おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

蛇身鳥退治。妊婦の墓。涼み松。夜泣石跡 。・・・(金谷駅から掛川駅まで。その4。)

2015-03-01 20:58:26 | 旧東海道

 しばらく進むと、「鎧(よろい)塚」。横目で見て通り過ぎると、「国道1号線」へ通じる広い道との分岐点に出ます。
 左の「旧東海道」へ進みます。但し、「1.5㎞先車両通行不可」との表示。この辺りは充分行けそうな雰囲気で、この表示を無視して(気づかずに)車を進めると、大変な事態が待ち構えています。
                       

 左手の茶畑のところには、「馬頭観世音」石碑。ここが、「茶草場」?

馬頭観世音
 佐夜の中山峠には、多くの伝説が残されていますが、その一つに蛇身鳥退治の物語が言い伝えられています。
 この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています。

蛇身鳥物語
 遠州菊川の里に、愛宕(あたご)の庄司 平内という狩の好きな男がいました。平内は、美しい妻と、娘の月小夜と、息子の八太郎と四人で平穏な暮らしをしていました。
 しかし、息子と娘は、平内が鳥や獣を捕ってくるたびに、心をいためていました。
「おとうさん、どうか、もう鳥や動物たちを殺すのはやめてください」
 八太郎は、何度も平内に頼みましたが、 平内はいっこうにやめようとはしませんでした。
 ある日、平内はいつものように山へと入っていきました。前の日に降った大雪で、あたり一面真っ白でした。歩いて行くと、行く手にがさがさと黒い影が動きました。
「しめた、大きな熊だ!」
 平内が矢を放つと、びゅーんと音をたて、その先でどさりと倒れる音がしました。白い雪の上には真っ赤な血が飛び散っています。平内が獲物に顔を寄せたときです。
「おとうさん…」
 今にも消えいりそうな声がするではありませんか。息子の八太郎が平内の狩りをやめさせようと、熊の皮をかぶっていたのです。平内は涙を流し、わが子を抱きかかえました。
 平内が亡骸を抱いて里に帰ると、 妻は変わり果てたわが子八太郎の姿を見て、狂ったように泣き叫び、 そのまま家を飛び出し、菊川の淵に身を沈めてしまいました。
 それからというもの、菊川中山、海老名(あびな)のあたりに 夜な夜な奇妙な声でなく怪鳥があらわれて、里の人や旅人を襲うようになりました。
人々は「亡くなった子どもを思う女の化身では」とうわさしました。それは、頭は鳥で、体は蛇、広げた翼は鋭い刀を編んだようになっている、 世にも恐ろしい怪鳥でした。
 里人が困っていると、上杉三位良政(さんみよしまさ)公と屈強な家来橘主計助(たちばなかずえのすけ)が、帝の命令で都から怪鳥退治の武将がやってきました。ふたりは苦闘の末、見事に怪鳥を討ち取りました。

HPより )

 その向かい側には、「妊婦の墓」。

 蛇身鳥を退治した三位良政卿と月小夜との間に生まれた娘の小石姫が自害した場所だと伝えられ、小石姫が身重だったことから「妊婦の墓」と言われるようになったそうです。

蛇身鳥のその後 月小夜のお話し
 意気揚々と引き上げる良政の耳に、どこからか美しい琴の音が聞こえてきました。
「こんな山里にだれが…」
 良政は主計助を連れて音色のする方へ来てみて、また驚きました。都にもないほど美しい娘が琴を奏でているのです。あまりの美しさにひかれ、良政はその娘月小夜を都に連れて帰りました。
 良政には正妻がいましたが、正妻と月小夜は仲良くひとつ屋根の下に暮らしていました。
 ある日、良政が庭の方を見ると、正妻と月小夜が日なたぼっこでうたた寝をしていましたが、二人の女の精が小蛇の姿となって格闘をしているではありませんか。
 良政は、二人に心の奥に葛藤があることに気付き、月小夜を中山の里に帰すことにしました。
 月小夜が父母弟の供養をして暮らすために、中山の里にお堂を建て、 月小夜のほこらとし、観世音菩薩を祀りました。このお堂が久遠寺の開祖となったのです。
 その後、月小夜は中山の里で女の子を産み、小石姫と名付けました。小石姫は成長し、良政公の使いで都から来ていた橘主計助と結ばれます。小夜姫と主計助の間には、男の子と女の子が生まれました。
 しかし、娘は蛇身鳥一族の話を知り、悲しみから松の木で首をつって死んでしまいました。その松は夜泣き松と呼ばれ、今でも小夜の中山に残っています。
 また、男の子は月の輪童子といい、後に名僧となり、相良の平田寺の開祖となったそうです。

HPより )

 この「蛇身鳥」の他にも「怪鳥」が古典や説話に登場。

■鵺(ぬえ)
 毎夜丑の刻(午前二時ごろ)になると怪しい黒雲が立ちこめ、宮中の天皇をおびえさせた。これを解決しようと弓の名人である、源頼政が召されることになった。頼政は遠江の国の住人猪の早太をいう家来をつれこの怪事件にのぞんだ。丑の刻になるといつものごとく黒雲がわきあがり始めた。頼政はその黒雲のなかに怪しき物影を見定めると、弓に矢をつがえひょうと射ると、飛ぶ矢に確かな手ごたえがあり、怪物は屋根から庭へと転げ落ちてきた。他の者たちが灯でその怪物を照らしてみると、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎のようで、鳴く声は鵺のようであった。この怪物が退治されてから、宮中には静かな夜がおとずれた。(『平家物語』巻第四)

■以津真天(いつまで)
 『太平記』巻第十二広有射怪鳥事に登場。この怪鳥は「首は人のようで身体は蛇、嘴は曲がって歯並びは食い違って生えていて脚の毛爪は剣のようにするどかった」という。

■うぶめ
 【産女・産婦】「産女(姑穫鳥)とも」難産で死んだ女が化したという幽霊。また想像上の怪鳥。血みどろの姿で産児を抱かせようとしたり、幼児に似た泣き声で夜間飛来して幼児に危害を加えようとしたりする。うぶめどり。(『日本国語大辞典』小学館)
 「蛇身鳥」の話の中でも、女が子供をなくした悲しみに、その姿を変え村人を襲うくだりがあるが、この「うぶめ」も子供を得ることができず、不慮の死を遂げた女の亡霊が恨みつらみによって、その姿を怪鳥に変え子供たちを襲う。まことに子を思う母親の気持ちは強く、その未練がかくもおそろしい怪物に人を変えてしまうのである。

■かるら
 「迦桜羅または迦桜荼」、猛禽類が曲がった嘴と爪を持ち、胴体は人間で、蛇を常食にするというヒンドゥー教の神話にでてくる怪鳥。この鳥は、仏教を守護するとして、日本でも絵画や仏像として寺社に奉納されているから、「蛇身鳥」をイメージするうえでなんらかのきっかけになったかもしれない。

 現在に比べ、昔の夜の闇は深く、ましては普段とは違う旅の往来で、山中より聞こえる不思議な鳥の声や物音に人々はおびえたことは容易に想像できる。これまでに述べた古くより伝わるさまざまな話によって、怪鳥「蛇身鳥」は想像され、小夜の中山伝説となったのである。



                                《(社)中部建設協会発行「東海道小夜の中山」参照》

 ここは、古い歴史と伝説を持つ土地柄であることが分かります。今でこそ、道も整備され、辺りが茶畑として開かれた、明るく広がる丘陵という印象ですが、古は、家も灯りもなく、松などの木々に覆われた寂しい峠の坂道だったのでしょう。まして、夜間などは「夜泣き石」など怪しげな物音がする「通行止め」の場所だったに違いありません。
 今でも、こうやって陽のあるうちに通ることはあっても(それでも、誰一人会わず、車ともすれ違わない)、「菊川」から「日坂」まで夜道をとうてい一人では歩けそうもありません。

 道の左手にあるのが、「涼み松」。

        

涼み松

 小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で 「命なりわずかの笠の下涼み」 と詠んだと言います。それよりこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになりました。この句は延宝4年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記されて帰京の途次の作として記されています。

                   

 ここが「夜泣石」のもともとあったところ。

夜泣石跡

 妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。
その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。

 ここでいう「現在の位置」とは、国道1号線「小夜の中山トンネル」の手前(東京側)の道路脇。
 「夜泣き石」を東京で見せ物にする興行が失敗し、焼津に置き去りになっていたものを地元の人々が運んだとされる(この項、「Wikipedia」より)。
 久延寺境内のものは、本来の夜泣き石ではないそうです。

     (写真は、「Wikipedia」より)

左:鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』。解説文に「遠州中山で妊婦が殺され…」とあることから、本項の夜泣き石を描いたものとされる
右:小夜中山夜泣石。 「日本地理風俗大系 第5巻」(1929年)より


 寛政9年(1797)に出版された『東海道名所図会』によると、「夜泣石 佐夜の中山街道の真中にあり 夜哭松 夜泣石の東一町ばかり左にあり 妊婦塚(はらみおんなづか) 夜哭松の傍らにあり・・・」とこの三つの史跡の関連を述べていますが、「涼み松」は、登場しません。
 また、「命なりわずかの笠の下涼み」の句も、延宝4年(1676)夏、芭蕉が伊賀上野へ帰郷の折、小夜の中山での作ですが、この場所付近で詠んだとは限らず、後世になって、もともとあった「夜哭松」を芭蕉にかこつけて「涼み松」と改称したか、あるいは場所を移して新たにつくったものと思われます。

 この碑の先、右手にあるのが、広重の浮世絵のレリーフ。

    

東海道五拾三次 日坂
浮世絵版画 安藤広重作  保永堂版 小夜の中山
 
 広重は天保3年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保永堂版 東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。
 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保13年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。
 これらの続き絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。
 広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。



 日坂は箱根に次ぐ東海道の難所の一つと言われる佐夜峠。急峻な坂道は駕籠かきも商売にならない。空駕籠を持って登る駕籠かき。下る旅人。この峠の日坂寄りにある伝説の「夜泣石」を眺める人達が描かれている。山賊に殺された妊婦が産み落とした赤子を慕ってこの石が夜泣きしたと伝えられている。幾重にも重なる山のたたずまいは、険しい峠越えの様子を強調している。

(「知足美術館」HPより)

ほぼ同じところから、坂道を見上げる。右手奥に「夜泣石跡」碑。

 当時に比べて急峻なようすがない(もちろん、絵には広重の誇張もありますが)のは、茶畑造成などでかなり切り崩しているからだと思います。山道を崩して道を造成し、茶畑は道の両側、崖の上につくられている印象。

 貞応2年(1223年)成立と考えられる紀行文『海道記』には、「・・・此の山暫くのぼれば、左も深き谷、右も深き谷、一挙に長き路は堤の上に似たり。両谷の梢を眼の下に見て、群鳥の囀りを足の下に聞く。谷の両片は又山高し。九折の道旧きが如し。・・・」と鎌倉初期のようすを表現しています。ただ、ここには「夜泣石」は登場していません。
 その後、徳川時代、東海道を整備した際、「小夜の中山」付近も、もう少し通過しやすくなったでしょうが、両側に深い谷筋があり、その真ん中の山の上を歩いているような雰囲気(まさに「中山」)は、今もまったく変わっていません。

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