おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

白坂宿~白河宿~女石の追分。その4。(「奥州街道」をゆく。第5日目。)

2016-11-10 18:44:50 | 奥州街道
 (11:54)宿内には、他にも明治期の歴史的建造物が残されています。ただ、この地域は戊辰戦争の激戦地だったため、明治以前の建物、史跡等はほとんど残っていないようです。旧奥州街道の道筋のみがかつてを知る手立て?


歴史風致形成建造物 大谷家住宅建造物群 
 大谷家は、元々味噌醸造を営む商家であった。明治後期に本町大谷忠吉本店から味噌醸造店として分家・創業し、昭和52年頃まで営業していた。
 旧奥州街道に面した2棟の蔵は、創業当時の明治後期に建築されたもので、内部空間は土間を持つ店舗や座敷蔵となっており、主屋部分は中庭に連続する伝統的な町屋建築となっている。
                               白河市

その隣には、「楽蔵」。
                 お土産屋さん、飲食店などが並んでいます。「白河戊辰見聞館」などもあり。

  (HPより)

 しばらく進むと、再び桝形になり、「常陽銀行」のところを右折、その先を左折していきます。
    
                                        左折したところ。右角にベンチあり。

「中町」から「本町」に入ります。宿場の中心街。

(12:00)右手に「本陣芳賀家跡」があります。現在は「堀川印刷所」となっている辺り。

白河宿本陣芳賀(はが)家跡
 本陣は、江戸時代の大名、幕府役人などの宿舎となる旅籠である。白河宿の本陣は、この地にあった本町の芳賀源左衛門家が代々務めた。明治9年(1876)明治天皇の第1回東北巡幸の際には休憩所とされた。本陣芳賀家の表門口は当時約16間余り(約30m)であった。
                                             本町復起会
      
その向かい側に「脇本陣柳屋旅館跡」。

歴史的風致形成建造物 旧脇本陣柳屋旅館建造物群
 本町は江戸時代の奥州街道白河宿の中心で、本陣・脇本陣をはじめ旅館が50軒ほど軒を連ねていた。この地は脇本陣柳屋旅館跡地で、奥には当時の旅館の屋敷蔵がある。脇本陣を経営していた柳下家は、江戸時代の「本町絵図」には旅館渡世 柳屋丹右衛門」と記され、代々旅館を経営していた。
 表通りに面して建つ建築物は明治期に「勧工場(デパート)」として建築されたもので、文明開化の時代を伝える洋風建築物である。奥には江戸時代に建築された座敷蔵があり、明治14年(1884)に明治天皇の宿泊所になった由緒を持つ蔵である。座敷蔵は3室あり、一番奥の座敷は玉座と呼ばれ、床の間・違い棚・付け書院を兼ねた本格的な書院空間となっている。

                                            白河市

 左の建物がその「勧工場」。白河における初めての百貨店の建物だったようです。当時の雰囲気が外装などに感じられます。
    



白河県立病院・白河医術講議所跡」。
 明治4年(1871)8月、白河県(明治2年~4年)は、県立病院と医術講議所を白河宿本陣の芳賀源左衛門宅の一部に開業した。病院長に大学東校(後の東京大学医学部)の教授横川正臣、旧白河藩医岡崎東海など医師7~9名で診療を行った。病院に付属させた医学生教育機関の医術講議所もあわせて設置された。
 明治4年11月白河県が福島県に包括されると、翌5年2月病院医術講議所は須賀川へ移転した。この場所は、全国に先がけて、近代病院経営と医術演習の草創期をになった地である。

                                               本町復起会

古旅籠風の商家。

(12:03)「本町」解説板。

本町(もとまち)
 「十軒店」と称される、ひときわ大きい「カギ形」で中町と接しているのが本町です。「白川風土記」(1805年完成)によれば、家数は96軒で、町名の由来は記されていませんが、一説には古くからの町であるためとも言われています(「白川因縁記」)。
 職業が記される町の絵図では半数近くが宿屋であり、旅館街ともいえる町でした。大名が参勤交代の際などに宿泊する本陣と脇本陣も置かれていました。

                                                白河市

    

萩原朔太郎の妻・美津子の生家
 この地は、日本を代表する大正・昭和期の詩人である萩原朔太郎ゆかりの地である。当地の大谷忠一郎は、家業の酒造業を営みながら詩人として活躍した。忠一郎は、萩原朔太郎にも師事し、「北方詩人」などを主宰した。萩原は、当地の忠一郎のもとを度々訪ねており、そのよう縁で忠一郎の妹美津子と昭和13年(1938)に結婚した。
                                 本町復起会

「白陽」の蔵元。

 「奥州街道」はその先の信号を左折しますが、その右角に明治13年創業の「渋木茶舗」があり、その建物の左隅に「岩淵悦太郎の生家跡」の解説板があります。
    
                      渋木茶舗建造物群・岩淵悦太郎生家跡
 
歴史的風致形成建造物 渋木茶舗
 渋木茶舗は、明治13年(1880)に八百屋町渋木家から独立した渋木啓次郎氏によって横町に渋木商店として創業された。その後明治23年に当地に移転営業し、丸喜園茶舗、さらには渋木茶舗と名称変更した。当初は養蚕家であったが、次第に茶舗としての営業を行うようになった。
 建造物群は、旧奥州街道に面した伝統的な切妻・平入り形式の店舗。その奥にかつては住居であった主屋・中庭の奥に座敷蔵という構成であり、白河の伝統的な町屋建築である。これらの建造物は、明治23年頃に建築されたものである。

                                                白河市
 現在は「お休み処」になっているようです。

岩淵悦太郎生家跡
 岩渕悦太郎は、現代日本語の生態の科学的研究方法の基礎を作った国語学者である。文部省教育課程審議会・同国語審議会等の委員を務め、 NHK放送文化賞を受賞している。主な編著作は「日本方言地図」「岩波国語辞典」「国語史編集」などがある。
 この地は、悦太郎の生家の跡である。悦太郎は明治38年(1905)に白河の本町で酒造業を営む「岩淵屋」に生まれ、少年期に東京に引っ越し、東京帝国大学を卒業の後、国立国語研究所の所長などを務めた。昭和53年没。
                                                                                                                     本町復起会

 「岩淵屋」は現存しないようで、空き地(広場)のところにあったものか。

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