おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「花田清輝批評集 骨を切らせて肉を斬る」(花田清輝)忘羊社

2015-02-27 23:11:48 | 読書無限

 注:書名中の「肉」は

 久々に花田清輝の本を読んだのである。むろん、「東海道線」行き帰りの電車の中だ。実は、図書館で手にしたとき、この中に何とあの、懐かしい「ものぐさ太郎」の一文が載っていることに気がついたからである。
 初めて読んだときの痛快な読後感が忘れられない、今もあったから。
 これはもちろん「ものぐさ太郎」というおとぎ話(民話)の紹介、評論、詮索ではない。自らの存在感をこれでもか、これでもかと万人に知らしめようという魂胆ありあり。だから、最後は照れ隠しで、結末を書いていない。文中には、かの巨匠・岡本太郎の挿話まで出てくるけれども。
 つい噴き出してしまいそうな、自己弁護、自己肯定、自画自賛、他者攻撃、おとしめ、そして、その斜に構え方が何となく憎めない論調。「大向こう受けしている」(とは、これっぽちも思っていない)の吉本隆明と一大論争をしかけた方でもあるのだから。吉本だけではない、俗にいう文化人に対して、あるいは、左翼、右翼・・・、型どおりで、紋切り型の評論家をなで切りにしていく、ある種の爽快感がおそらく60年代には受けたのではないだろうかね。誰に大衆に、ではなく映画などの芸術運動、その担い手たちに。

 が、この「先駆的」な「ごろつき評論家」(誰にでもかみつく)と揶揄されながらも、時代を先取り(今の政治情勢、文化情勢、そしてマスコミ報道の堕落ぶり・・・)したということを改めて思うのである。
 帰りの、3万歩くらい歩いての帰りの鈍行列車、勤め帰りの人達が乗り込んでくるのを尻目に、この本を拡げてくすくすと笑いがこみ上げて来つつ、妙に納得顔をして頷く小生に、いったい誰が気づいたであろうか。

 「戦争中、私は少々しゃれた仕事をしてみたいと思った。そこで率直な良心派のなかにまじって、たくみにレトリックを使いながら、この一連のエッセイを書いた。良心派は捕縛されたが、私は完全に無視された。いまとなっては、殉教者面ができないのが残念でたまらない。思うに、いささかたくみにレトリックを使いすぎたのである。一度、ソフォクレスについて訊問されたことがあったが、日本の警察官は、ギリシャ悲劇については、たいして興味がないらしかった」復興期の精神初版跋(本書P38)

 それにしても、福岡市文学館嘱託員の田代ゆきさんが収集し、発刊したたこのエッセイ集に込められた意図は奈辺にあるのか、いささか知りたい気分ではある。最後まで読んでいったい何なのさ、と批判されるだろうが。・・・

 そうそう、「首が飛んでも動いてみせるわ」は『四谷怪談』中の「民谷伊右衛門」の名台詞だが、ずいぶん前、歌舞伎座でだったか、片岡仁左衛門の、台詞でぴたっと決まったときに、身震いがしたことがあった。

  

 

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