炎天下。王子駅で涼しい電車から降りたときには、もう汗が噴き出してきて。今回は、石神井川から下ってみようと。しかし、飛鳥山公園脇のカーブを上っていくと、石神井川(北区役所)方向へ進む横断歩道が見当たらない。急坂で幅広く、
さらに都電まで通っているのだから仕方がありません。
本郷通りと明治通りがT字型になっているところの歩道橋を渡っていくことに。石神井川に架かる橋の下は緑も濃く、ほっと一息。それからおもむろに駒込方向に。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治14年ころのようす。中央蛇行している川が「石神井川」。右が飛鳥山。当時も、もちろんすでに流れは王子方向に落ちるように流れていきます。さらに現在は隧道で飛鳥山の下をくぐるようになっています。飛鳥山に沿って北西に進む道は、「本郷通り(岩槻街道)」。中央部分に細い流れが見えますが、これが「谷田川」?
なお、「音無川」は石神井川から王子の滝(音無橋下流にあった滝で、今はない)付近で分岐し、飛鳥山の東を流れ、日暮里、三ノ輪、思川、さらに山谷堀(日本堤)となり、今戸で隅田川に流れていました。
「飛鳥山公園」の一角。
歩道橋からの「飛鳥山公園」。
「本郷通り」はゆるい上り坂で駒込方向に進みます。一方、「明治通り」の方もゆるい上りで池袋方向に進みます。王子の坂がかなり急なカーブの坂になって王子駅方向に下っていきます。そのせいか、石神井川の南地域で低いところは見当たりません。石神井川の急な谷のような流れが大雨の時にあふれてしまう、とは想像もできません。しかし、現実にはかつてはよく氾濫したようです。
※音無橋
3つのアーチ型の橋脚と欄干の優雅な曲線美が印象的な音無橋は、昭和5年の架橋以来、交通の要として、また、王子のランドマークとして多くの区民に親しまれています。
この橋から川の下流方向には、水車や東屋、行灯などを配する音無親水公園が見えます。江戸風情を感じさせるその景観は、訪れる人々の心を和ませます。
この公園は、平成元年「日本の都市公園100選」に、同2年「手づくり郷土賞」に選ばれました。
春には、桜の花見客で、また、夏には水遊びの子どもたちでたいへんなにぎわいを見せる場所です。
(「www.city.kita.tokyo.jp/misc/100select/01/01_03.htm」より)
なかなか重厚な趣のあるアーチ式の橋。その親柱。
この橋の下が「音無親水公園」。
※音無親水公園
音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。
しかしながら、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となり、洪水による被害を防ぐ目的で、昭和30年代から始まった改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。この改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園がでいました。
音無親水公園は、全国の都市公園の模範たる公園として“日本の都市公園100選”に選ばれています。都内では、国営昭和記念公園、日比谷公園、上野公園、水元公園、代々木公園が選ばれており、園内には記念碑があります。
(「北区」HPより)
橋の階段をけっこう降りていかないと公園(流れ)にたどりつけない。
隧道(トンネル)の上部。「石神井川飛鳥山隧道」とあります。
その上から眺めると、遙か下を激しい勢いで一気に隧道内に入っていきます。
ところがほんの少し上流に行くと、澄んではいますが、見た目にはほとんど流れていません。おそらく隧道をつくる前は川幅と増水量がアンバランスだった感じです。洪水を起こしやすい川の構造に。
王子方向を望む。川は遙か目の下です。
石神井川に飛鳥山の下を通る隧道が出来る前は、今の「音無親水公園」から王子方向へ流れていきました。洪水などを防ぐ目的で、江戸時代初期に流路の変更工事を行ったという説もありますが、もっとはるか昔、太古の頃から浸食作用(東京湾が上野台地まで浸食していた)によって、流路が変わったようです。
それ以前は飛鳥山の縁に沿って南下し、上野台地と本郷台地の間を流れていた。「谷田川」は、王子方向に流れていなかった頃の「旧石神井川」であった、という見方があります。(以前、紹介しました。)
それが今の石神井川が王子方向に流れていった時に断ち切れてしまい、ほとんど細い流れに。そこに染井霊園の北側付近にあった湧水が流れ込んで、南の方に流れていた、というふうに想像できます。
「takata.cafe.coocan.jp/hitkt/ccinfo/index92-2.html」さんのHPより。
6000年から7000年前の後氷期有楽町海進最盛期には、石神井川は谷田川に流れ王子の飛鳥山と王子権現の間は切れていなかった。 この部分は海進と海退の繰り返しで侵食し、後に石神井川は荒川に流れた。それによって谷田川への流れが途絶えた。
とありました。「谷田川」が石神井川から分かれたときに、いつしか当時の地勢、「谷」「田」を持つ川として命名されたのではないか。
東西二つの台地にはさまれた谷間の地で、畑地、水田などの農業を行い、人々の生活が成り立っていくためには、それなりの河川の存在がないと実現できません。石神井川からの流れが途絶えても、農業が明治初期まで(その後は宅地化されていく)営まれてきたことは重要な視点です。石神井川の南から染井までの間にも畑が目立つことは何らかの水路(人工のものも含めて)の存在があったはずです。
しかし、実際歩いてみて、石神井川から谷間への水路は確認できませんでした。ようやく「染井墓地」北、「東京外語大」跡、豊島区と北区の区界を越えて南に入った辺りから、「谷田川」らしい水路跡がたどれます。
さて、石神井川から離れて出発。これだけの峡谷ですから、上り道ばかり。「今昔マップ」による標高ではこの辺りが低いところとあれこれ狙いをつけてもまったく分からず。そのうち、レンガの舗道へ。
「音無のレンガ道」。
振り返ってみたところ。ゆるやかな上り道。
「赤煉瓦酒造工場」。
建物配置図。
趣のある煉瓦造り。
外にあった大型の甕。実際にお酒をつくっているそうです。
東京事務所酒造工場(赤レンガ酒造工場)の一般公開
平成16年10月に、東京都北区滝野川にある赤レンガ酒造工場の一般公開を行った。
また、赤レンガ酒造工場は、酒造工場として高い評価を得ているだけでなく、築後100年を経過した、 歴史的・文化財的建築物である。このことを国民に広く認知してもらうために、夜間のライトアップ設備を設置した。
より。
研究所の研究成果やお酒についての技術的な情報等を分かりやすく解説した広報誌「エヌリブ」を年間2回発行しているようです。
創刊号から23号まで
酵母、麹菌、原料、醸造法、酒類総合研究所きのうきょうあす、清酒の研究、お酒の安全性とおいしさ、などを特集しています。(PDFファイルで閲覧できます。)
毎年、桜の季節にも一般公開しているそうで、そのときには利き酒の会もあるとか。研究を中心とした「独立行政法人」。広島に本部が置かれているらしい。歴史的にはなかなかのもの。知りませんでした。公開日にぜひ来てみたい。
しかし、100年も前からこの場所にあった、ということはこのあたりには谷田川の流れはなかった、ということでもあるのか? お酒の製造にはたくさんの水が必要でもある。地下水を利用していたということに?
本郷通り沿いにある「国立印刷局滝野川工場」(当初は、飛鳥山の東側、旧「王子製紙」工場のそばにあった。)製紙工場を含めて大量の水を必要としたのではないか。このへんの事情は不勉強のためさだかではありません。いずれにしても、水と大いに関わりのある製紙工場、酒造工場、さらに農事試験場などが明治時代からこの近辺にあったということは、「石神井川」の存在はもちろん、それだけでなく中小河川(荒川・隅田川を含む)の存在が大きかったと思われます。
※「国立印刷局滝野川工場」
明治4(1871)年7月27日、大蔵省紙幣司として創設されました(同年8月に紙幣寮と改称)。創設当初の業務は紙幣の発行、交換、国立銀行(民間銀行)の認可・育成等紙幣政策全般でした。
当時、国内では印刷技術が未熟であったことから、明治政府は、近代的な紙幣の製造をドイツやアメリカに依頼しました。しかし、紙幣は国内で製造すべきであるとの声が強まったため、紙幣寮において紙幣国産化の取組が行われることとなり、併せて証券類、郵便切手(明治5(1872)年1月に製造開始)の製造、活版印刷等の印刷・製紙業務を行うこととなりました。
紙幣寮は、研究を重ね、明治10(1877)年10月15日に国産第1号紙幣(国立銀行紙幣(新券)1円)の製造を開始し、名実共に我が国近代印刷・製紙のパイオニアとしての第一歩を踏み出しました。
そして、明治31(1898)年11月1日に、官報(明治16(1883)年7月2日創刊)を発行していた内閣官報局と統合し、官報も含めた事業官庁となりました。
その後、幾多の変遷を経て、平成15(2003年)年4月独立行政法人国立印刷局となり、現在に至っています。
(印刷局のHPより。)
明治通り。左奥が飛鳥山。道はその方向へ少し下ってまた飛鳥山の方に上っていきます。池袋側は上り坂。
中央の円筒形あたりが一番低いところ。
これまでの他の河川跡探索の経験では、その辺りに河川が流れていたという感じですが・・・。現在の石神井川からは上って来る位置なので何とも言えない。但し、石神井川から明治通りにぶつかる道は不自然なほど(道路としては)曲がりくねった流水路のような道がこの辺りまで続いています。
「今昔マップ」に表示された標高は、石神井川・音無橋付近:16㍍、赤煉瓦酒造工場の東(曲がりくねった道)a地点:18㍍、明治通りの上記の地点b地点:18㍍、飛鳥山下の本郷通りd地点:19㍍、明治通りの西(池袋方向)c地点:19㍍。
明治通りにある横断歩道を渡っていき、都電の線路を挟んだ東側「滝野川第三小」の南地点e地点:17㍍。ということになっています。また、さらに下って旧東京外語大(現在、「西ヶ原みんなの広場」)の東f地点:14㍍。ちなみに、王子駅の南東の標高は、4㍍。石神井川が一気に王子方向に流れ落ちていくことが分かります。
「今昔マップ」1980年代。飛鳥山の標高は20㍍。意外に高く感じるのは、山の東側(崖下・JR線)が標高3~4㍍なので、高く見えるのだ。
さらに都電まで通っているのだから仕方がありません。
本郷通りと明治通りがT字型になっているところの歩道橋を渡っていくことに。石神井川に架かる橋の下は緑も濃く、ほっと一息。それからおもむろに駒込方向に。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より。明治14年ころのようす。中央蛇行している川が「石神井川」。右が飛鳥山。当時も、もちろんすでに流れは王子方向に落ちるように流れていきます。さらに現在は隧道で飛鳥山の下をくぐるようになっています。飛鳥山に沿って北西に進む道は、「本郷通り(岩槻街道)」。中央部分に細い流れが見えますが、これが「谷田川」?
なお、「音無川」は石神井川から王子の滝(音無橋下流にあった滝で、今はない)付近で分岐し、飛鳥山の東を流れ、日暮里、三ノ輪、思川、さらに山谷堀(日本堤)となり、今戸で隅田川に流れていました。
「飛鳥山公園」の一角。
歩道橋からの「飛鳥山公園」。
「本郷通り」はゆるい上り坂で駒込方向に進みます。一方、「明治通り」の方もゆるい上りで池袋方向に進みます。王子の坂がかなり急なカーブの坂になって王子駅方向に下っていきます。そのせいか、石神井川の南地域で低いところは見当たりません。石神井川の急な谷のような流れが大雨の時にあふれてしまう、とは想像もできません。しかし、現実にはかつてはよく氾濫したようです。
※音無橋
3つのアーチ型の橋脚と欄干の優雅な曲線美が印象的な音無橋は、昭和5年の架橋以来、交通の要として、また、王子のランドマークとして多くの区民に親しまれています。
この橋から川の下流方向には、水車や東屋、行灯などを配する音無親水公園が見えます。江戸風情を感じさせるその景観は、訪れる人々の心を和ませます。
この公園は、平成元年「日本の都市公園100選」に、同2年「手づくり郷土賞」に選ばれました。
春には、桜の花見客で、また、夏には水遊びの子どもたちでたいへんなにぎわいを見せる場所です。
(「www.city.kita.tokyo.jp/misc/100select/01/01_03.htm」より)
なかなか重厚な趣のあるアーチ式の橋。その親柱。
この橋の下が「音無親水公園」。
※音無親水公園
音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所、景勝の地でした。
しかしながら、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となり、洪水による被害を防ぐ目的で、昭和30年代から始まった改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。この改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園がでいました。
音無親水公園は、全国の都市公園の模範たる公園として“日本の都市公園100選”に選ばれています。都内では、国営昭和記念公園、日比谷公園、上野公園、水元公園、代々木公園が選ばれており、園内には記念碑があります。
(「北区」HPより)
橋の階段をけっこう降りていかないと公園(流れ)にたどりつけない。
隧道(トンネル)の上部。「石神井川飛鳥山隧道」とあります。
その上から眺めると、遙か下を激しい勢いで一気に隧道内に入っていきます。
ところがほんの少し上流に行くと、澄んではいますが、見た目にはほとんど流れていません。おそらく隧道をつくる前は川幅と増水量がアンバランスだった感じです。洪水を起こしやすい川の構造に。
王子方向を望む。川は遙か目の下です。
石神井川に飛鳥山の下を通る隧道が出来る前は、今の「音無親水公園」から王子方向へ流れていきました。洪水などを防ぐ目的で、江戸時代初期に流路の変更工事を行ったという説もありますが、もっとはるか昔、太古の頃から浸食作用(東京湾が上野台地まで浸食していた)によって、流路が変わったようです。
それ以前は飛鳥山の縁に沿って南下し、上野台地と本郷台地の間を流れていた。「谷田川」は、王子方向に流れていなかった頃の「旧石神井川」であった、という見方があります。(以前、紹介しました。)
それが今の石神井川が王子方向に流れていった時に断ち切れてしまい、ほとんど細い流れに。そこに染井霊園の北側付近にあった湧水が流れ込んで、南の方に流れていた、というふうに想像できます。
「takata.cafe.coocan.jp/hitkt/ccinfo/index92-2.html」さんのHPより。
6000年から7000年前の後氷期有楽町海進最盛期には、石神井川は谷田川に流れ王子の飛鳥山と王子権現の間は切れていなかった。 この部分は海進と海退の繰り返しで侵食し、後に石神井川は荒川に流れた。それによって谷田川への流れが途絶えた。
とありました。「谷田川」が石神井川から分かれたときに、いつしか当時の地勢、「谷」「田」を持つ川として命名されたのではないか。
東西二つの台地にはさまれた谷間の地で、畑地、水田などの農業を行い、人々の生活が成り立っていくためには、それなりの河川の存在がないと実現できません。石神井川からの流れが途絶えても、農業が明治初期まで(その後は宅地化されていく)営まれてきたことは重要な視点です。石神井川の南から染井までの間にも畑が目立つことは何らかの水路(人工のものも含めて)の存在があったはずです。
しかし、実際歩いてみて、石神井川から谷間への水路は確認できませんでした。ようやく「染井墓地」北、「東京外語大」跡、豊島区と北区の区界を越えて南に入った辺りから、「谷田川」らしい水路跡がたどれます。
さて、石神井川から離れて出発。これだけの峡谷ですから、上り道ばかり。「今昔マップ」による標高ではこの辺りが低いところとあれこれ狙いをつけてもまったく分からず。そのうち、レンガの舗道へ。
「音無のレンガ道」。
振り返ってみたところ。ゆるやかな上り道。
「赤煉瓦酒造工場」。
建物配置図。
趣のある煉瓦造り。
外にあった大型の甕。実際にお酒をつくっているそうです。
東京事務所酒造工場(赤レンガ酒造工場)の一般公開
平成16年10月に、東京都北区滝野川にある赤レンガ酒造工場の一般公開を行った。
また、赤レンガ酒造工場は、酒造工場として高い評価を得ているだけでなく、築後100年を経過した、 歴史的・文化財的建築物である。このことを国民に広く認知してもらうために、夜間のライトアップ設備を設置した。
より。
研究所の研究成果やお酒についての技術的な情報等を分かりやすく解説した広報誌「エヌリブ」を年間2回発行しているようです。
創刊号から23号まで
酵母、麹菌、原料、醸造法、酒類総合研究所きのうきょうあす、清酒の研究、お酒の安全性とおいしさ、などを特集しています。(PDFファイルで閲覧できます。)
毎年、桜の季節にも一般公開しているそうで、そのときには利き酒の会もあるとか。研究を中心とした「独立行政法人」。広島に本部が置かれているらしい。歴史的にはなかなかのもの。知りませんでした。公開日にぜひ来てみたい。
しかし、100年も前からこの場所にあった、ということはこのあたりには谷田川の流れはなかった、ということでもあるのか? お酒の製造にはたくさんの水が必要でもある。地下水を利用していたということに?
本郷通り沿いにある「国立印刷局滝野川工場」(当初は、飛鳥山の東側、旧「王子製紙」工場のそばにあった。)製紙工場を含めて大量の水を必要としたのではないか。このへんの事情は不勉強のためさだかではありません。いずれにしても、水と大いに関わりのある製紙工場、酒造工場、さらに農事試験場などが明治時代からこの近辺にあったということは、「石神井川」の存在はもちろん、それだけでなく中小河川(荒川・隅田川を含む)の存在が大きかったと思われます。
※「国立印刷局滝野川工場」
明治4(1871)年7月27日、大蔵省紙幣司として創設されました(同年8月に紙幣寮と改称)。創設当初の業務は紙幣の発行、交換、国立銀行(民間銀行)の認可・育成等紙幣政策全般でした。
当時、国内では印刷技術が未熟であったことから、明治政府は、近代的な紙幣の製造をドイツやアメリカに依頼しました。しかし、紙幣は国内で製造すべきであるとの声が強まったため、紙幣寮において紙幣国産化の取組が行われることとなり、併せて証券類、郵便切手(明治5(1872)年1月に製造開始)の製造、活版印刷等の印刷・製紙業務を行うこととなりました。
紙幣寮は、研究を重ね、明治10(1877)年10月15日に国産第1号紙幣(国立銀行紙幣(新券)1円)の製造を開始し、名実共に我が国近代印刷・製紙のパイオニアとしての第一歩を踏み出しました。
そして、明治31(1898)年11月1日に、官報(明治16(1883)年7月2日創刊)を発行していた内閣官報局と統合し、官報も含めた事業官庁となりました。
その後、幾多の変遷を経て、平成15(2003年)年4月独立行政法人国立印刷局となり、現在に至っています。
(印刷局のHPより。)
明治通り。左奥が飛鳥山。道はその方向へ少し下ってまた飛鳥山の方に上っていきます。池袋側は上り坂。
中央の円筒形あたりが一番低いところ。
これまでの他の河川跡探索の経験では、その辺りに河川が流れていたという感じですが・・・。現在の石神井川からは上って来る位置なので何とも言えない。但し、石神井川から明治通りにぶつかる道は不自然なほど(道路としては)曲がりくねった流水路のような道がこの辺りまで続いています。
「今昔マップ」に表示された標高は、石神井川・音無橋付近:16㍍、赤煉瓦酒造工場の東(曲がりくねった道)a地点:18㍍、明治通りの上記の地点b地点:18㍍、飛鳥山下の本郷通りd地点:19㍍、明治通りの西(池袋方向)c地点:19㍍。
明治通りにある横断歩道を渡っていき、都電の線路を挟んだ東側「滝野川第三小」の南地点e地点:17㍍。ということになっています。また、さらに下って旧東京外語大(現在、「西ヶ原みんなの広場」)の東f地点:14㍍。ちなみに、王子駅の南東の標高は、4㍍。石神井川が一気に王子方向に流れ落ちていくことが分かります。
「今昔マップ」1980年代。飛鳥山の標高は20㍍。意外に高く感じるのは、山の東側(崖下・JR線)が標高3~4㍍なので、高く見えるのだ。
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