11月23日(祝)。晴れ。
「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。
外房線。
国道128号に合流し、南に向かいます。
房総らしい屋根のおうち。
せがい造りの立派なおうち。
右手丁字路のところに「浪切地蔵」。
駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか?
・・・「とらみ」と読みます。
※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「泥海」(ドロウミ)の名前が転訛して「トラミ」⇒虎見⇒東浪見となったと言われています。(「まほらにふく風に乗って」HPより)
この先、国道から右に入って行きます。
右に小さな祠。「出征土偶」とあります。
遠くに水平線が見えています。↓。
坂道の途中から右に下って行きます。旧道。
「伊南房州通往還」に合流します。
この先で「いずみ市」に入ります。
「梨販売所」。
梨の収穫時期も終わり、閉店中。
千葉の「梨の産地」というと、白井や船橋などがなじみ深いですが、この地方でもけっこう栽培されているのですね。
「太田和農園」。
「山田梨園」「関」「土橋」「太田」などの梨園が広がります。
「椎木商店街」に入ります。
都内下町などの商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。
車が行き来するも、人通りは、少ない。
、
「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手(桝形)になっていた。
椎木宿
「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。
南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。
岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。
夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。
椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中心とした在郷町へと発展していきます。
国道128号線は町の東側を大きく迂回した海岸沿いを走りますが、町の中心市街はこの椎木や長者といった旧道沿いにあります。所々に残された古い建物には、塗籠造りのものはほとんど無く、板張り二階建ての商家はみな昭和初期に建てられたものではないかと思います。
(この項、「」HP)
まっすぐな道沿いの家並み。
商家。店先に自販機。
店自体の営業はしていないようです。
「かさや」。
「小安商店」。
「商家」らしい店構え。米穀、肥料、農薬、資材などの販売。
バス停「椎木下宿」。
かつての商家。
隣は、きもの館「まるへい」。
天保元年創業、とか。
奥には、大きなおうち。
房総らしい趣の屋根と建物。門も立派。
来た道を振り返る。
この先「椎木三叉路」を左折します。
曲がると、左手に衣装を凝らした「かかし」がいくつも並んでいます。
いったいどういうわけ? 街道を進む内に、理由が分かってきます。
「福原橋」で夷隅川を渡ります。
夷隅川(いすみがわ)
千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ。
勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である。
夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある。
夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。
江戸中期から明治中期にかけて耕作地の拡大と流下阻害要因の解消のために「川廻し」という流路の直線化が盛んに行われた。
(この項、「Wikipedia」より)
上流方向。
ここにもたくさんのかかしが並ぶ。
その脇の横断幕には、
「いすみ健康マラソンにようこそ! 楽しくパワー全開! 」。
マラソン大会の歓迎と応援に、たくさんのかかしたちが登場しているわけです。
※もともとあった、かかしも含まれているようです。
こちらは小さなぬいぐるみたち?
振り向くと、一家勢ぞろい。
こうして「スタート」地点に。
この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。
と、角にあるお店。
「池田屋菓舗」。
かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?
このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。
長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、
商店街らしい雰囲気はありません。
「長者」。
一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)
「国道128号」と交差。
「外房黒潮ライン」と名付けられています。
「三門駅」方向へ進みます。
「江場土川」。下流方向。
手入れの行き届いた槙の生垣。
大きなお屋敷が連なる。
この付近の今昔。
(現在)水準点が表示されている。
(1880年代)道沿いに街並みが形成されている。
※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。
旧江場土村。
国道128号を斜めに通過します。
交差点にあるのは、「北向き地蔵」。
国道128号・長者方向を望む。
と、上総一ノ宮に向かう列車が近づいてきて、この先の踏切の警笛音が聞こえてきます。
「三門(みかど)駅」が右奥に。
この列車を逃すと、1時間後。必死に走り、間に合いました。
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