現在、都立両国高校は附属中学を併設した「中高一貫校」になっています。この高校は、かつての府立三中。芥川龍之介や久保田万太郎、堀辰雄などの文学者を輩出しています。半村良、領家高子、小池昌代、石田衣良なども卒業生です。文学関係だけでなく、政界、財界、教育界などまさに多士済々。世間を賑わせた「手鏡」の植草一秀も・・・。
開校当時の校舎は、いくたびかの増築を経た後、1924(大正13)年の関東大震災ですべて焼失しました。1927(昭和2)年、鉄筋コンクリート3階建ての校舎が新築されました。多くの卒業生が学んだ校舎が、増改築はあったものの、この「昭和校舎」でした。
1945(昭和20)年の東京大空襲で大きな被害を受けたましたが、校舎の外郭はしっかりと残っていて、以後、復興工事が続きます。ロの字型の校舎で、戦災で周りはすっかり焼け野原の中にあってポツンと残っているのが、写真でも分かります。
その後、老朽化や耐震構造の面から、全面改築の運びとなるも、当初の建築計画が校地内に埋められた六価クロム除去問題でご破算になり、現在あるような校舎の建設となりました。
すべての工事は1983(昭和58)年に完了し、6月に「新校舎落成記念式」が行われました。その際、旧校舎を取り壊すときに、正面上部にあった「校章」を保存する話が持ち上がり、現在残されている校章が、この写真のものです(1階事務室前の廊下)。よく見ると、「高」の字の部分が少し盛り上がっていて、「中」の字をセメントで覆っているのが分かります。たしかに伝統ある校章でした。
この他には、旧校舎時代から残されているものは、イチョウの木、京葉道路側建物に沿った一部の外壁・・・。
あとは、「三高地蔵」(由緒はよく分からないそうですが)くらいだそうです。この地蔵は、ひっそりと京葉道路側通用門の脇に残っています。かつての場所と同じかどうか分かりませんが。
両国高校も大きく変わっています。良き伝統を引き継ぎながら新しい時代にふさわしい姿に、中身も姿も変化して欲しいものです。
開校当時の校舎は、いくたびかの増築を経た後、1924(大正13)年の関東大震災ですべて焼失しました。1927(昭和2)年、鉄筋コンクリート3階建ての校舎が新築されました。多くの卒業生が学んだ校舎が、増改築はあったものの、この「昭和校舎」でした。
1945(昭和20)年の東京大空襲で大きな被害を受けたましたが、校舎の外郭はしっかりと残っていて、以後、復興工事が続きます。ロの字型の校舎で、戦災で周りはすっかり焼け野原の中にあってポツンと残っているのが、写真でも分かります。
その後、老朽化や耐震構造の面から、全面改築の運びとなるも、当初の建築計画が校地内に埋められた六価クロム除去問題でご破算になり、現在あるような校舎の建設となりました。
すべての工事は1983(昭和58)年に完了し、6月に「新校舎落成記念式」が行われました。その際、旧校舎を取り壊すときに、正面上部にあった「校章」を保存する話が持ち上がり、現在残されている校章が、この写真のものです(1階事務室前の廊下)。よく見ると、「高」の字の部分が少し盛り上がっていて、「中」の字をセメントで覆っているのが分かります。たしかに伝統ある校章でした。
この他には、旧校舎時代から残されているものは、イチョウの木、京葉道路側建物に沿った一部の外壁・・・。
あとは、「三高地蔵」(由緒はよく分からないそうですが)くらいだそうです。この地蔵は、ひっそりと京葉道路側通用門の脇に残っています。かつての場所と同じかどうか分かりませんが。
両国高校も大きく変わっています。良き伝統を引き継ぎながら新しい時代にふさわしい姿に、中身も姿も変化して欲しいものです。
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