ということで、関宿城博物館を改めて訪問。そして、上流編の出発地・栗橋まで歩こうという算段。
2月23日(祝)。快晴。しかし、北風、猛烈に強し。
土手上は吹き飛ばされそうで、強風に向かっての歩行。途中、護岸工事の警備員さんから「風に飛ばされないよう、気をつけて下さいよ」と激励(注意)されます。
東武アーバンパークライン(東武野田線)「川間駅」からバスを乗り継ぎ、ようやく10時前に「関宿城博物館」に到着。さっそく城内へ。
アプローチには、
蛇籠とは、災害復旧および河川改修の時に使われる工法の一つで、竹で亀甲状に編んだ円筒状の籠の中に自然石などを詰めて川底に入れ、川の流れを止めたり、弱めたりするものです。現在は素材は竹だけではなく、メッキをした鉄線で、護岸・根固め・水制・床止め・耐震・擁壁・排水といった、様々な目的で用いられています。蛇籠の名称の由来は、「形が蛇に似ているから」とか、「昔から川には蛇の伝説がつきものであったから」という説があります。
この小舟は、母屋より高く土を盛った「水塚」(みづか)の軒下に吊るして洪水避難用に使われたもの。
65歳以上は無料。検温や手指消毒、住所登録などしっかり行ってから館内に入場。
「暴れ川」利根川とは、治水工事など長年の闘いの歴史。そうした先人のようすが視覚的に解説されています。
明治時代の築堤工事。
江戸幕府による「利根川東遷」事業以前、以後のようす。開削工事進展による河川の変遷。海運による繁栄・・・。
舟運の拠点だった関宿河岸。積み荷を扱う商人が集まり、蔵が建ち並び、市場が開かれました。茶屋、旅籠、遊郭、賭場などもあった。
利根川水運の主役として活躍した高瀬船の3分の1模型。
高い帆を掲げた高瀬船。河岸問屋としょうゆ蔵の風景も再現されている。利根川水運の発達で、野田・銚子のしょうゆ、佐原の酒、流山のみりんなどの産業が発達した。
関宿城の模型。
利根川と逆川・江戸川に囲まれた平城。
関宿絵図。
4F・天守閣(展望台)に上がってみます。四方が見渡せます。
利根川の流れ。
筑波山。
富士山。
利根川に架かる橋は、「圏央道」。その奥に赤城山。
見学を終えて、栗橋に向かって歩くことに。
この施設は充実していて、なかなか見応えがありました。
アクセスとしては東武線・川間駅からのバスか車で来るしかない、と不便ですが。
そこで、「関宿城」について、「Wikipedia」によって。
関宿城
千葉県野田市関宿三軒家にあった日本の城である。室町時代に簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、以降簗田氏嫡流の関宿簗田家の居城になったと伝わる。江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれた。
・・・利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点であった。戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であった。関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評した。
戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)。北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を、3度に渡り攻撃。最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした。
建造物としては「御三階櫓」と呼ばれる天守状の櫓が代用として建築され、1671年に再建された際には江戸城の富士見櫓を模して再建されたという。現在千葉県立関宿城博物館に御三階櫓を模した模擬櫓があるが、この模擬櫓は1995年に建てられたもので、城跡とは無関係な場所に建てられている。藩政時代に御三階櫓が築かれた場所は河川改修により旧状をとどめていない。
また、市内関宿台町にある元藩主久世家の菩提寺である実相寺の客殿は、文久2年(1862年)に坂下門外の変、また公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、失脚した前老中の久世広周が謹慎した関宿城本丸新御殿の一部を明治4年(1871年)に移築したものと伝わり、市の名所となっている。
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