おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その1。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-12 23:09:34 | 奥州街道

 相変わらず不順な天気が続きます。10月10日体育の日。運動日和(らしい)。久々に予報では曇り時々晴。湿度も高くなさそう。
 そこで、「奥州街道」3日目。前回の地点「大田原」の「神明交差点」までやってきました。JR在来線で「西那須野」駅に9時前に到着。駅前ロータリーから市営バスに乗って、と。料金は200円。「末広二丁目」バス停。
 ところが、このバス。市内をぐるぐる循環するバス。右に行き、左に行き、まっすぐ行きと、まさに大きな通りをぐるぐる回ります。「日赤病院」へ、「工業団地」へ向かい、「市役所」に停まり、・・・、なかなか目的地に着きません。「東武」とかバイパスの大きなテナントが軒を並べる道を通るなど、言ってみれば「市内巡り」。
 ということで、乗っていた数人の方もすっかり途中下車し、一人、やっと目的地に着きました。

 スタートは9時50分を過ぎたところ。これでは、約22㎞先、「芦野宿」の「芦野仲町」のバス《15時58分 「黒田原駅」行き》に乗れるかしら? 少し不安なまま、出発です。間に合わなければ最終の16時58分発でもいいか、と。

 天気は、思ったよりも雲が多く、時折、雨の心配をしそうな雲行き。でも、晴れ間も出て、1日、何とか持ちました。暑くなく、寒くなく、涼風も吹いて、飲み水もペットボトル1個で済んだほど。ただあまり寄り道をせず、ひたすら歩いた感じです。約32.000歩。前回(第2日目)が約40.000歩でしたから、時間にして1時間ほど少ない歩きでした。
 日曜のせいか、車はかなり行き交いますが、ほとんど誰とも会わず、挨拶や会話した人は5,6人という静かな旅です。

街中にはきれいな用水が目につきます。

閑散とした街のようす。

左手に「薬師堂」。この付近で、道は桝形になっています。

「大田原宿下町」道標。

 「裁判所」の向かい側・右手に「本陣・問屋・高札場跡」と記された案内板があると聞いていましたが、気がつかず通り過ぎてしまいました。左手にある「大田原信用金庫」の前には、那須与一の銅像が建っています。ここは、那須与一のゆかりの土地らしいです。

                             

那須 与一
 嘉応元年(1169年)? - 文治5年8月8日(1189年9月19日)?)
 治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とす逸話が有名。
 この銅像もそれにあやかったもののようです。弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている、とか。

 矢ごろすこし遠かりければ、海へ一段ばかりうち入れたれども、猶扇のあはひ七段ばかりはあるらむとこそ見えたりけれ。ころは二月十八日の酉刻ばかりの事なるに、をりふし北風はげしくて、磯うつ浪もたかかりけり。舟はゆりあげゆりすゑただよへば、扇もくしに定まらずひらめいたり。おきには平家舟を一面にならべて見物す。陸には源氏くつばみをならべて是を見る。いづれもいづれも晴ならずといふ事ぞなき。
与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須の温泉(ゆぜん)大明神、願くはあの扇のまんなか射させてたばせ給へ。これを射そんずるものならば、弓きり折り自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹きよはり、扇も射よげにぞなったりける。
 与一鏑をとてつがひ、よっぴいてひやうとはなつ。小兵といふぢやう十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひふっとぞ射きったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ッたりける。夕日のかがやいたるに、みな紅の扇の日いだしたるが、白浪のうへにただよひ、うきぬしづみぬゆられければ、奥には平家ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。
                                                                       (『平家物語』より)

      (写真は、「Wikipedia」より。)

古いおうちと新しいおうちと。 

 (10:02)「金燈籠」交差点には大きな金属製の燈籠。「金燈籠ポケット公園」となっています。また、公園内には『奥の細道』の序文と那須野のくだりが刻まれた石碑と、『旧奥州道中 大田原宿』の石柱も立っています。

    

金燈籠
 町人文化ノ華ガ咲キ誇ッタ文化文政ノ頃 ココ大田原宿ハ江戸ノ文化ヲ奥州ヘ伝エル旅人ト ミチノクノ産物ヲ江戸ヘ送ル商人ノ行キ交ウ宿場トシテ栄エタ
 タマタマ文政2年(1819)10月ニ「町内安全」ノ祈リヲコメテ建立サレタノガ金燈籠デアリ モノ堅イ人達ニヨッテ欠カサズ点サレ 旅人ヤ町人ノ目安トナリ心ノ安ラギトナッタ常夜燈デモアッタ
 コノ燈籠ハ鹿沼ノ技工ガ鋳タ由デアリ 本体基部ニハ當時ノ町内有志及ビ世話人38氏ガ鋳名サレテイル貴重ナ文化財デアッタガ 太平洋戦争末期ニ供出シ ソノ姿ヲ消シタノハ残念ナコトデアッタ
 ソノ後 昭和30年7月 町内有志ニヨリ三斗小屋宿カラ金燈籠ヲ譲リウケ 百人講ノ盡力ニヨリ復元サレタコトハ 先人の意ヲ継グ自然ノ情トシテ高ク評価サレルトコロデアッタ
 然シナガラ時代ノ推移ニ伴ウ車ノ激増ニヨリ 金燈籠ハソノ安住ノ地ヲ失イ 十字路ノ片隅ニ放置状態ニアッタノヲ昭和53年8月ニ黒磯市ヘ返還ニナッタモノデアル
 折シモ金燈籠建設委員会ガ結成サレ 金燈籠再建ノ計画ヲ発表シタトコロ 上町内有志ヲ中心トスル各位ノ深イ理解ニヨッテ再建デキタノハ何ヨリモ幸イナコトデアル
 ココニ「上町 江戸 白川」ト刻マレタ台石ニ往時ヲ偲ビ 祖先ノ息吹キヲ感ジトリナガラ 建設用地提供者並ビニ別記協力者一同ニ感謝スルト共ニ 上町「金燈籠」ガ末永ク伝エラレルコトヲ望ムモノデアル
                                   昭和54年8月吉日 金燈籠建設委員会

 台座は往時のもので、文政2年(1819年)に造られたもので、西側に「江戸」、そして東側に「白川」と大きく彫られてあり、道標を兼ねたものでした。また、この交差点は塩原道との追分でもありました。


    

奥の細道 元禄2年
 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ。馬の口とらへて老いを迎ふる者は日日旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの頃よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず。

那須野 芭蕉
 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかかりて、直道を行かんとす。遥かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜を借りて、明くればまた野中を行く。そこに野飼ひの馬あり。草刈るをのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらず。「いかがすべきや。されどもこの野は縦横にわかれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしう侍れば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ」と、貸し侍りぬ。小さき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良

 やがて人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付けて馬を返しぬ。

                                  昭和53年5月 里ノ僧採文シテ野夫コレヲ建ツ


 左手にある江戸時代創業の「那須屋」はモダンな建物になっています。その先の交差点を左折します。さらに元旅籠屋の「上州屋」で現在「ホテルみつや」の角を右折します。城下町らしく七曲がりのようになっています。

    
   「大田原宿 寺町」道標。                       (10:10)行く先を望む。 

 その先も枡形になっています。大田原宿もそろそろ外れになります。
    

大田原
 大田原の町は、戦国時代に、那須家の家臣、大田原資清が大田原城を築城し、現在の市街地の基礎がつくられた、といいます。
 江戸時代の天保14年(1843年)には、宿内人口1,420人、戸数245軒で、本陣2、脇本陣1、旅籠42の賑やかな宿場でした。往時を偲ぶ史跡はほとんどなさそうです。

    
                              石蔵造りの倉庫。
  
                        昔の佇まいをのこした建物。
    

左手には「竜泉寺」。

さらに「大田原神社」。 「奥州道中大田原宿大久保木戸跡」碑。

 (10:18)突き当たりの道を左折して「蛇尾(さび)川」を渡ります。正面の高台が「大田原城城址」・龍城公園。

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