車も少なく、ほとんど人とも出会わない旧道。
「木戸川」を渡ります。
田園地帯が広がります。
「木戸川」下流・小松交差点付近は、河津桜が咲きそろう花見の名所になっています。
(2024/3/1 「山武市観光協会」HPより)
下流方向。
陽光の下、のんびりと。
住宅が続きます。
浅間神社庚申塔(山武市有形文化財)。
解説版。
この庚申塔は、今から260年以上前のもので18世紀はじめ、享保元年(1716)9月に建てられました。全体の高さは246㎝で、二段の基礎の上に立つ塔の正面には、悪い鬼どもを足下にふまえた6本の臂を持つ青面混合というご本尊が浮き彫りにされています。塔の上部の唐破風式の笠石の間口や、塔身の幅、基礎の石の幅とこの塔の規模の大きさのバランスのよさが見るものに力強い安定感を感じさせます。・・・庚申塔は、村の安全・豊作を祈る庚申講の人たちが記念として建てられたものです。
旧道はまだ先に続きますが、
右手の国道126号にコンビニや食堂があるので、ここから右折していったん国道に。
バス停「田越(たごえ)」。
山武(さんむ)市に人が住み始めたのは今から3万年ほど前のことです。
旧石器(きゅうせっき)・縄文(じょうもん)・弥生(やよい)・古墳(こふん)時代の遺跡(いせき)は、成東川・境川(さかいがわ)・木戸川(きどがわ)によって樹枝状に開析(かいせき)された台地上に分布が認められます。川崎(かわさき)・湯坂(ゆさか)は縄文時代中・後期、板附(いたつき)・早船(はやふね)・田越(たこえ)は弥生時代後期の遺跡が確認され、板附から完形の壺形土器が農作業中に発見され、弥生時代後期の集落の存在がうかがえます。
また、麻生新田(あそうしんでん)・諸木内(もろきうち)・板附(いたつき)・和田(わだ)・富田(とみだ・)真行寺(しんぎょうじ)・大堤(おおつつみ)などの古墳(こふん)は合わせて500基以上を数え、いくつもの古墳群を形成しています。特に3重周溝を有する大堤権現塚古墳(おおつつみごんげんつかこふん、6世紀末~7世紀前半)・板附古墳群(いたつきこふんぐん)には西の台・不動塚(6世紀後半)の前方後円墳、県下最大級の円墳(えんふん)山室姫塚(やまむろひめつか、7世紀前半~中頃)、郡下最大の方墳(ほうふん)駄ノ塚(だのつか)(7世紀前半)があります。
低地にも同様に縄文時代から古墳時代に至る遺跡が数多く確認されています。
奈良時代には、武射郡寺(むさぐんでら)である真行寺(しんぎょうじ)が建立(こんりゅう)されました。近接地の嶋戸東遺跡では武射郡衙跡(むさぐんがあと)が確認され、武射(むさ)11郷(ごう・さと)の中心であったことがうかがえます。(「山武市」HPより)
※武社国造や武射郡の読み方「むさ」を受け継いだ「さんむ」の方が古い歴史的な読み方であり、1975年あたりからいつの間にか「さんぶ」に変わってしまったので、重い歴史を持った「さんむ」の方が新しい市に相応しいためであるという。 なお、「山武郡」は現在も「さんぶぐん」が正式な読みである。
「仲よしドライブイン」。
看板が剥げかかり、古びた建物ですが、けっこうお客さんの車が入ってきます。
旧道に戻ります。
上空に航空機の音が頻繁に。
↓。成田空港を出発する航空機が多い。九十九里浜に抜けていくルート。
旧松尾城御殿表門。
立派な長屋門。民家の表門になっています。
藩主の居館として建築された御殿の表門。立派な二階建ての「長屋門」形式。1階部分は板張り、2階部分は白漆喰。両脇には潜り戸を設けている。
すぐその先に、「宝積寺」。
この先で、国道126号に合流します。
・・・
ところで、東京の開花宣言は今日もなし。近所の公団のソメイヨシノも全く咲いていません。
明日の夕方から明後日にかけて雨模様。いったい春は、いつ来るのでしょうか。
以下の写真は、2年前の3月25日のようす。満開の桜でした。
ソメイヨシノ。高速道路下にて。
エドヒガン。
ヨウコウ。
土手の桜並木を望む。
芝生の上で人々がくつろぐ。
ユリカモメ。テラスにて。
※今年、向島側の隅田公園は大改修中。一昨年のような桜見物は出来そうにもありません。ユリカモメの姿もあまり見かけません。
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