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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その6。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-10-04 18:58:50 | 奥州街道
 かつては橋の手前を左に曲がって川を渡ったようですが、今はこのまま道を急ぎます。橋の上流には観光用のやな場が見えます。釣り人もチラホラ。「佐久山観光やな」という施設のようです。
(TV TokyoHPより) 
 梁漁(やなりょう)とは、川の中に足場を組み、木や竹ですのこ状の台を作った梁(やな)という構造物を設置し、上流から泳いできた魚がかかるのを待つ漁法である。アイヌ語ではウライと呼ばれる。
 すのこは上流側に傾いて設置され、上流側では水中にあり、川下側では水上にある。川の水はすのこを通って流れるが、上流から泳いできた魚はすのこの上に打ち上げられる(強制陥穽)。観光やなでは、梁場に自由に出入りができ、打ち上げられた魚は自由に捕まえることができるが、真ん中にある生簀に入れ、持ち帰ることはできない。また、有料で捕まえた鮎を持ち帰ったり、料理してもらえる梁もある。秋に産卵のために川を下るアユなどには効果的な漁法である。
 やなとは、梁漁(やなりょう)を売り物にした食事処である。観光やなともいう。
 梁に入って鮎を捕まえて楽しむことが出来たり、食事ができる。料理は主に鮎料理だが、やなに上がったアナゴやウナギを出すやなもある。基本的には河川にやなを設置し行われるが、生簀や人工川を設けて行う施設もある。
 通常は6月下旬〜10月末、場所によっては4月下旬〜11月末までである。開催時期には釣り解禁日や禁漁日が関係する場合があるため、その地域の漁業協同組合によって異なる。

那珂川水系にある「やな」

大瀬観光やな - 栃木県芳賀郡茂木町
矢沢のやな - 栃木県那須烏山市
観光やな・ひのきや - 栃木県那須烏山市
舟戸観光やな - 栃木県那須烏山市
高瀬観光やな - 栃木県那須郡那珂川町
黒羽観光やな - 栃木県大田原市
余一やな - 栃木県大田原市
那須塩原観光やな - 栃木県那須塩原市
一ツ石観光やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
森田城やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
高瀬観光やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
ゆりがねのやな(武茂川) - 栃木県那須郡那珂川町
馬頭観光やな(武茂川) - 栃木県那須郡那珂川町
佐久山観光やな(箒川) - 栃木県大田原市
松原やな(箒川) - 栃木県大田原市
箒川観光やな (箒川)- 栃木県矢板市
                                      (以上「Wikipedia」参照)
 「那珂川」水系には、けっこうあります。

 しばらく釣りの様子を眺めていました。さて出発! 道路際には草花が。


(15:09)左手の路傍に馬頭観音等が建っています。

この地は「那須与一」の地。「与一卵」。 

ほぼ直線の道が続きます。

古い屋敷門のあるおうち。


 (15:19)そのすぐ先で小さな橋を渡りますが、小川を覗くと清流に水草が揺らいでいます。どこかで見た風景。そう、旧中山道・熊谷宿に入る手前に同じような水草がそよぐ清流がありました。
 世界で唯一存在するる「ムサシトミヨ」という「トゲウオ科」に属する淡水魚の生息地でした。、
(熊谷にて)。

「ムサシトミヨ」。

 この川は同じ「トゲウオ科」に属する「イトヨ」の生息地のようです。
「イトヨ」。

 この魚の種類は、「イトヨ」と「トミヨ」の二種があって、春季河口より川を遡って産卵し、幼魚は海に下って育つ習性をもっています。石川、山形、新潟の各県に生息しており、大きさは約3センチメートル余りで、本市のイトヨは幼魚・成魚ともにこの河川中に常時生息するという封土的特異性があるので珍しいといわれています。4月~5月の産卵期になるとオスは鮮紅色となり、動作が活発になります。このころ、流れのゆるやかな泥土質の場所や水生植物の根茎部にチクワ型の巣をつくり、産卵が終わると巣の片方に蓋をしてオスは外的を監視して目は燐光を放ち、背の三本刺を倒立させて巣のまわりを警戒します。地元では、”とげ魚”と呼ばれ親しまれています

                             (「大田原市観光協会」公式HPより。写真も。)

 次第に西日が強くなってくる中、旧道は延々続きます。
    

右手が開けてきます。

交差点のところに『那須与之墓』という道標が立っています。

 「親園」という集落に入っていきます。
    

 しばらく進むと、右手に国井宅の見事な赤マツ。
    
【与一の里名木選】
 名    称  国井宅の赤マツ(一本)
 目通り周囲  1.7メートル
 樹    高  7.0メートル
 推 定 樹 齢  約200年
 選 定 理 由  古木

     平成3年12月19日 大田原市
 その先、左手に「湯殿神社」。

 その入口付近に「鞘堂」があって、「浦蘆(ほろ)碑」という石碑が納められています。 
    

蒲慮碑 史跡(昭和36年3月22日指定)
 文化9年(1812)10月那須野に一隊の兵士が刀を荷い槍をうち立て行進する蜃気楼が現れた。たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚僧が目撃し、この光景を記した。それが蒲慮碑原文である。のちに石に刻んで建立したのがこの碑である。
 土地の者は蜃気楼のことを「ホロ」と呼んでいた。当時親園地区は八木沢村と呼ばれ、代官・山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていた。山口鉄五郎は水路を開消し新田を開発するなど農村の振興につとめ領民から深く親しまれていた。人見伝蔵は著者「那須野蜃気楼・蒲慮碑考」の中で、中国の書「中庸」の中には「政治は蒲や慮のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲慮に結び付けたものとしている。
 原文は奉書に隷書体で一行13字、13行に書かれている。この碑文には楷書で本文159文字が刻まれている。

斜め向かいには立派な門構えの目のおうち。

 その屋敷門の左の内側に「祠」のようなものが置かれ、「町初(まちはじめ)碑」が納められています。
    

町初碑 史跡(昭和43年2月15日指定)
 碑は、高さ55センチメートル、周囲93センチメートルの自然石で、表面に「此町初寛永四卯(ひのえ)年」、裏面に「国井与左衛門」と刻されている。
 この碑は三代徳川将軍家光の寛永年間(1624~1644)に奥州街道筋に八木沢が開かれ、それを記念しての建立であろう。国井与左衛門はこの地の名主役をつとめ、代々与左衛門を名乗った。
 寛永4年(1627)は「丁(ひのと)卯」であることから本碑は後年の建立と思われる。この寛永4年を奥州道中の開通の年とみる向きもあるが、そうではなく、これはあくまで町初めの年である。いずれにしても町初めの年を石に刻し、その起源を明らかにしている点、歴史的価値は高いものである。

この碑の先で、「百村(もむら)川」に架かる「筋違橋」を渡ると、

 ここから大田原宿入口まで約3㎞に及ぶ直線道路。
    

 この間「百村川」の川べりをひたすら歩きます。「百村川」から離れて、やがて左にカーブすると、街中に入って行きます。

「大田原宿」入口。

「神明町交差点」に。

 ここを右折すると大田原宿に入って行きますが、今回はここまで。

 さて、帰りはどうするか? 「末広2丁目」バス停の時刻表を見ると、早くも終バスが出た後。これからJR「西那須野」駅まで小一時間歩くしかないか。ふと左手にビジネスホテル。タクシーを頼むことにします。
 フロントの方、「目の前がタクシー会社の車庫ですよ」とすぐ呼んでくれました。助かりました! 「西那須野」駅まで1.450円。在来線で帰って来たので、金額的にはまあまあです(路線バスだと「那須塩原」駅に向かい、バス代は200円ですが、新幹線で帰ることになったら? )。 

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