おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その3。権八地蔵。荒川土手・旧中山道。水準点。「決潰の跡」碑。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-19 14:06:57 | 元荒川

ここを歩くのは、3回目。「中山道」歩き、「荒川」歩き、そして今回。

「権八地蔵」。

鴻巣市指定民俗資料 権八地蔵とその物語

 権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸に逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が冒した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕らえられ、延宝8年(1680)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処せられた。

 平成24年2月  鴻巣市教育委員会

 「Wikipedia」によって、少し補足します。

 権八は新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ってしまいます。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあった普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れますが、すでに父母が死去していたことから、自首。1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。享年25。
 小紫は権八の刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害。同寺に「(権八と小紫との)比翼塚」がつくられましたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存しています。

 歌舞伎の世界では、「白井権八」として登場。幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られますが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがあるようです。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存じ鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名です。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソード。
 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等があります。
 吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」があります。(注:この地蔵が久下の「物言い地蔵」のこと)

                           (「Wikipedia」より)

「榎戸堰」上流の元荒川。

荒川土手(旧中山道)に上がります。遠くに赤城山。

大きく視界が広がります。

右、眼下に「元荒川」。高崎線「行田駅」方向。

用水路のような流れ。

所々、茂みの中を流れる。

こちらは荒川の河川敷。

               耕作地が広がり、流れを見ることができません。

「(河口から)70.6㌔」標示。

土手の下に「水準点」。ということは、この道筋が旧道?

この付近の今昔。

                                                               

(1880年代)中山道は元荒川沿い?             (現在)土手道が整備され、集落もある。

水準点沿いの道(おそらく「旧中山道」)を進みます。

元荒川の流れ。

再び、荒川土手の道へ。前方に、3回目となる「ライオンズマンション」。

荒川下流方向を振り返る。

ここで土手(旧中山道)から下ります。

とその前に、土手沿いにある「決潰の跡」碑。

洪水の恐ろしさを物語る碑。1958(昭和33)年に建立。
 1947(昭和22)年9月のカスリーン台風による洪水のため、この地点で堤防が決壊しました。石碑の碑文には2箇所が決壊し、延長は約100mに及んだとあります。決壊による濁流はすぐ東側を流れる元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れ、大きな被害を出しました。この時の洪水では下流の田間宮村(現.鴻巣市大間)でも、大間堤(荒川の左岸堤防)が決壊。利根川の右岸堤防も大利根町(新川堤)で決壊した(現在、跡地はカスリーン公園)。さらにもっと下流地域の中川(古利根川)などでも決壊し、「荒川」以東の下町地域も床上浸水などの大きな被害が出ました。

        

眼下の家並み。

左手、土手の中腹に、「一里塚跡」・「馬頭観音」。

「中山道」歩きの時の記録を再掲。

・・・

草むらには、ぽつんと「馬頭観音」。たしかに旧街道筋だという実感が。



そのまま草地を下って行くと、小さな祠が「一里塚」跡。日本橋から15里目のもの。

    

一里塚跡(久下新田)
 江戸の日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方4間(9米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。
 柳樽には
 くたびれた奴が見つける一里塚
という句もある。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 


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