「小暑」は二十四節気の11番目。夏が本格化する時季。「夏至→小暑→大暑→立秋」とういう移り変わりに。
温風至 あつかぜいたる
雲の間から注ぐ陽がだんだんと強くなる頃。 温風とは湿った空気が山を越え、乾いた温かい風となって吹き降ろすフェーン現象のことを表しているとも言われています。
蓮始開 はすはじめてひらく
蓮がゆっくりと蕾をほどき、花を咲かす頃。 水底から茎を伸ばし、水面に葉を浮かべ、綺麗な花を咲かせる蓮ですが、花が開いてから4日目には散ってしまいます。
(大賀ハス「千葉公園」にて。)
・末侯 7月17日〜7月21日頃
鷹乃学習 たかすなわちわざをなす
5・6月に孵化した雛が、巣立ちの準備をする頃。 独り立ちができるよう、飛び方を覚え、獲物の捕り方を覚え、「独り」ということを一から学びます。
先日、TVで鷹匠の話題がありました。害鳥を追い払うために活用している、とのこと。見ごたえのある内容でした。
我が家辺りでも小鳥の鳴き声がしきりに聞こえます。巣立ちする雛もいるのでしょう、近所の工場の屋根にはツバメが巣を作っています。
旬のものとしては
虫 アゲハチョウ
※今日、「向島百花園」でアゲハチョウが1羽飛んでいるのをみかけました。あちこち飛び回っているので、写真には撮れませんでした、残念! 「小暑」の日にタイミングよすぎです。
魚 鰻
鰻の、いい匂いと煙が。
(小見川にて)。
野菜 大蒜(にんにく)
行事 祇園祭
(この項、主に「暦生活」HPより)
※「鰻」といえば、今からおよそ1.230年以上昔、『万葉集』にある、大友家持が知人の石麻呂に贈った歌二首が思い浮かびます。
「土用の丑の日(今年は7月23日・大暑)に鰻を食べる」という風習。夏場で売れ行きが落ちた鰻屋から相談された蘭学者で発明家の平賀源内が鰻を売るためのキャッチコピーを店先に掲げたところ大繁盛した、ということから始まった、という説が有名です。が、万葉集の時代から、鰻は夏場の滋養強壮に最適だったようです。
〈 痩せたる人を嗤咲へる歌二首〉痩せている石麻呂を戯れにからかってみた歌二首
3853: 石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ
石麻呂に申し上げよう。夏痩せに良いというものとして鰻があるそうだ。鰻を捕って召し上がれ。
3854: 痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな
いくら痩せすぎているといっても、生きていればこそのはなし。万々が一、鰻を捕ろうとして川に入って流されるなよ。
さて、明日・7月7日は、「七夕」。「五節句」の1つ。
そして、「東京都知事選」投票日。それぞれの思いを短冊に、ではなく投票用紙に託して、といってもこの暑さじゃ、投票所にも行かない可能性、大。またまた低投票率で終わるか?
七夕飾り。
(「向島百花園」にて)
※五節句は、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽。
7月7日あるいはその前夜の行事。本来は陰暦で行っていたが、現在は陽暦の7月7日に行う所が多い。東北地方などでは月遅れの8月7日に行っている。七夕は織女祭(しょくじょさい)、星祭(ほしまつり)などともいい、中国伝来の行事と、日本古来の伝承、さらに盆行事の一環としての行事など、さまざまな要素が入り混じって今日に伝承されている。
歴史的にみると、奈良時代には宮中の行事として、この日中国伝来の乞巧奠(きこうでん)が行われている。桃、梨(なし)、茄子(なす)、瓜(うり)、大豆(だいず)、干鯛(ひだい)、薄鮑(うすあわび)などを清涼殿の東庭に供え、牽牛(けんぎゅう)・織女の二星を祀(まつ)ったという。『延喜式(えんぎしき)』には織部司(おりべのつかさ)の行事として7月7日に織女祭が行われたというが、いずれも宮廷や貴族の習俗であった。室町時代になると七夕に歌を供える風習が入り、7という数にあやかって、7種の遊びを行ったという。さらに江戸時代には武家の年中行事としても定着し、五節供の一つに定められている。笹竹(ささたけ)に五色の紙や糸を吊(つ)るして軒端に立てる風も江戸市中にみられ、今日に近い七夕風景になってきた。
七夕の名称については、日本では古く神を迎え祀るのに、乙女が水辺の棚に設けた機屋(はたや)にこもり、神の降臨を待って一夜を過ごすという伝承があり、これから棚機女(たなばたつめ)、乙棚機(おとたなばた)、さらに「たなばた」とよぶようになったという折口信夫(おりくちしのぶ)の説がある。七夕には一夜水辺にこもって禊(みそぎ)を行い、翌朝送り神に託して穢(けがれ)を持ち去ってもらうものであったともいい、現に各地に伝承される水浴の習俗はその名残(なごり)であるという。七夕にはかならず洗髪をするとか、食器類を洗うものだという地域は広くある。観光で有名になっている青森県弘前地方のねぶた行事も七夕の日であり、ねぶたは「佞武多」という字をあてているが、眠りを追い払う行事である。秋の収穫作業を控え、仕事の妨げとなる睡魔、悪霊を追い払う行事だった。
中国では、この日、牽牛星(わし座のα(アルファ)星アルタイル)と織女星(こと座のα星ベガ)の二星が、天の川を挟んで年に一度相会う日となっている。牽牛は農時を知る基準となり、織女はその名の示すように養蚕や裁縫をつかさどる星とされていた。陰暦7月の初めころは、この二星が北東から南西に横たわる天の川を挟んで、人々の頭上に明るく見えるところから、擬人化して二星の相会う伝説が生まれたものである。この伝説は、日本の口承文芸のなかにも数多く語られている。
(「Wikipedia」より)
七夕の由来譚(たん)は、室町時代の『天稚彦物語(あめわかひこものがたり)』に、娘が大蛇と結婚する異類婚姻譚となって語られており、現に全国にすこしずつ語り口を変えて伝承されている。その骨子は天人女房の昔話である。
天女が水浴びをしていると、若者がかいまみて、一人の天女の羽衣を隠してしまう。羽衣のない天女は天に帰ることができず男の妻となる。子供が生まれ、その子供の歌から羽衣が穀物倉に隠してあることを知り、天女は羽衣をつけ、子供を連れて天に飛び去ってしまう。天女は別れるとき、瓜の種を残してゆく。男はこの瓜のつるを登って天上へ行く。天帝の難題を天女の援助によって解決するが、禁じられていた瓜を縦に割ってしまい、瓜から流れた水が大洪水となり、男は流されてしまう。この川が天の川で、天女は流されてゆく男に、7日7日に会おうといったのに、男は7月7日と聞き違え、年に一度7月7日にしか会えないようになってしまった。
七夕行事には、盆行事の一環としての要素も多い。この日盆道(ぼんみち)作りをするとか、盆の市(いち)が開かれるなどというもので、7月の満月の盆に対し、朔日(ついたち)との中間、7日ごろを目安として日を設定したもので、これに他の七夕の要素が複合して今日のような形式となったものであろう。中国伝来の乞巧奠は当初貴族に伝わり、それはこの日晴天を祈る星祭となり、乾燥文化圏の行事に属し、一方、日本古来の農神としての七夕は、民間に流布し盆行事とも結合して穢を祓う習俗となり、したがって雨天を望む湿潤文化圏の行事の要素をもっている。七夕はこの二つの複合習俗といえよう。
[鎌田久子](この項、「コトバンク」HPより)
ちなみに、「七夕」は本来、旧暦7月7日の行事ですから、立秋のころ。そのため俳句では秋の季語になっています。
「おり姫星」はこと座の「べガ」のことで、「ひこ星」はわし座の「アルタイル」のこと。
ベガ、アルタイルと、はくちょう座のデネブの三つの一等星を結んだのが「夏の大三角形」。
東の空に、明るいベガとアルタイルを見つけることができます。都会では間を流れる天の川を見ることができませんが、ベガとアルタイルはすぐにわかることでしょう。
源氏物語「帚木」の巻・「雨の夜の品定め」。
五月雨(梅雨時)の夜、17歳になった光源氏のもとに、義兄の頭中将が訪ねてくる。さらに左馬頭と藤式部丞も交えて、4人で女性談義をすることになる。
この中で、「七夕」にかこつけた話題が出てきます。
「・・・はかなきあだ事をもまことの大事をも、 言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず、 織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」
とて、(左馬頭は)いとあはれと思ひ出でたり。(頭)中将、
「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げに、その龍田姫の錦には、またしくものあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。さあるにより、難き世とは定めかねたるぞや」
と、言ひはやしたまふ。
「・・・風流なことでも実生活のことでも、話し合うかいがあり、龍田姫といってもいいほど染色の技能もあり、織姫にも劣らないほど、裁縫の腕も兼ね備え、たいした女であった」と言って、左馬頭は(あっという間に亡くなった)その女をしみじみと思い出している。頭中将は、「その織女のような裁縫の腕はさし置いても、(せめて七夕の)長い契りにあやかりたいものだ。本当に、その龍田姫の錦(染め)以上のものはいないでしょう。それほどでもない花紅葉にしても、折々の季節の色合いとが悪く、はかばかしくないのは、まったく露のごとくあっという間に消えるようなつまらないものだ。そう思うと、良き妻を選ぶのは難しく、決めかねるものだね」と言いはやす。
・・・
この方ともお別れです。
次の二十四節気「大暑(猛暑)」は、7月22日(月)
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