(14:41)「行幸の松」記念碑。
「小金井桜」についての詳細な解説板。
小金井堤の桜は、元文2年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6㎞にわたり植えたものです。これは新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。
・・・
小金井堤の桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど1本1本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地として、大正13年(1924)12月9日「史蹟名勝天然記念物保存法」により、吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。この名勝指定には、小平村・小金井村・保谷村・武蔵野村の村長等を中心として大正2年(1913)に設立された「小金井保桜会」による官民一体となった保存活動が大きく寄与しました。
今では想像もできないほどの賑わいぶり。右手に見えるのが「柏屋」か?
「料亭 柏屋」跡。右のガソリンスタンド。
奥に祠が見えます。
明治天皇が花見をしたことを記念しての「行幸の松」のところで一休み。
行幸松と行幸松の碑
明治16年(1883)4月23日、明治天皇が御乗馬で、3人の親王とともに、小金井堤に観桜においでになられました。この名誉を後世に伝えるため、地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えたのが行幸の松です。
19年後の明治35年(1902)、この松が見事に成長したので、海岸寺の住職玄格が地元有志とはかって、この松の由来を記した記念碑を松の傍に建立しました。
なお、行幸の翌年には英照皇太后、昭憲皇后が来られて小金井橋際の柏屋で、碑建立の翌年には皇太子時代の大正天皇が来られて海岸寺境内の野立て所で、それぞれ観桜されています。
(14:52)堤からは「玉川上水」の水面が所々、わずかに見えるだけ。
堤にはケヤキの古木が目立つ。
沿道で見かけた土蔵造り。
「茜屋橋」。
現在の茜屋橋は、昭和54年3月に建設されたもので、創設の橋は、明治初年に材木を3本かけ渡しただけの簡単な橋でありました。
茜屋橋の橋名は、明治の初め材木業を営む一方でこの辺一帯は「茜草」(染料)を盛んに栽培しており、その元締めの島田家を「茜屋」と呼んでいたことからこの名がついたといわれています。
平成4年度に行った玉川上水橋梁部整備では、桜名所の中にある橋として、桜や水や緑と馴染みながら調和するよう、高欄・親柱は、現在の擬木を活かして塗装等の補修をし、また歩道舗装などの改善も行いました。
(15:15)「喜平橋」からは、「玉川上水」の南側に移ります。
橋の上からの「玉川上水」。水量はほとんどありません。
「野村屋 小平喜平橋」「小平市」へ。
ここから「玉川上水」の流れは右手に。
「八左衛門橋」。「喜平橋」など人名にまつわる橋があります。
(15:28)「西武多摩湖線」とクロスします。線路沿いに右手に進むと、「一橋学園」駅。今回はここまでにします。
「喜平橋」付近の今昔
1880年代のようす。中央の「喜平橋」で上水の南側に移る(↓)。
2010年代のようす。分かりにくいが、「現五日市街道」も同様。
「小金井桜」についての詳細な解説板。
小金井堤の桜は、元文2年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6㎞にわたり植えたものです。これは新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。
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小金井堤の桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど1本1本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地として、大正13年(1924)12月9日「史蹟名勝天然記念物保存法」により、吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。この名勝指定には、小平村・小金井村・保谷村・武蔵野村の村長等を中心として大正2年(1913)に設立された「小金井保桜会」による官民一体となった保存活動が大きく寄与しました。
今では想像もできないほどの賑わいぶり。右手に見えるのが「柏屋」か?
「料亭 柏屋」跡。右のガソリンスタンド。
奥に祠が見えます。
明治天皇が花見をしたことを記念しての「行幸の松」のところで一休み。
行幸松と行幸松の碑
明治16年(1883)4月23日、明治天皇が御乗馬で、3人の親王とともに、小金井堤に観桜においでになられました。この名誉を後世に伝えるため、地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えたのが行幸の松です。
19年後の明治35年(1902)、この松が見事に成長したので、海岸寺の住職玄格が地元有志とはかって、この松の由来を記した記念碑を松の傍に建立しました。
なお、行幸の翌年には英照皇太后、昭憲皇后が来られて小金井橋際の柏屋で、碑建立の翌年には皇太子時代の大正天皇が来られて海岸寺境内の野立て所で、それぞれ観桜されています。
(14:52)堤からは「玉川上水」の水面が所々、わずかに見えるだけ。
堤にはケヤキの古木が目立つ。
沿道で見かけた土蔵造り。
「茜屋橋」。
現在の茜屋橋は、昭和54年3月に建設されたもので、創設の橋は、明治初年に材木を3本かけ渡しただけの簡単な橋でありました。
茜屋橋の橋名は、明治の初め材木業を営む一方でこの辺一帯は「茜草」(染料)を盛んに栽培しており、その元締めの島田家を「茜屋」と呼んでいたことからこの名がついたといわれています。
平成4年度に行った玉川上水橋梁部整備では、桜名所の中にある橋として、桜や水や緑と馴染みながら調和するよう、高欄・親柱は、現在の擬木を活かして塗装等の補修をし、また歩道舗装などの改善も行いました。
(15:15)「喜平橋」からは、「玉川上水」の南側に移ります。
橋の上からの「玉川上水」。水量はほとんどありません。
「野村屋 小平喜平橋」「小平市」へ。
ここから「玉川上水」の流れは右手に。
「八左衛門橋」。「喜平橋」など人名にまつわる橋があります。
(15:28)「西武多摩湖線」とクロスします。線路沿いに右手に進むと、「一橋学園」駅。今回はここまでにします。
「喜平橋」付近の今昔
1880年代のようす。中央の「喜平橋」で上水の南側に移る(↓)。
2010年代のようす。分かりにくいが、「現五日市街道」も同様。
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