
本所吾妻橋交差点。
時折、目にするTV番組。ひたすら鉄道線路に沿って歩く、という企画。
都内から他県へは自粛せよ! というお達し。街道歩きも出来ず、いささか退屈。運動不足も加わって・・・。
そこで、TV番組にあやかって、都内の線路伝い(当面、京成電車)をしてみようと。さっそく、本所吾妻橋駅から青砥駅まで。約14,000歩。
かつて、東京の下町・墨東地区。家々の軒先をかすめるように走っていた京成電車。「押上(地下駅)」から「四つ木」までは高架線になり、さらに「四つ木」から「青砥」までは高架線すべく工事が進んでいます。
さて、その変貌ぶりは?
左手に「スカイツリー」が見えてきます。
「大横川親水公園」。「業平橋」から。
「業平橋」付近の今昔。○が「業平橋」。かつての橋は少し上流に。
1880年代のようす。 2010年代のようす。
「浅草通り」の下を進む都営地下鉄浅草線は、この先で、左に折れ、押上駅に進みます。
○の付近から北東へ。下方の線路は、浅草駅に向かう東武線。
このビルの下辺りを進むか?
「浅草通り」。
昔からのお店や新規開店のお店など。頭上に電柱がないので、すっきりした印象。一方で、何となく寂れた街並みに。スカイツリーにお客を取られたのか、歩く人もまばら。
「北十間川」。左奥に見える建物がかつての京成電鉄の本社ビル。
左に「スカイツリー」。外出自粛で、外国人も日本人もほとんど見かけない。かつての賑わいをいつ取り戻せるか?
かつて、川沿いの一画は大きな「生コン」の工場があり、ミキサー車などがたくさん出入りしていました。
「生コンクリート工場発祥の地」記念碑。
戦後、わが国のセメントが統制下にあった時代、昭和24年(1949)11月この地に日本で初めての生コンクリート製造会社が操業されました。
それまでの施工方法に比べ、簡便で工事費が安価であることから、生コンクリートは道路、鉄道工事を中心に急速に広まり、わが国の高度成長期を支えてきました。
ここに生コンクリートの発祥の地を記念するとともに、今後も社会基盤を支えていくことを願い、記念碑を建立いたします。
写真は、もとあった大きな二つの「セメント工場」(「東京エスオーシー」「日立コンクリート」、・・・)がすっかり整地され、その向こうに工事現場をのぞんだもの。はるか遠く中央奥にかすかに見えるのは、アサヒビール本社ビル。左は、高層住宅。右手の奥に、墨田区役所の高層ビルがある。
東京エスオーシー(「住友大阪セメント」の直系生コンメーカー)の業平橋工場は、日本初の生コン工場として1949(昭和24)年に操業し、主に大型建築物へのコンクリートを供給していましたが、2007(平成19)年10月に操業休止。同じように、製造・販売していた日立コンクリートも、ほぼ同時に操業をやめました。
ここは、見上げるような大きな設備と、ひっきりなしにミキサー車が出入し、いつもほこりでもうもうとしているような地域でした。
(2009年4月投稿の記事より)
「押上・業平橋駅周辺土地区画整理事業」記念碑。
この地域の歴史と発展が記されている。
東武の「業平橋」駅は、「東京スカイツリー」駅になっています。『伊勢物語』「在原業平東下り伝説」にちなんだ駅名だったのですが。(この駅は、「吾妻橋」、「浅草」、「業平橋」と、3回も名を変えています。今回で4度目の改名。)
「京成橋」。地上駅だった「押上」駅を出ると、正面にこの橋がありました。
・・・
写真③は、1957(昭和32)年頃の写真です。都営地下鉄浅草線が開通するまで、押上駅は、戦後まもなく建てられたバラック建ての駅舎でした。京成橋の欄干もまだ木造ではなかったかと記憶しています。
左が「京成本社」。
・・・
1952(昭和27)年5月、上野公園?押上駅前経由?今井橋間に都営のトロリーバスが開通しました。
経済発展と共に交通量が増大し、都内の交通機関の拡充が求められていました。しかし、当時はガソリンが不足しており、価格も高価であったため、まだバスの普及は困難でした。トロリーバスは都電にくらべて、レールの敷設が不要であり、容易に施工が出来たこともあったため、都電に替っての普及が期待されました。
上野公園~今井橋間の開通に続いて、1957(昭和32)年1月、明治通りを走る池袋駅~福神橋経由?亀戸駅間が開通します。料金は全線15円でしたが値上げが重なり昭和42年には30円になりました。(「墨田区の昭和史」より)
その後、ガソリンも充足し、大型バスの普及により、都電の廃止と共に、1968(昭和43)年9月、トロリーバスは廃止されました。わずか16年間という短かい期間の運行でした。
トロリーバス・都電が廃止された同じ年の1968(昭和43)年11月、都営地下鉄浅草線が全線開通しました。
(この項、「押上一丁目仲町会」HPより)
トロリーバスのモニュメント(今井橋)。上がトロリーバス、下が城東電車。
かつての本社ビルの今。現在は、ホテルなどの複合施設に。
「押上駅(スカイツリー前)」入口。
「押上」の地名の由来としては、
①海岸線(東京湾=江戸湾)が今の北十間川・現在の京成橋あたりの所まであり、そこへ常に潮が押寄せ、押上げた所からこの地名が興った。
②東京湾に注ぐ隅田川(他の河川も含め)が作った土砂が少しずつ堆積し、押し上げられて陸地化したことに由来する。
という2つの説があるようです。海の土砂か川の土砂か? その両方か?
近辺には「向島」「請地(浮き地?)」「小梅(小埋め?)」「中ノ郷」「柳嶋」「京島」「寺島」「牛島」などという地名があり、河口付近(海岸の浅瀬付近)の湿地帯に島のように少し盛り上がった土地があったようです。現在の様子からでは考えられませんが、今でも「向島百花園」付近は、海抜ゼロ㍍地帯です。
ついでに「業平」に関しては、
業平という町名の起源は中ノ郷八軒町(現在の浅草通り伊北の吾妻橋三丁目)に「業平天神」が祀られていたためで、この「業平天神」は明治初年迄「在原神社」の名で中ノ郷八軒町の「南蔵院」にあった。平安時代の歌人在原業平を祀ったといわれるのが、この「在原神社」である。「江戸名所図記」と云う本に「在原業平が京に上がろうとして、この地で舟がこわれ、死なれたのを塚にしてとむらい。地名も業平村と云う」という意味の事が書かれていると土地の古老は伝えている。何れにしても在原業平か又は、その名に関係する塚にして、この地に「業平天神」が建てられたのもごく自然の縁起といってよい。「南蔵院」は山号を業平山と称し、大岡政談の「しばられ地蔵」で古くから有名な寺であったが、区画整理で葛飾区へ移転した。このように業平の地名の起こりはまことに由緒深いものである。
なお、業平橋は寛文2年(1662年)に、当時の奉行伊奈半十郎によって「南蔵院」から東方約百メートルの地点に作られた。長さ7間、幅2間の板橋で、「業平天神」にちなんで命名された。現在の洋式鉄橋は昭和5年3月に架設された。
業平の中心を東西に走る浅草通りは、区画整理にともなって現在の広さに拡張された。
(この項、「おしなり商店街振興組合oshinari.jp」HP参照)
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