明治通りを渡って、うろうろしながら、低いところ、低いところはと探したが、どうも武蔵野台地・本郷台地から連なる丘陵地帯の上り下り、という感じになってしまった。都電の線路付近が低いことに気づき、方向転換。桜丘高校、線路を渡って小学校付近へ。「西ヶ原4丁目」付近の小道を行ったり、来たり、・・・。暑さに参った!
高校の脇の道。西側は上り坂。東側は、都電の線路まで下り道。そこで、線路を越えていく。ちなみに、都電は徐々に高度を上げていき、標高25㍍(西巣鴨付近)、そこから大塚駅(標高19㍍)までゆるやか下りが続く(地図上ではそうなっているが、実際に乗った印象はどうだか、確信がない。
滝野川第三小。この辺りがこの近辺では標高としては一番低いところ。
このあたりかな? このへんは、東は上野台地(飛鳥山の南)西は、本郷台地(武蔵野台地)とのはざまの地域。
しばらく進んでいくうちに、ひょんなところに出てきた。
「ファウスト」の一節
「ゲーテ記念館前ポケットパーク」。
「東京ゲーテ記念館」公式サイトより。
Goethe Archive Tokyo
【開催中】
書籍展「ゲーテの格言」
8月28日(水)~12月10日(火)
【情報提供の例】
ゲーテについてのQ&A 『ファウスト』邦訳目録 ファウスト伝説関連図 《ゲーテ人物ファイル》
【活動暦】
当館 は、ドイツの詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテについての資料や情報を提供する非営利の資料館です。利用者は専門家にかぎりません。基本原典のほか、初訳本、研究書、雑誌、新聞切抜きなど既整理総資料数15万点を収蔵しています。これらの文献は、すべて詳細な文献カードで整理されており、あらゆる角度から検索できるようになっています。なお、ギャラリーでは、「ゲーテ入門」の一助として資料の一部を展示・紹介しています。
【地域関係】
ゲーテの小径とゲーテパークの由来
【由来】
1949年、ゲーテの生誕200周年を記念して、実業家・粉川 忠(こがわただし 1907~89)が「ゲーテの精神的遺産を継承発展するため」の研究機関・資料館として北区王子に《財団法人 東京ゲーテ協会》を設立。1952年、渋谷区上通りに移転、本格的な活動を始める。1988年、現在地に移転。新館落成。名称を《財団法人 東京ゲーテ記念館》と改める。
【利用案内】
◆開館時間:火曜~土曜、11am~5:30pm (入館は5pmまでに) 閲覧無料
◆休館日:日・月曜、祭日(展示は4~6月、8~12月)
◆資料閲覧(基本的に無料):電話かメールで予約してください
◆ゲーテ文献に関する質問:メールでお願いします(展示期間外も対応)
東京ゲーテ記念館
114-0024 東京都北区西ヶ原2丁目30番1号
tel.: 03-3918-0828
mail: info@goethe.jp
「ゲーテ記念館」。小ぶりながら、どっしりとした印象をもつ、なかなか趣ある建物。
記念館の前の道はその先はゆるやかな下り坂。そのまま西に向かいました。
すると、交差点に。
ここにも「ゲーテの小径」の案内。
その角の交番。
「滝野川警察著谷戸駐在所」(赤い○の部分に注目)。大発見! この辺一帯が「「谷戸」と呼ばれた地域(らしい)。なんだかここまで導かれてきたようです。
谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷(や、やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などとも呼ばれ、主に日本の関東地方および東北地方の丘陵地で多く見られる。
多摩丘陵、三浦丘陵、狭山丘陵、房総丘陵などの関東の丘陵地が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸、谷津、谷地などと呼ばれている。
これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。
これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している。
なお、多摩・三浦丘陵における谷戸地形の成因は主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ雨水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいの平坦面が形成されたと考えられている。
大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間、利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、日当たりを確保するため、田に近接する斜面では「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林では薪などを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧、燃料、道具等の材料を調達するに適した土地であったと考えられている。
反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形である為に日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。 さらに明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。 また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。
しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きが出てくるとともに、近年は後述するような価値も認められるようになっている。
生物多様性の重要性が認識されるようになった近年、前述のような独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった。
たとえば、トウキョウサンショウウオやヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において今なお従来の生態系が残っている場合があることから、里山や雑木林などとともに価値が見直されはじめている。
関東地方近辺では地域毎に主に下記の呼称が使われている。
宮城県やち茨城県や、やつ
谷田部(やたべ、東谷田川、西谷田川が存在する)千葉県(下総台地・房総丘陵など)、鎌倉付近やつ栃木県や、やつ群馬県かいと、やつ埼玉県(狭山丘陵など)やと(がいと)、やつ神奈川県、東京都(多摩・三浦丘陵)やと(相模野台地では「やつ」とも、武蔵野台地では「や」とも)
市谷、大谷田(おおやだ)
地名例
やち: 大谷地、大谷地村(おおやち)、前谷地(まえやち)、谷地畑(やちはた)
やと: 上谷戸(かさやと)、入谷戸(いりやと)
-や: 瀬谷(せや)
谷津干潟(やつひがた)、谷津駅(やつえき)
-がやつ: 扇ヶ谷(おうぎがやつ)
-がや、がい: 市谷(いちがや)、熊谷(-ケ谷、-ヶ谷、熊井)、越谷(こしがや)、鎌ヶ谷(かまがや)、世田谷、祖師谷、保土谷
以上、「Wikipedia」を長々と引用しました(赤字は引用者)。自分なりに、この発見はとても気に入りました。「谷田」といういわれもここにあったと思われます。
「今昔マップ」より。戦前のようす。青い○のあたり。東側(駒込寄り)の地域には、「谷戸」という地名が表記されている(赤い○)。
明治14年頃のようす。右上の街道が「本郷通り」。中央が「谷戸」水田という表示。細い流れが田んぼと畑(高台)の間に流れているのが分かる。両側の高台に住まいがある。上の図の青丸辺り。
残念ながら、明治末・大正期からの急速な宅地化によって、かつての「谷戸」(里山のようなもの)が全く失われ、面影はありません(「三四郎」の頃にはまだまだ残っていたのでしょうが。)
どこを河川(「谷田川」「谷戸川」・・・)が流れていたのかも全く定かではありません。この交番とその先にあった町会の倉庫に「南谷戸」とあったのが目に付いただけでした。
はるか南の方に延びる「商店街」の道。「染井銀座商店街」、「霜降銀座商店街」に通じる。この道がかつての水路跡?
「西ヶ原みんなの広場(旧東京外語大キャンパス)」東側。このあたりが標高14㍍。公園の西側の住宅地は25㍍。一説では、水源はもっと西側の巣鴨の青果市場付近にあったという。染井霊園そのものは標高24㍍の高台なので、霊園の北側を抜けて東(谷戸方向)に流れていった。それにこの辺りの湧き水が合流して今度は南方向へ流れていった、ということが考えられます。
「北区」HPより。
北区と豊島区の区界。右が北区、左が豊島区。
「染井霊園」の北の隅。この辺りに水源があった?
江戸時代の西ヶ原のようす。(「霜降銀座栄会」HPより)
かつての「谷田川」とそこで営まれたその地域の人々の「面影」を彷彿とさせます。こうして現代を歩きながら往時を偲ぶのも、また一興。
高校の脇の道。西側は上り坂。東側は、都電の線路まで下り道。そこで、線路を越えていく。ちなみに、都電は徐々に高度を上げていき、標高25㍍(西巣鴨付近)、そこから大塚駅(標高19㍍)までゆるやか下りが続く(地図上ではそうなっているが、実際に乗った印象はどうだか、確信がない。
滝野川第三小。この辺りがこの近辺では標高としては一番低いところ。
このあたりかな? このへんは、東は上野台地(飛鳥山の南)西は、本郷台地(武蔵野台地)とのはざまの地域。
しばらく進んでいくうちに、ひょんなところに出てきた。
「ファウスト」の一節
「ゲーテ記念館前ポケットパーク」。
「東京ゲーテ記念館」公式サイトより。
Goethe Archive Tokyo
【開催中】
書籍展「ゲーテの格言」
8月28日(水)~12月10日(火)
【情報提供の例】
ゲーテについてのQ&A 『ファウスト』邦訳目録 ファウスト伝説関連図 《ゲーテ人物ファイル》
【活動暦】
当館 は、ドイツの詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテについての資料や情報を提供する非営利の資料館です。利用者は専門家にかぎりません。基本原典のほか、初訳本、研究書、雑誌、新聞切抜きなど既整理総資料数15万点を収蔵しています。これらの文献は、すべて詳細な文献カードで整理されており、あらゆる角度から検索できるようになっています。なお、ギャラリーでは、「ゲーテ入門」の一助として資料の一部を展示・紹介しています。
【地域関係】
ゲーテの小径とゲーテパークの由来
【由来】
1949年、ゲーテの生誕200周年を記念して、実業家・粉川 忠(こがわただし 1907~89)が「ゲーテの精神的遺産を継承発展するため」の研究機関・資料館として北区王子に《財団法人 東京ゲーテ協会》を設立。1952年、渋谷区上通りに移転、本格的な活動を始める。1988年、現在地に移転。新館落成。名称を《財団法人 東京ゲーテ記念館》と改める。
【利用案内】
◆開館時間:火曜~土曜、11am~5:30pm (入館は5pmまでに) 閲覧無料
◆休館日:日・月曜、祭日(展示は4~6月、8~12月)
◆資料閲覧(基本的に無料):電話かメールで予約してください
◆ゲーテ文献に関する質問:メールでお願いします(展示期間外も対応)
東京ゲーテ記念館
114-0024 東京都北区西ヶ原2丁目30番1号
tel.: 03-3918-0828
mail: info@goethe.jp
「ゲーテ記念館」。小ぶりながら、どっしりとした印象をもつ、なかなか趣ある建物。
記念館の前の道はその先はゆるやかな下り坂。そのまま西に向かいました。
すると、交差点に。
ここにも「ゲーテの小径」の案内。
その角の交番。
「滝野川警察著谷戸駐在所」(赤い○の部分に注目)。大発見! この辺一帯が「「谷戸」と呼ばれた地域(らしい)。なんだかここまで導かれてきたようです。
谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷(や、やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などとも呼ばれ、主に日本の関東地方および東北地方の丘陵地で多く見られる。
多摩丘陵、三浦丘陵、狭山丘陵、房総丘陵などの関東の丘陵地が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸、谷津、谷地などと呼ばれている。
これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。
これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している。
なお、多摩・三浦丘陵における谷戸地形の成因は主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ雨水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいの平坦面が形成されたと考えられている。
大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間、利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、日当たりを確保するため、田に近接する斜面では「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林では薪などを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧、燃料、道具等の材料を調達するに適した土地であったと考えられている。
反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形である為に日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。 さらに明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。 また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。
しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きが出てくるとともに、近年は後述するような価値も認められるようになっている。
生物多様性の重要性が認識されるようになった近年、前述のような独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった。
たとえば、トウキョウサンショウウオやヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において今なお従来の生態系が残っている場合があることから、里山や雑木林などとともに価値が見直されはじめている。
関東地方近辺では地域毎に主に下記の呼称が使われている。
宮城県やち茨城県や、やつ
谷田部(やたべ、東谷田川、西谷田川が存在する)千葉県(下総台地・房総丘陵など)、鎌倉付近やつ栃木県や、やつ群馬県かいと、やつ埼玉県(狭山丘陵など)やと(がいと)、やつ神奈川県、東京都(多摩・三浦丘陵)やと(相模野台地では「やつ」とも、武蔵野台地では「や」とも)
市谷、大谷田(おおやだ)
地名例
やち: 大谷地、大谷地村(おおやち)、前谷地(まえやち)、谷地畑(やちはた)
やと: 上谷戸(かさやと)、入谷戸(いりやと)
-や: 瀬谷(せや)
谷津干潟(やつひがた)、谷津駅(やつえき)
-がやつ: 扇ヶ谷(おうぎがやつ)
-がや、がい: 市谷(いちがや)、熊谷(-ケ谷、-ヶ谷、熊井)、越谷(こしがや)、鎌ヶ谷(かまがや)、世田谷、祖師谷、保土谷
以上、「Wikipedia」を長々と引用しました(赤字は引用者)。自分なりに、この発見はとても気に入りました。「谷田」といういわれもここにあったと思われます。
「今昔マップ」より。戦前のようす。青い○のあたり。東側(駒込寄り)の地域には、「谷戸」という地名が表記されている(赤い○)。
明治14年頃のようす。右上の街道が「本郷通り」。中央が「谷戸」水田という表示。細い流れが田んぼと畑(高台)の間に流れているのが分かる。両側の高台に住まいがある。上の図の青丸辺り。
残念ながら、明治末・大正期からの急速な宅地化によって、かつての「谷戸」(里山のようなもの)が全く失われ、面影はありません(「三四郎」の頃にはまだまだ残っていたのでしょうが。)
どこを河川(「谷田川」「谷戸川」・・・)が流れていたのかも全く定かではありません。この交番とその先にあった町会の倉庫に「南谷戸」とあったのが目に付いただけでした。
はるか南の方に延びる「商店街」の道。「染井銀座商店街」、「霜降銀座商店街」に通じる。この道がかつての水路跡?
「西ヶ原みんなの広場(旧東京外語大キャンパス)」東側。このあたりが標高14㍍。公園の西側の住宅地は25㍍。一説では、水源はもっと西側の巣鴨の青果市場付近にあったという。染井霊園そのものは標高24㍍の高台なので、霊園の北側を抜けて東(谷戸方向)に流れていった。それにこの辺りの湧き水が合流して今度は南方向へ流れていった、ということが考えられます。
「北区」HPより。
北区と豊島区の区界。右が北区、左が豊島区。
「染井霊園」の北の隅。この辺りに水源があった?
江戸時代の西ヶ原のようす。(「霜降銀座栄会」HPより)
かつての「谷田川」とそこで営まれたその地域の人々の「面影」を彷彿とさせます。こうして現代を歩きながら往時を偲ぶのも、また一興。
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