おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

都営線「本所吾妻橋」駅~京成電鉄「青砥」駅。その2。曳舟。再開発。資生堂。曳舟湯。亀戸線。

2020-05-21 19:40:32 | 沿線歩き

                        地上に出てくる京成線。

線路脇を進みます。下に京成線。奥にスカイツリー。

踏切付近。遠くに曳舟駅手前の高層住宅

                             (左:「URイーストコア曳舟」、右:「アトラスタワー曳舟」)

すぐ脇を電車が通過します。線路際にはちょっとした緑の空間。

 

来た道を振り返る。

線路脇の小道を進みますが、途中で行き止まり。回り道して線路に近づこうとしますが、・・・。

「URイーストコア曳舟」が遠くに。

ここも線路に阻まれ、行き止まり。

実は京成線、東武亀戸線を高架で越えていきます。迂回して東武線の踏切を渡ります。奥が京成線の高架。

 

 東武亀戸線は、亀戸駅から曳舟駅までの3.4KMのミニ路線。この線は、一時期東武伊勢崎線の都心へのアプローチ路線として、幹線扱いだった時があります。
今のJR総武本線が総武鉄道だった時代、亀戸駅から当時ターミナルだった両国橋駅(現・両国駅)まで乗り入れていました。

〔主な年表〕(「Wipedia」による)

1904年(明治37年)4月5日 亀戸 - 曳舟間 (3.4km) 開業。 
1907年(明治40年)9月1日 乗り入れ先の総武鉄道が国有化され総武本線となるも、乗り入れは継続。 
1910年(明治43年)3月27日 総武本線への直通運転を廃止。 
1918年(大正7年)3月27日 全線を軽便鉄道法による軽便鉄道に変更。 
1925年(大正14年)9月4日 天神駅再開業。
1928年(昭和3年)4月15日 亀戸線全線電化。同時に中間駅として、亀戸水神駅、 北十間駅、平井街道駅(現・東あずま駅)、小村井駅、十間橋通駅、虎橋通駅が開業。 
1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲により、虎橋通駅廃止。 
1945年(昭和20年)5月20日 平井街道駅廃止、北十間駅・十間橋通駅休止。 
1946年(昭和21年)12月5日 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とする。北十間駅は廃止。 
1956年(昭和31年)5月20日 旧・平井街道駅の位置に東あずま駅を開業(事実上の再開)。 
2004年(平成16年)10月19日 ワンマン運転開始。 

 東武亀戸線は、曳舟からの延長線として越中島方面へと計画されましたが、越中島付近の敷設工事に着工する事が出来ませんでした。そこで、当時は亀戸から総武鉄道(現JR総武線)へと乗り入れ、両国までの直通列車が運転されました。

 その後、隅田川に架橋して現在の「浅草」駅が完成、東武鉄道は都心に乗り入れることになりました。そうなる以前、今の「東京スカイツリー」駅(その前は「業平橋」駅)が、「浅草」駅となっていた時代もありました。
 こうして、亀戸線はローカル線として存続することになります。

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅的な状況になり、亀戸線の駅舎も焼き尽くされ、亀戸線の中間の駅はほとんどが休止か廃止になりました。一方で、曳舟付近の低層住宅(亀戸線以北地域)は偶然にも類火を免れました。亀戸線が防火線になったようです。gooの1946年(昭和21年)当時の航空写真を見ても歴然としています。

 亀戸線は、現在、「曳舟」~「小村井」~「東あずま」~「亀戸水神」~「亀戸」の駅がありますが、今も東京・下町の大事な足として、地域とのつながりも深い路線となっています。

 年表にもあるように、かつては「曳舟」と「小村井」(ある時期から、この読みも「こむらい」から「おむらい」に変わっています)の間に、「虎橋通」駅と「十間橋通」駅があり、「亀戸」と「東あずま」(旧「平井街道」)との間に「北十間」駅がありました。
 また、「Wikipedia」には、「天神」駅という駅名もありますが、「小村井駅」から曳舟方に進んで1つ目の踏切付近に天神駅があった、とされています。

(この項、2015年4月投稿「東武・亀戸線再訪〈廃駅跡をたずねて〉」より)

 

うろうろしているうちに高架線の下に。

東武・京成「曳舟」、曳舟通りを挟んだ地域は大きく変貌を遂げています。

曳舟エリアの歴史
京成の東武も「曳舟」駅ですが、「曳舟」という住居表示は現在存在しません。・・・
曳舟を含む墨東エリアは日本の1880年代から1920年代まで工業で日本の近代化を支えた地域です。この頃に曳舟でも大小様々な工場とその工場で働く従業員向けの長屋が多く建設されました。曳舟界隈は第二次大戦の空襲で焼け残った街区も多く、戦後もその区画割りを残したままになっていました。
そのため現在も多くの街区で低層の木造家屋が密集したままになっています。防災上もリスクが高く、行政も道路の拡張や防災公園の建設に力を入れて来ましたが、部分的な改良だけでは限界がありました。
住民からわき上がった開発計画
その様な状況の中、住環境の改善と災害に強い街づくりを指向し、大規模な開発を求める声が住民から起こりました。対処療法ではなく、根本的の解決策として大規模な再開発を選択したのです。
資生堂東京工場跡地に建設された公団住宅を核にして開発を進めるようになりました。1980年代後半には民間業者と事業を進めましたが、バブル崩壊で話は潰れたようです。平成7年準備組合が住宅・都市整備公団(現=都市再生機構)と協議。昭和62年4月 住宅・都市整備公団(現「都市再生機構」)賃貸住宅「曳舟駅前プラザ」完成。
平成5年4月「曳舟駅前地区市街地再開発準備組合」設立。平成10年「曳舟駅前地区」に京島1の1(永柳工業)が加わり、現在の範囲(2.8ha)になりました。
平成11年7月「京成曳舟駅前東第一地区市街地再開発準備組合」設立。平成12年 押上駅-八広駅間の京成押上線都市計画事業認可事業着手。平成13年「曳舟周辺地区」地区計画の方針区域を決定。京島1丁目の11.2haまで拡大というような経緯を経て現在の曳舟再開発が進んできました。

(この項、「」HPより)

※曳舟川沿いにあった主な工場は、ミツワ石鹸、資生堂、鳥井陶器、共和レザー、富士革布、永柳コルク、帝国発条、大同製鋼、菊美酒造 (現合同酒精)、日本鋼釘、等。
 山田洋次監督の 映画『下町の太陽』は、曳舟駅付近にあった資生堂の石鹸工場とその周辺を舞台にした映画で、主人公・倍賞千恵子は、資生堂で働いている。

「曳舟川」とこの近辺は何回か投稿しています。

  

現在の埼玉県の越谷(東武越谷駅の東)付近、利根川の支流・中川(元荒川)から取水し、江戸の本所・向島や亀戸への上水道として流れていた川が、今の曳舟川の前身。古くは、亀有上水(葛西用水とも)と呼ばれ、葛飾区内では、近年まで、川の中に瀬が続いて、二本のけっこう広い流れになっていた。
 途中(現在の葛飾区内の荒川放水路の手前)で、亀戸・中居堀への水路(正しくは、現在「向島警察署前」という信号機、明治通りとの交差点を八広から来る道。)と、向島へ向かう水路に分かれていく。
 もともとは、明暦の振袖火事(1658年)によって、江戸城の天守閣が焼け落ちる(その後、天守閣は二度と再建されなかった)などの江戸市中が大火災に遭った後、隅田川(荒川の下流)以東の地(それまでは、下総の地であった)を江戸市中として開発するために行った上水道計画で、本所、深川、向島、亀戸付近に水を供給したのである。
 この時には、「本所奉行」が新設され、大横川、横十間川、北十間川、小名木川(おなぎがわ)、竪川(たてかわ)などの人工水路が縦横に掘削され、物資や人の交流が盛んになっていった。
 その水路は、今でも錦糸町駅の北側に大きな伽藍を構える法恩寺付近までつながっていたという。この地域の水路は、享保7年(1722年)に廃止され、現在の北十間川以北が、水路として残され、「曳舟川」という名称となった。
 曳舟川のいわれは、舟を両岸から引っ張っていたことからだという。客を乗せたり、米、肥料、日用品などを運んでいた。(水戸街道・四つ木橋北詰にある「四つ木めだかの・・」と名付けられた親水公園に、このへんのいきさつが書かれた碑があるが、ちょっとおおざっぱすぎる。)
 そのうち、最近まで、葛飾区内には、そのままの流れが残っていたが、近年の下水道工事の進展などで、長い親水公園や駐輪場になっている。
 一方、荒川放水路を越えた、墨田区側は、かなり前にすでに道路となって、「曳舟川通り」と名付けられている。新四つ木橋から東武線業平駅付近、言問橋から来る通りとの丁字路まで。
 京成線の駅の数にして3つほどの距離。信号が多い通りなのは、かつての橋が架かっていた名残なのか。昭和20年後半頃までは、まだ川が流れていたような気がする。情緒豊かな川なんていうものではなく、周辺の町工場の排水や生活排水などがそのまま流れ込んでいて、まさにどぶ川であったような・・・。(隅田川も真っ黒で悪臭やら何やら、魚が生息できるような川ではなかった。下水道が完備される前の下町の河川は、どこも同じような状況であった。)
 実は、曳舟川通りの交差点の先、小さな公園と路地までが、曳舟川の痕跡。
 写真は、その元の曳舟川が、北十間川と合流する辺りから、曳舟川通りの北方を写したもの。右の植え込み部分が、もとは川筋だった。
 東武(京成)曳舟駅付近は、再開発の真っ最中。京成と東武に挟まれた、かなり広い敷地が高層マンションやショッピングモールに大きく変わろうとしている。
 東武線の線路を挟んだ向こう側には、「スカイツリー」という600㍍タワーが建設中。すでに5階くらいまでの骨組みが完成している。
 あと数年で、この辺りも大きく変貌するに違いない。

(2009年3月投稿)

写真は、かつてあった「曳舟湯」。レトロな味わいのあるお風呂屋さんでした。

  その後、このお風呂屋さんは戦前からの80年という長い歴史を閉じて、廃業しました。
 この周囲。スカイツリーの開業や京成線の高架化、密集した住宅の集合住宅化(高層マンションや大型ショッピングモールなど)によって、ここ数年の間に大きく変化しています。
 京成線の西側は行き帰りで通り、その町並みの大きな変化も身近に感じますが、東南側は「ひきふね図書館」以外、あまり歩く機会がなくなりました。
 そこで、久々にかつてあった「曳舟湯」付近をちょっと歩いてみました。実に様変わり。「曳舟湯」がどこにあったのか、皆目見当がつかないほど。建物だけでなく路地もなくなり、道路も付け替えられ、広くなって・・・。
写真の奥付近? 

この付近にあったはずですが。

「スカイツリー」。

 一帯は再開発され、「アトラスタワー曳舟」という大きなマンションになっています。一部が「曳舟湯」にかかっているようです。
○付近が「曳舟湯」跡? 

かつての町並み。密集した家々。

 実はその「曳舟湯」さん。「アトラスタワー」の1Fで喫茶店を開いていました。ご主人もそのまま。店名は「1010CAFEいちまるカフェ」。


               

 ちょうどかつて「曳舟湯」があったところなのです。何だかホッとしました。そういえば、チェーン店ばかり営業している中で、当時の中華そば屋さんや床屋さんなどもマンションの一角で営業していました。

そこから京成曳舟駅方向を望む。

この奥の方はかつてのまま。

児童公園。

 そういえばやはりこの付近に「三佑酒場」という飲み屋がありましたが、そのお店もありません。
 (2017年8月投稿)


現在の京成曳舟駅入口。


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