢文の教科書でおなじみ。

 紀元前203年、天下取りで長く対峙していた項羽(楚)と劉邦(漢)両軍であったが、天下を二分することで盟約が結ばれ、楚軍は本拠地の彭城への帰還を始めた。劉邦は張良・陳平の「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行なった。
 漢軍は楚軍を追って固陵という所まで進み、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。
 韓信・彭越の2人は、劉邦との恩賞の密約がなって、軍勢を率いて劉邦に合流。さらに劉賈の軍も彭越と合流、楚軍の周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と垓下の劉邦の下に集結した。
 漢軍は、韓信が30万の兵を率いて先鋒となり、孔熙と陳賀が側面を固め、総大将の劉邦の後ろに周勃と柴武が陣取った。対する楚軍は項羽が率いる兵は10万ばかりであった。
 戦いに大敗した項羽以下、楚軍は防塁に篭り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。
 夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領してしまったのか、楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。この故事から「周囲を敵に囲まれること」を「四面楚歌」というようになった。(あたかも取り囲む周囲で「楚」の歌が聞こえたのは、劉邦の巧妙な作戦だったという説もあり。)

 形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。項羽には虞美人(ぐびじん)という愛妾がおり、また騅(すい)という愛馬がいた。別れを惜しみ、項羽は自ら詩に詠んだ。

力拔山兮 気蓋世 力は山を抜き 気は世を蓋う
時不利兮 騅不逝 時利あらず 騅逝かず
騅不逝兮 可奈何 騅逝かず 奈何(いかん)すべき
虞兮虞兮 奈若何 虞や虞や 汝を奈何せん

 虞美人もこれに唱和し、項羽は幾筋もの涙を流し、臣下の者たちも、皆、涙した。
 宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。漢軍は灌嬰が五千騎の兵を率いてこれを追った。八百の兵は次第に数を減らし、東城に辿りついたときには、項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。
 ここで項羽は、配下の者に「ここでわしが滅びるのは天がわしを滅ぼそうとするからで、私に軍事的な力がないからではない。これから漢軍を破り、それを諸君に知らしめよう」と言い、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八、九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。
 項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場に至った。ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長(宿場の役人)は項羽に「江東は小さいが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で再び王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることは出来ません」と告げた。
 しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。江東の民たちに何の面目があって会うことが出来ようか。」と、亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。
 項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢はわしの首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前に徳を施してやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を奪い合い、結局遺体は5つに分かれてしまった。
 項羽の死によって約5年続いた楚と漢の戦いは終結し、劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を開くことになった。
(以上、司馬遷『史記』を参照)

 もちろん、そう簡単ではありませんが。

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