越中島支線(えっちゅうじましせん)
小岩駅と越中島貨物駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の鉄道路線(貨物支線)。
1929年(昭和4年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現越中島貨物駅)まで延伸された。
また、1989年までは東京都港湾局所有の専用線により豊洲や晴海までつながっていたが、鉄道による貨物需要が低下したため廃線になった。
1972年(昭和47年)まで沿線(江東区南砂)に汽車製造東京製作所が存在し、製造された車両は専用線を経由して小名木川駅より各社へ向けて輸送されていた。
小名木川駅は2000年に廃止され、跡地は再開発によりマンションとショッピングモール「アリオ北砂」となった。
現在は、全線単線で非電化。かつては複線だった区間もあり、その敷地は、そのまま残っていたり、駐車場や緑道になっている。
かつての小名木川駅発着列車では、D51形蒸気機関車やDD51形ディーゼル機関車が使用されたほか、後年にはコンテナ輸送も行われていた。現在は、越中島貨物駅にある東京レールセンターから発送される鉄道用レールの輸送(工事臨時列車)に使われるのみとなっている。
この工事臨時列車は、宇都宮運転所所属のDE10形ディーゼル機関車による牽引で、日曜日を除き2往復のダイヤが設定されている。
※時刻表
列車番号 新小岩 越中島貨 備考
9295 12:10 12:22 レール
9294 13:55 13:42
京葉道路高架線を通過するディーゼル機関車(午後2時40分頃。「歩道橋」から)。
「越中島貨物駅」方向へ向かう、思ったよりも長い貨物列車。(同)。
LRT構想
江東区では亀戸駅 - 新木場駅間にLRTを走らせる構想がある。亀戸駅前 - 南砂付近までを高架化または既存路線を活用し、以南は明治通り沿いの都有地に線路を敷設する案が出されている。
沿線住民の約8割が南北を結ぶLRTの実現を望むなど実現への期待が高いが、公的支援なき収支の均衡が見込めないほか、新木場駅付近での国道357号との平面交差などの問題が指摘されている。
また、関連する路線としてゆりかもめを豊洲駅から亀戸駅まで延伸する要望や提案が江東区議会で行われている。
歴史
1929年(昭和4年) 亀戸駅 - 小名木川駅間開業
1950年代前半(昭和20年代後半) 東京都港湾局が専用線を豊洲、晴海まで敷設
1958年(昭和33年)小名木川駅 - 越中島駅(現在の越中島貨物駅)間開業
1971年(昭和46年)起点を新小岩操駅に変更
1986年(昭和61年)新小岩操駅廃止のため、起点を小岩駅に変更
1987年(昭和62年)国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道に承継。
1989年(平成元年)東京都港湾局専用線全廃。
1990年(平成2年)京葉線越中島駅との区別のため、越中島駅を越中島貨物駅に改称
1997年(平成9年)小岩駅 - 越中島貨物駅間の定期貨物列車廃止
2000年(平成12年)小名木川駅廃止。
(以上、写真以外は、「Wikipedia」参照)
というわけで、亀戸駅から越中島貨物駅までたどります。梅雨明けの炎天下、さすがに暑かった!
左が総武線亀戸駅方向。しばらくは高架線が続きます。これは「京葉道路」を越える高架橋。
「小名木川」に架かる鉄橋。
機関車が通る線路だけ下を覆い、もう一つの線路は撤去したまま。
年季の入った石とコンクリート造りの橋脚。
ツインタワー。かつては、この二棟の高層マンションが飛行機の上からもよく見えて、目印になった。今では、スカイツリーが目印の独り占め。
「小名木川」。
小名木川
1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳))に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって経路が大幅に短縮された。そこから、「小名木川」を別名「塩の道」とも称した。
その後、塩以外の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって物量が増大した。1629年小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。利根川~江戸川~中川~小名木川~隅田川というルート。
明治時代に入ると、水運を利用した諸工業が盛んになり一帯は工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」(「小名木川」と「旧中川」を結ぶ)「小松川閘門」(「旧中川」と「荒川」を結ぶ)「船堀閘門」(「荒川」と「中川」を結ぶ)が設置されていた。
昭和50年代には地盤沈下などによりそれぞれ閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。
名称の由来は、この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名からとったもの。
鉄橋の脇の公園にあった「釜屋の渡し跡」の説明版。「小名木川」を南北で船で渡った。
釜屋とは鋳造業のことで、太田六右衛門と田中七右衛門の2人は、近江国栗本郡辻村の出身で、代々鋳物を業としていた。寛永七年(1640)に江戸へ出て、芝の海岸で鋳造業を始めたが、増上寺境内拡張のため大島村に移り、幕府の用品を初めとして市民の需要に応えて鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作った。原材料や製品の輸送に使った両家の前の堀は「釜屋堀」と呼ばれた。(「東京の地名の由来辞典」より)
小名木川貨物駅
総武本線貨物支線の貨物駅として1929年(昭和4年)に開業し、付近を流れる小名木川との水陸の物流連絡として機能した。最盛期には5面のコンテナホーム、6本のコンテナ荷役線、4面の有蓋車用貨物ホーム、6本の貨物荷役線を有していた東京都東部の鉄道貨物輸送の拠点であった。
しかし、貨物輸送形態の変化による取り扱い量減少によって2000年(平成12年)に廃止され、業務は隅田川駅に移管された。
総武本線越中島支線の貨車牽引は、古くは新小岩機関区のD51形などの蒸気機関車、末期は佐倉機関区(後の千葉機関区)DD51形などが担当した。また、当駅の貨車入れ換えや越中島貨物駅への貨車牽引は京葉臨海鉄道へ委託していた時期があり、同社の機関車の姿が見られた。
かつては、貨物輸送の他、都営地下鉄大江戸線の12-000形を木場車庫へ搬入する際に当駅まで甲種車両輸送された。また、かつて付近に存在していた汽車製造東京製作所へ続く専用線もあり、甲種車両輸送列車の始発駅となっていた時期もあった。現在の川崎重工業へ合併される1972年まで存在していて、都内では唯一の車両製造メーカー工場としても注目されていた。151系、181系、153系、157系、165系、101系、103系、113系、115系、455系の他0系新幹線、私鉄・地下鉄公共電車もここから輸送された。
現在は、再開発により構内の線路・施設がすべて撤去され、高層マンションやショッピングセンター「アリオ北砂」となっている。
昭和初期の頃のようす。上方の赤い線が「小名木川」。紫で囲った大きな円が「小名木川駅」。さらに城東電車の「いなりまへ」駅、汽車製造会社。「明治通り」もまだ全線開通していない。(「今昔マップ」より)
最盛期の小名木川貨物駅。すぐ右にある南北に通じる道路は「明治通り」。
現在の様子。かつての貨物駅の面影はどこにも見当たらない。
右が今も使われている貨物線(単線)。左が「アリオ北砂」。
小名木川貨物駅への引き込み線の跡にある「公園」内に設置された車輪の「モニュメント」。
公園の中にある。脇には説明板。
「小名木川駅の歴史」。
跡地にできた大規模なマンション棟。
さっきの航空写真と重ねると、上の部分が「アリオ北砂」、下の部分がマンション群。赤丸がモニュメントのある公園。
小岩駅と越中島貨物駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線の鉄道路線(貨物支線)。
1929年(昭和4年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現越中島貨物駅)まで延伸された。
また、1989年までは東京都港湾局所有の専用線により豊洲や晴海までつながっていたが、鉄道による貨物需要が低下したため廃線になった。
1972年(昭和47年)まで沿線(江東区南砂)に汽車製造東京製作所が存在し、製造された車両は専用線を経由して小名木川駅より各社へ向けて輸送されていた。
小名木川駅は2000年に廃止され、跡地は再開発によりマンションとショッピングモール「アリオ北砂」となった。
現在は、全線単線で非電化。かつては複線だった区間もあり、その敷地は、そのまま残っていたり、駐車場や緑道になっている。
かつての小名木川駅発着列車では、D51形蒸気機関車やDD51形ディーゼル機関車が使用されたほか、後年にはコンテナ輸送も行われていた。現在は、越中島貨物駅にある東京レールセンターから発送される鉄道用レールの輸送(工事臨時列車)に使われるのみとなっている。
この工事臨時列車は、宇都宮運転所所属のDE10形ディーゼル機関車による牽引で、日曜日を除き2往復のダイヤが設定されている。
※時刻表
列車番号 新小岩 越中島貨 備考
9295 12:10 12:22 レール
9294 13:55 13:42
京葉道路高架線を通過するディーゼル機関車(午後2時40分頃。「歩道橋」から)。
「越中島貨物駅」方向へ向かう、思ったよりも長い貨物列車。(同)。
LRT構想
江東区では亀戸駅 - 新木場駅間にLRTを走らせる構想がある。亀戸駅前 - 南砂付近までを高架化または既存路線を活用し、以南は明治通り沿いの都有地に線路を敷設する案が出されている。
沿線住民の約8割が南北を結ぶLRTの実現を望むなど実現への期待が高いが、公的支援なき収支の均衡が見込めないほか、新木場駅付近での国道357号との平面交差などの問題が指摘されている。
また、関連する路線としてゆりかもめを豊洲駅から亀戸駅まで延伸する要望や提案が江東区議会で行われている。
歴史
1929年(昭和4年) 亀戸駅 - 小名木川駅間開業
1950年代前半(昭和20年代後半) 東京都港湾局が専用線を豊洲、晴海まで敷設
1958年(昭和33年)小名木川駅 - 越中島駅(現在の越中島貨物駅)間開業
1971年(昭和46年)起点を新小岩操駅に変更
1986年(昭和61年)新小岩操駅廃止のため、起点を小岩駅に変更
1987年(昭和62年)国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道に承継。
1989年(平成元年)東京都港湾局専用線全廃。
1990年(平成2年)京葉線越中島駅との区別のため、越中島駅を越中島貨物駅に改称
1997年(平成9年)小岩駅 - 越中島貨物駅間の定期貨物列車廃止
2000年(平成12年)小名木川駅廃止。
(以上、写真以外は、「Wikipedia」参照)
というわけで、亀戸駅から越中島貨物駅までたどります。梅雨明けの炎天下、さすがに暑かった!
左が総武線亀戸駅方向。しばらくは高架線が続きます。これは「京葉道路」を越える高架橋。
「小名木川」に架かる鉄橋。
機関車が通る線路だけ下を覆い、もう一つの線路は撤去したまま。
年季の入った石とコンクリート造りの橋脚。
ツインタワー。かつては、この二棟の高層マンションが飛行機の上からもよく見えて、目印になった。今では、スカイツリーが目印の独り占め。
「小名木川」。
小名木川
1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳))に目を付けた。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく沖合を迂回するしかなかった。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりである。運河の開削によって経路が大幅に短縮された。そこから、「小名木川」を別名「塩の道」とも称した。
その後、塩以外の運搬や、成田参詣客なども運ぶようになって物量が増大した。1629年小名木川は江戸物流の重要河川と認識され、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれた。新川、江戸川、利根川を経由する航路が整備されると、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大航路となった。
開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。利根川~江戸川~中川~小名木川~隅田川というルート。
明治時代に入ると、水運を利用した諸工業が盛んになり一帯は工業地帯となった。1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門」(「小名木川」と「旧中川」を結ぶ)「小松川閘門」(「旧中川」と「荒川」を結ぶ)「船堀閘門」(「荒川」と「中川」を結ぶ)が設置されていた。
昭和50年代には地盤沈下などによりそれぞれ閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。
名称の由来は、この川を開削した「小名木四郎兵衛」の名からとったもの。
鉄橋の脇の公園にあった「釜屋の渡し跡」の説明版。「小名木川」を南北で船で渡った。
釜屋とは鋳造業のことで、太田六右衛門と田中七右衛門の2人は、近江国栗本郡辻村の出身で、代々鋳物を業としていた。寛永七年(1640)に江戸へ出て、芝の海岸で鋳造業を始めたが、増上寺境内拡張のため大島村に移り、幕府の用品を初めとして市民の需要に応えて鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作った。原材料や製品の輸送に使った両家の前の堀は「釜屋堀」と呼ばれた。(「東京の地名の由来辞典」より)
小名木川貨物駅
総武本線貨物支線の貨物駅として1929年(昭和4年)に開業し、付近を流れる小名木川との水陸の物流連絡として機能した。最盛期には5面のコンテナホーム、6本のコンテナ荷役線、4面の有蓋車用貨物ホーム、6本の貨物荷役線を有していた東京都東部の鉄道貨物輸送の拠点であった。
しかし、貨物輸送形態の変化による取り扱い量減少によって2000年(平成12年)に廃止され、業務は隅田川駅に移管された。
総武本線越中島支線の貨車牽引は、古くは新小岩機関区のD51形などの蒸気機関車、末期は佐倉機関区(後の千葉機関区)DD51形などが担当した。また、当駅の貨車入れ換えや越中島貨物駅への貨車牽引は京葉臨海鉄道へ委託していた時期があり、同社の機関車の姿が見られた。
かつては、貨物輸送の他、都営地下鉄大江戸線の12-000形を木場車庫へ搬入する際に当駅まで甲種車両輸送された。また、かつて付近に存在していた汽車製造東京製作所へ続く専用線もあり、甲種車両輸送列車の始発駅となっていた時期もあった。現在の川崎重工業へ合併される1972年まで存在していて、都内では唯一の車両製造メーカー工場としても注目されていた。151系、181系、153系、157系、165系、101系、103系、113系、115系、455系の他0系新幹線、私鉄・地下鉄公共電車もここから輸送された。
現在は、再開発により構内の線路・施設がすべて撤去され、高層マンションやショッピングセンター「アリオ北砂」となっている。
昭和初期の頃のようす。上方の赤い線が「小名木川」。紫で囲った大きな円が「小名木川駅」。さらに城東電車の「いなりまへ」駅、汽車製造会社。「明治通り」もまだ全線開通していない。(「今昔マップ」より)
最盛期の小名木川貨物駅。すぐ右にある南北に通じる道路は「明治通り」。
現在の様子。かつての貨物駅の面影はどこにも見当たらない。
右が今も使われている貨物線(単線)。左が「アリオ北砂」。
小名木川貨物駅への引き込み線の跡にある「公園」内に設置された車輪の「モニュメント」。
公園の中にある。脇には説明板。
「小名木川駅の歴史」。
跡地にできた大規模なマンション棟。
さっきの航空写真と重ねると、上の部分が「アリオ北砂」、下の部分がマンション群。赤丸がモニュメントのある公園。
小名木川は今では貨物駅があったことが想像つかない程に変化していますね。今の時代らしい商業施設とマンションが建ち、傍を通る越中島貨物線の方が異質に見えるほどになってしまいました。
元貨物駅の場所から見ると、本線の小名木川を渡ったまま高い位置を走っていて、上り方面からの列車が直接貨物駅に入れなかったのも頷けます。
ここに主要な貨物駅があり、荷捌き行われていたことを知っている人も、もう少ないのではないでしょうか。
そして、歴史ある車両メーカーである汽車会社の面影ももうどこにもありません。東京は常に変化する街ですが、ここまで何も残らずに変わってしまうのだと思うと、少し寂しくも感じます。
この地で製造され、全国へ送り出された新製車両も、もう残っていないことでしょう。
時代の変化を振り返りながら、越中島貨物線の沿線を散歩するのも、想像が広がり楽しいものです。
お写真、楽しませて頂きました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/