おやじのつぶやき

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渋沢栄一・佐久間象山

2013-02-25 22:21:11 | 歴史・痕跡
 「旧大島川西支流」にかかる永代通り・福島橋の手前に、「渋沢栄一宅跡」(永代2-37)、橋を渡った所には「佐久間象山砲術塾跡」(永代1-14)の説明板があった。二つとも同じ時期に設置されたようだ。

説明板。
江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のたまに尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

・ 渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
・ 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
・ 「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
・ 郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
・ 栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。
・ 明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
・ 1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
・ 栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
・ 栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。(「渋沢栄一記念財団」HPより。)

 北側に「渋沢シティプレイス永代」「渋沢永代ビル」の大きな建物がありました。



江東区登録史跡
佐久間象山砲術塾跡
 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保4年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永3年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌嘉永4年(1851)再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・阪本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。
 平成21年(2009)3月  江東区教育委員会

 象山は、当時の日本における洋学の第一人者。嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
 彼の門弟には吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えた。
 元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に「公武合体論」と「開国論」を説いた。しかし、当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、7月11日、三条木屋町で暗殺される。享年54。
 勝の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となった。象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し、その死を悼んだ、という。


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