おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「B面昭和史1926~1945」半藤一利(平凡社)。「歌は世につれ、世は歌につれ」。その3。そして、李香蘭

2021-08-25 18:42:53 | 読書無限

              「寫眞週報 昭和14年9/6号」表紙。

昭和14年(1939年)。この年の8月、ヨーロッパではドイツがポーランドに電撃作戦を開始。英仏がただちにドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が勃発しました。

何日君再来(ホーリー ジュン ザイライ作詞 黄 嘉謨 / 作曲 劉 雪庵

 もともと中国の歌でしたが、1939年、渡辺はま子が「いつの日君来るや」、そして1940年、李香蘭(山口淑子)が「いつの日君また帰る 」のタイトルで歌って、日本で大ヒットしました。

好花不常開 好景不常在 愁堆解笑眉 涙洒相思帯

今宵離別後  何日君再来 喝完了這杯 請進点小菜

人生難得幾回酔 不歓更何待 「来来来、喝完了這杯再説」

今宵離別後 何日君再来

 

一杯のコーヒーから(作詞は作詞は藤浦洸で、作曲は服部良一。歌は霧島昇ミス・コロムビア

ちなみに、この当時のコーヒー一杯の価格は15銭であった、とか。

♪(女)一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに 

    二人の胸の灯が ちらりほらりとつきました

 (男)一杯のコーヒーから モカの姫君ジャバ娘 歌は南のセレナーデ 

    あなたと二人朗らかに 肩を並べて歌いましょ 

明けて昭和15年神武天皇が即位して、皇紀2600年の年。

小生が通った小学校。階段の踊り場の鏡に「皇紀二千六百年記念」の文字が刻まれていたのを鮮明に覚えています。

この時の奉祝國民歌「紀元二千六百年」
内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定
 増田好生 作詞/森義八郎 作曲

 金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
 いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
 あゝ 一億の胸はなる
 歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
 はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年・・・

出だしの部分は、今でも歌えますね。

3月には、芸名のなかで、ふまじめ、不敬、外国人と間違えやすいものの改名を指示してきました。

・リーガル千太・万吉→柳家千太・万吉、 ディック・ミネ→三根耕一、 藤原釜足→藤原鷄太、 中村メイ→中村メイコ

隣組(昭和15年6月)作詞:岡本一平、作曲:飯田信夫

♪とんとんとんからりんと隣組 格子を開ければ顔なじみ 回して頂戴回覧板 知らせられたり知らせたり 

 とんとんとんからりんと隣組 地震や雷火事泥棒 互いに役立つ用心棒 助けられたり助けたり

隣組制度(「回覧板」)は相変わらず健在のようで、今でも回覧板や年末の募金など回ってきます。

当時は、「隣組」を「国民の道徳的錬成と精神的団結を図る基礎組織」と位置づけていました。そうならないように。

半藤さんたち悪ガキに、近所の在郷軍人のおっさんが教えた「兵営ラッパ」を紹介。これは知っています。

〈起床ラッパ〉 起きろよ、起きろ、みな起きろ、起きないと 隊長さんに叱られる

〈消灯ラッパ〉 新兵さんは、可哀想だね、また寝て泣くのかよ

〈突撃ラッパ〉 進めや進め、みな進め、進めや進め、みな進め

ここで、「何日君再来」の歌を歌った「李香蘭(山口淑子)さん」の紹介を。

1920年(大正9年)2月12日に、中華民国奉天省(現:中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、奉天北煙台で生まれた。南満州鉄道(満鉄)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ「淑子」と名付けられる。本籍は佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)。親中国的であった父親の方針で、幼い頃から中国語に親しんだ。小学生の頃に家族で奉天へ移住し、その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春中国語版将軍(後に漢奸罪で処刑される)の、義理の娘分(乾女児)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。・・・

「中国人スター・李香蘭」として

1940年(昭和16年)、歌舞伎座にて

日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映画協会(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた。・・・

1939年の兵庫県西宮市でのコンサート
 
1940年、日満合作映画「支那の夜」に主演
 
資生堂石鹸のポスター(1941年)

日中戦争中には満映の専属女優として日本映画に多く出演し、人気を得た。人気俳優の長谷川一夫とも『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』で共演した。1941年(昭和16年)2月11日紀元節には、日本劇場(日劇)での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となった。大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を7周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させるほどの騒動であったと伝えられている(日劇七周り半事件)

日劇七周り半事件の様子

1943年(昭和18年)6月には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた長編時代劇映画『萬世流芳英語版』(151分)に、林則徐の弟子・潘達年の恋人(後に妻)役で主演した。中国全土で映画が封切られるや、劇中、彼女が歌った主題歌「賣糖歌」と挿入歌「戒煙歌」は大ヒットした上、映画『萬世流芳』自体も、中国映画史上初の大ヒットとなったのである。また内容は、阿片戦争の相手国であったイギリスを当時の日本に見立てて、中国民衆の抗日意識を鼓舞するものだった。

『萬世流芳』の大ヒットにより中国民衆から人気を得た李香蘭は、上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開いた。 当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていたが、父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。それだけはやめてくれ」と諭され、告白を取りやめた。・・・

それまで、李香蘭は満州国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』とその主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」などのヒット曲により、中華民国でも人気スターとなった。歌においては、1945年(昭和20年)にカップリングで吹き込み発売された「第二夢」と「忘憂草」とが、中国での最後の収録曲となった。なお「第二夢」は2012年、中国で蒼井そらによりリヴァイヴァルされ、現代の中国人にも創唱者は李香蘭であるということが知れわたった。その「第二夢」は、台湾のトップ・シンガー費玉清が、「夜來香」「何日君再來」「只有你」等と共に、台湾は元より東南アジアや中国大陸各都市でのコンサートでも歌い継いでいる。
 
帰国

李香蘭は中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民国政府から漢奸(売国奴・祖国反逆者)の廉で軍事裁判にかけられた。そして、李香蘭は来週上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろう、などという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かとも思われた。しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明された。結果、漢奸罪は適用されず、国外追放となった。無罪の判決を下す際、裁判官は「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の名前で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」と付言を加え、李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と頭を下げて謝罪した。

李香蘭は船が港を離れてからデッキで遠ざかる上海の摩天楼を眺めていると、船内のラジオから聞こえてきたのは、奇しくも自分の歌う「夜来香」だった。・・・

帰国後は、山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をした。・・・また、1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間、参議院議員を3期務めた2014年9月7日心不全のため、東京都千代田区一番町の自宅で死去した。94歳だった。

(この項、「wikipedia」参照。写真も。)

戦乱期の日中を巡る数奇な人生を歩んだ方でした。


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