「新シリーズ」と言っても、3日で歩く予定(速く歩く方なら2日間で完歩できる道筋)の、
日光御成道(にっこうおなりみち)
江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つ。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。
日光御成道には、こんなエピソードが残っている。
第10代将軍・家治(いえはる)の日光社参の際、行列の先頭がすでに日光へ到着しているとき、最後尾はまだ江戸を発っていなかったという。日光社参は、徳川家の一大行事であり、徳川家の権威を広く知らしめる意味もあった。
寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工とともに、日光社参が制度化され、三代目将軍徳川家光のときに、将軍一行が通る特別な道路として整備され、将軍御成りの道ということで「日光御成道」と称され、道中奉行の支配下になり、五街道同様の管理を受けるようになった。
日光御成道は日本橋から中山道(現・国道17号)を進み、日本橋から一里目の本郷追分(現在の東大農学部正門前の交差点で、「駒込追分」とも呼ばれる)を起点に(中山道が左折、日光御成道が直進)、岩淵宿、川口宿(岩淵宿と川口宿は合宿)、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎて、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流する。将軍の一行は日光御成道では唯一、岩槻宿にのみ宿泊したので岩槻街道(いわつきかいどう)とも呼んでいた。およそ12里30丁(約50 km)の道のり。
(以上、「Wikipedia」等、参照。)
今回歩くのは、本郷追分から鳩ヶ谷宿の手前、南鳩ヶ谷まで。
年の瀬の30日(土)。快晴。
本郷追分は、「中山道」と「日光御成道」との分岐点(追分)です。正面のお店が1751年(宝暦元年)創業の老舗「高崎屋」さん。
この追分には江戸・日本橋より一里目の「一里塚」がありました。(9:18)
追分一里塚
一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4㎞)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね、「現金安売り」で繁昌した。
1880年代のようす。 現在のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
さて、出発(9:19)。「本郷通り」を進みます。
「本郷台地」という丘陵地帯を行きます。けっこう起伏があります。
この付近は、「向丘追分町会」。
沿道には、神社仏閣が並んでいます。「天栄寺」の門前に「駒込土物店跡」碑があります(9:35)。
駒込土物店(こまごめつちものだな)跡
神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
起源は、元和年間(1615~24)といわれている。初めは近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の「さいかちの木」の下で毎朝休むことを例とした。すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起こりといわれている。土地の人々は、「駒込辻のやっちゃ場」と呼んで親しんだ。また、富士神社一帯は駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である「土物」が取引されたので土物店(つちものだな)ともいわれた。正式名は、「駒込青物市場」で、昭和4年(1929)からは、「駒込青果市場」と改称した。
街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の青果市場となって現在に至っている。
「さいかちの辻」碑。 サイカチの木。
「駒込片町」に入ると、養昌寺には樋口一葉が師事した半井桃水(なからいとうすい)のお墓があります。
半井桃水の墓
万延元年~昭和元年(1860~1926)。対馬に生まれ、名は冽(れつ)。桃水は号。別号は菊阿弥。
共立学舎に学び、明治21年東京朝日新聞社に入社して、新聞小説作家として活躍した。・・・
桃水は、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。・・・
その向かいにあるのが、「吉祥寺」。
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し、大寺院となった。僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、1千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称せられた。
吉祥寺
明暦の大火によって、江戸本郷元町(現:文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失した際、幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし、5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。
折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く無人だった武蔵野台地が新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で、五日市街道(現在の東京都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成され、移住者によっては五日市街道から玉川上水の分水である千川上水に至るまでの区画、600間余(1,000m以上)にも及ぶ長大な土地を与えられたものもいた。しかし土壌はさほど良いものではなく、農地はすべて畑地であり水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。
1923年(大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増。美しいケヤキ並木でも知られる成蹊学園が池袋から移転したこともあって、農村から住宅街、そして多くの商店や学生で賑わう街へと変貌を遂げることになった。
地名の由来は、吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことにより、当地に吉祥寺という名の寺院が所在したことはない。
日光御成道(にっこうおなりみち)
江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つ。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。
日光御成道には、こんなエピソードが残っている。
第10代将軍・家治(いえはる)の日光社参の際、行列の先頭がすでに日光へ到着しているとき、最後尾はまだ江戸を発っていなかったという。日光社参は、徳川家の一大行事であり、徳川家の権威を広く知らしめる意味もあった。
寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工とともに、日光社参が制度化され、三代目将軍徳川家光のときに、将軍一行が通る特別な道路として整備され、将軍御成りの道ということで「日光御成道」と称され、道中奉行の支配下になり、五街道同様の管理を受けるようになった。
日光御成道は日本橋から中山道(現・国道17号)を進み、日本橋から一里目の本郷追分(現在の東大農学部正門前の交差点で、「駒込追分」とも呼ばれる)を起点に(中山道が左折、日光御成道が直進)、岩淵宿、川口宿(岩淵宿と川口宿は合宿)、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を過ぎて、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流する。将軍の一行は日光御成道では唯一、岩槻宿にのみ宿泊したので岩槻街道(いわつきかいどう)とも呼んでいた。およそ12里30丁(約50 km)の道のり。
(以上、「Wikipedia」等、参照。)
今回歩くのは、本郷追分から鳩ヶ谷宿の手前、南鳩ヶ谷まで。
年の瀬の30日(土)。快晴。
本郷追分は、「中山道」と「日光御成道」との分岐点(追分)です。正面のお店が1751年(宝暦元年)創業の老舗「高崎屋」さん。
この追分には江戸・日本橋より一里目の「一里塚」がありました。(9:18)
追分一里塚
一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4㎞)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね、「現金安売り」で繁昌した。
1880年代のようす。 現在のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
さて、出発(9:19)。「本郷通り」を進みます。
「本郷台地」という丘陵地帯を行きます。けっこう起伏があります。
この付近は、「向丘追分町会」。
沿道には、神社仏閣が並んでいます。「天栄寺」の門前に「駒込土物店跡」碑があります(9:35)。
駒込土物店(こまごめつちものだな)跡
神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
起源は、元和年間(1615~24)といわれている。初めは近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の「さいかちの木」の下で毎朝休むことを例とした。すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起こりといわれている。土地の人々は、「駒込辻のやっちゃ場」と呼んで親しんだ。また、富士神社一帯は駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である「土物」が取引されたので土物店(つちものだな)ともいわれた。正式名は、「駒込青物市場」で、昭和4年(1929)からは、「駒込青果市場」と改称した。
街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の青果市場となって現在に至っている。
「さいかちの辻」碑。 サイカチの木。
「駒込片町」に入ると、養昌寺には樋口一葉が師事した半井桃水(なからいとうすい)のお墓があります。
半井桃水の墓
万延元年~昭和元年(1860~1926)。対馬に生まれ、名は冽(れつ)。桃水は号。別号は菊阿弥。
共立学舎に学び、明治21年東京朝日新聞社に入社して、新聞小説作家として活躍した。・・・
桃水は、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。・・・
その向かいにあるのが、「吉祥寺」。
長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し、大寺院となった。僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、1千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称せられた。
吉祥寺
明暦の大火によって、江戸本郷元町(現:文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失した際、幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。そのため、吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし、5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。
折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く無人だった武蔵野台地が新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で、五日市街道(現在の東京都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成され、移住者によっては五日市街道から玉川上水の分水である千川上水に至るまでの区画、600間余(1,000m以上)にも及ぶ長大な土地を与えられたものもいた。しかし土壌はさほど良いものではなく、農地はすべて畑地であり水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。
1923年(大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増。美しいケヤキ並木でも知られる成蹊学園が池袋から移転したこともあって、農村から住宅街、そして多くの商店や学生で賑わう街へと変貌を遂げることになった。
地名の由来は、吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことにより、当地に吉祥寺という名の寺院が所在したことはない。
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