明けて昭和16年(1941年)。筆者の半藤さんが小学校4年生になったとたん、小学校が「国民学校」と改称されます。
前年に「日独伊三国同盟」を結んだ日本は、いよいよ英米を敵に回すことに。そして、運命の12月8日を迎えます。
前年11月にレコードになった海軍軍歌「月月火水木金金」が年明けと共に巷で歌われ始めます。
♪朝だ夜明けだ潮の息吹き うんと吸い込むあかがね色の 胸に若さの漲る誇り 海の男の艦隊勤務 月月火水木金金
「ドリフ大爆笑」(フジテレビ)のOPテーマは開始した1977年に、この曲の替え歌を使用していました。ザ・ドリフターズはけっこう軍歌(替え歌を含め)を歌っていました。
「国民学校」の音楽の授業も「ドレミファソラシド」を「ハニホヘトイロハ」に。
そして12月8日。真珠湾奇襲の勝利、マレー半島上陸作戦の成功の第1報で、日本中が気持ちをスカッとさせました。
その4日前、ドイツ軍は、ソ連軍の猛反撃と-50℃という極寒のために後退せざるをえなくなっていました。そうしたドイツ軍敗退の報を知らさせていない国民の大半は、日本軍の初戦の電撃的大勝利にすっかり意気軒昂になってしまいました。
昭和17年(1942年)。
開戦より3ヶ月で、マニラ占領、シンガポール占領、ラングーン(現ヤンゴン)占領、ジャワの蘭印軍降伏と連戦連勝。ところが、6月のミッドウェイ海戦の敗北、8月、熾烈を極めたガダルカナル島攻防戦・・・次第に戦局は厳しくなっていきます。わずか半年で日本の戦いは悪化。そうした状況は、国民に明らかにされるはずもありません。
「本土初空襲」が4月18日。
そして、「加藤隼戦闘隊」隊長加藤建夫陸軍中佐(戦死後、陸軍少将)の戦死。
5月22日、第64戦隊の駐屯するアキャブ飛行場にブレニム1機(第60飛行隊ハガード准尉機)が来襲し爆撃。一式戦5機が迎撃に出撃するも、後上方銃座(射手マクラッキー軍曹)の巧みな射撃により2機が被弾し途中帰還、さらに1機が最初の近接降下攻撃からの引起し時に機体腹部(燃料タンク部)に集中射を浴び発火。この機体こそが戦隊長加藤建夫中佐機であり、帰還不可能と察した加藤機は左に反転しベンガル湾の海面に突入し自爆した。戦死した加藤中佐は「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」と評される南方軍総司令官寺内寿一元帥大将名の個人感状を拝受、さらに帝国陸軍初となる二階級特進し陸軍少将、また功二級金鵄勲章を受勲し「軍神」となった。(「wikipedia」より)
「加藤隼戦闘隊」
♪エンジンの音 轟々と 隼は征く空の果て 翼に輝く日の丸と 胸に描けし赤鷲の 印はわれらが戦闘機
昭和18年(1943年)
4月、山本五十六長官の戦死。5月、アッツ島守備隊の玉砕。9月、イタリア軍が米英連合軍に無条件降伏。12月、学徒動員。
内務省情報局は、米英そのほか敵性国家に関係ある楽曲一千曲を選び、演奏、紹介、レコード販売を禁止します。「私の青空(マイ・ブルー・ヘブン)」「コロラドの月」「上海リル」・・・。
「燦めく星座」にまでクレームがついてしまいます。「星は帝国陸軍の象徴である。その星を軽々しく歌うことはまかりならん」と。
「燦めく星座」(昭和16年3月)灰田勝彦の甘い歌声が一世を風靡した。
♪男純情の愛の星の色 冴えて夜空にただ一つあふれる思い 春を呼んでは夢見てはうれしく輝くよ 思い込んだら命がけ男の心 燃える希望だ憧れだ 燦めく金の星
当時、灰田の甘く軽やかな歌声への人気が衰えず、当局はそうした傾向に対して軽佻浮薄だと断じ、さらに「星」が陸軍の象徴だということで、当局に睨まれたことの周辺を描いた戯曲。
さらに米英語の雑誌名が禁止、改名せよ、と。「サンデー毎日」が「週間毎日」、「キング」が「富士」、「オール讀物」が「文藝讀物」・・・。喫茶店などの店名も。「ロスアンゼルス」が「南太平洋」、「ヤンキー」が「南風」と。
野球でも「ストライク」=「よし」、「三振」=「それまで」、「アウト」=「ひけ」、「ファウル」=「だめ」。
陸軍報道部によって決定された「決戦標語」が「撃ちてし止まむ」。
若鷲の歌(予科練の歌)(昭和18年9月)
♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く
12月、文部省が学童疎開促進を発表。弟妹は疎開しますが、筆者は、当時、中学生だったので、東京に残り、昭和20年3月10日未明の「東京大空襲」で九死に一生を得ることになります。
昭和19年(1944年)
太平洋諸島での玉砕につぐ玉砕、インパール作戦での敗走、米大機動部隊によるマリアナ諸島への猛撃、これによって、米軍に制海空権を奪われます。そして、特別攻撃隊が正式の作戦となります。
中学生の筆者も、学徒動員で軍需工場に通うようになります。
学徒勤労動員の歌「あゝ紅の血は燃ゆる」(昭和19年9月)
♪花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ あゝ紅の血は燃ゆる あゝ紅の血は燃ゆる
そして、昭和20年(1945年)
本土の盾にされ、軍の盾にされた「沖縄戦」も軍・民、約20万人もの死者・行方不明者を出す悲惨な戦闘の結果、6月には壊滅。8月、広島・長崎に原爆投下、ここでも20万人以上の犠牲者。満州居留民・開拓民達の必死の逃亡。そして、8月15日、玉音放送。
同期の桜
♪貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭で咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため
原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938年)1月号の「少女倶楽部」に発表された西條の歌詞が元になっている。
時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず、特に末期の特攻隊員に大いに流行した。日本軍を代表する軍歌ともいえ、戦争映画等ではよく歌われる。また、この歌詞にも、当時の軍歌ではよく現れた「靖国神社で再会する」という意の歌詞が入っている。
その一方で、戦争映画でみられる兵士が静かに歌うシーンは実際にはなかったという説もある。兵学校71期生の卒業間際に、指導教官が「死に物狂いで戦っている部隊で歌われている歌」として紹介して以来、教官の間で広まっていき、大戦末期に海軍兵学校から海軍潜水学校で一気に広まったとされており、兵学校に在学していても、戦後まで全く知らなかった人物も多い。1945年(昭和20年)6月29日と同年8月4日のラジオ番組で、内田栄一によって歌われているのが、この曲に関する最も古い記録といえる。
(この項、「Wikipedia」参照)
こうして、半藤さんの労作の中から当時歌われた歌を取り上げてみました。
けっこう知っている(歌える)歌が多いのにも我ながら驚きました。リバイバルソングとして歌われているからなのでしょうか?
替え歌を含め、戦争当時の国民の実相を映し出す鏡でもあった数々の歌。
しかし、たんなる郷愁、懐かしむことで終わらせることなく、再び悲惨な戦争が起こらないよう、心して現在の政治などを監視していくことが大事だと思いました。
それがまた、亡き半藤さんが我々に伝えたい、強く固い思いではなかったでしょうか。
東京大空襲(3月10日)。
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