(10:35)館林の市街地へ。
この付近に「館林城江戸口門」があったようです。
「館林駅入口」交差点。
館林市概要
館林市は古くから開けていた地域で60基以上の古墳が存在したとされますが、最大とされる山王山古墳や富士塚古墳などは全長50m前後の為、巨大な豪族とまではいかない勢力が分布していたと思われます。
鎌倉時代になると幕府の御家人である佐貫氏が館林市周辺を支配しますが、時代が下るにつれて一族の舞木氏が台頭し、下克上の世になると舞木氏の被官赤井氏が取って代わります。赤井氏は館林城を居城とし、小田原北条氏と組みし勢力を広めていた為、関東管領を譲渡された上杉謙信(春日山城の城主、越後守護職)と上野国諸侯と対立し、永禄5年(1562)には上杉勢の侵攻により館林城は落城し、赤井氏は武蔵忍城(埼玉県行田市)に落ち延びていきました。
謙信が死去すると小田原北条氏が支配し、天正18年(1590)の小田原の役で没落すると徳川家支配になり館林には重臣である榊原康政が10万石で入封し館林藩を立藩します。
以後も東国の抑えの城として幕府から重要視され徳川綱吉を筆頭に松平氏、太田氏、井上氏、秋元氏など親藩や有力譜代大名が藩主を歴任し明治維新を迎えます。
ちょっと周囲を散策。
(1)館林駅(2)竜の井(3)毛塚記念館(4)大道寺(5)旧町屋地区の住宅(6)青梅天満宮(7)外池商店(8)旧二業見番組合事務所
(9)青龍の井戸(10)鷹匠町長屋門(11)鷹匠町武家屋敷武鷹館(12)土橋門(13)第二資料館(14)旧秋元別邸
実際に歩いたのは(7)から(11)までですが。
「青龍の井戸」。
青龍神社概要
この井戸は、江戸時代に福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると、延宝年間(1673~1681年)に突然清水が湧き上がり、中から女官姿の「青龍権現」が姿をあらわしたことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったといわれています。
当時は徳川綱吉が館林の城主となった頃で、城下は、御三家の一つである水戸家に並ぶほどのこれまでに例を見ない隆盛をほこっていたことから、ますます良い兆しであるとして、人々の大変な噂となりました。
この話を聞いた綱吉の生母「桂昌院」は井戸のかたわらに「青龍権現社」を再建したといわれ、綱吉も5代将軍となると10石をの来印地を寄進したと伝えられており、神社の入口には、現在でも「葵の御紋」が見られます。
又、この井戸と善導寺(現在は移転)境内の「竜の井」と「城沼」とが一つにつながっていたという伝説もあり、こうしたことから、7月10日の縁日荷は、延命長寿の霊験があるこの井戸の水を参拝者に与える習わしがありました。
平成10年に、井戸の調査がおこなわれましたが、井戸の深さは7㍍程、井戸の断面は、深さ約3㍍のところで大きく膨らみ、集水のための工夫が施されていることがわかりました。 現在でも、冷たくてきれいな水がこんこんと湧き出しています。
「旧二業見番組合事務所」。
昭和前/1938
木造2階建、瓦葺、建築面積195㎡ 1棟
群馬県館林市本町二丁目1704
登録年月日:20160225
登録有形文化財(建造物)
料亭と芸妓置屋の二業の旧組合事務所。木造二階建で通りに西面する。一階は事務室と座敷、二階は舞台を持つ畳敷の大広間をおく。通りに面する西面は入母屋造屋根の妻と唐破風造の玄関を見せ、二階には左右対称の切妻屋根を並べるなど、和風意匠で華やかに飾る。
この建物は昭和13年(1938)に芸妓屋業と料亭業の二業を取り仕切る事務所として建てられたもので、木造2階建、入母屋、桟瓦葺、妻入、外壁は1階が下見板張、2階が真壁造、白漆喰仕上げ、延床面積約390㎡。正面は左右対称で両側を前に出させる事で切妻屋根が重なるようにし、2階には手摺を廻し楼閣風の意匠にしています。
玄関は大きな唐破風屋根を設えて建物を強く印象付けると同時に利用するお客様にとって非日常空間を演出する効果があったように思われます。その他にも花を模った止め瓦や照明、土間のタイル、折り上げ天井、懸魚などなど細やかな意匠や工夫が随所に施されてます。
2階には芸妓さんの練習舞台があり3方の壁には松や竹が描かれ当時の華やかな空間が残されています。
旧二業見番組合事務所は所謂、料亭建築で、外観や内部の細かな意匠に至るまで通常の町屋建築や農家建築、武家屋敷には無いある種の艶っぽさが感じられます。
「料理屋」・「芸者置屋」・「待合」の3種の営業を「三業」、前2者のみを「二業」という。
注:待合と料亭(料理屋)の大きな違いは、前者では料理を直接提供しない(板場がない)ことである。料理は仕出し屋などから取り寄せる。待合は席料を取るほか、取り寄せた料理に手数料を乗せ、これらが主な収入になる。また、待合では(料理屋と異なり)客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(東京などでは、娼妓は遊郭以外で営業できないため、待合へ呼ばれることはない)。なお、芸妓と客の同宿はほとんど黙認状態であったが、売春が公認されていたわけではない。
その他、門口に盛り塩、帳場に縁起棚、あるまじき所に酒樽、眉毛のあとの青いかみさんが待合の特徴と言われた。
同じ待合という名を冠していても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、内実は相当な違いがあった点に注意すべきである。格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であった。永井荷風は「おかめ笹」の中で芸者と気軽に遊ばせる白山などの小待合の様子を描写している。有名な阿部定事件の舞台は、尾久(荒川区)の待合である。
第二次世界大戦後、待合は「料亭」と名を変えた(このため、かつての料亭は「割烹」と称することが多くなった)。料亭と名前は変わっても、相変わらず政治家の会合や企業の接待などに使われていたが、次第にバー、クラブ、ゴルフなどと接待の場も多様化し、芸妓が減少するのと並行して、廃業する店が多くなった。
(この項、「Wikipedia」参照)
「肴町」。
突き当たりには「外池商店」。
外池商店(館林市)概要:
外池商店は江戸時代中期に近江国(現在の滋賀県)から当地に移住して創業、「和泉屋」の屋号で醤油や味噌などの醸造業を営んでいました。現在の店舗は昭和4年(1929)に建築されたもので、木造2階建て切妻、瓦葺、平入り、桁行4間、1階正面は下屋が張り出し、2階は格子戸となっています。表門から敷地内に入る事が出来、背後にある土蔵は創建当時に建てられ建物で近年改修して"百々歳蔵"として多目的利用されています。
「まちなか散策」絵図。
右に折れ、左に曲がると「長屋門」。
鷹匠町長屋門
旧野辺町(三野谷)の豪農「松沢家」が利用していた長屋門を利用して、武家屋敷長屋門として、平成21年に新築したもの。長屋門は武家の屋敷門の一つで、長屋の間に門があることから長屋門といわれており、門の両側の部屋は使用人の部屋や物置として使われていました。
続いて「武家屋敷武鷹館」へ。
「鷹匠町」。
庭側から外を。
旧館林藩士住宅
この建物は、旧館林城の侍町の一つである「外伴木」(現在の尾曳町)に現存した館林藩の中級武士の住宅で、秋元藩時代には、藩士「伊王野惣七郎」の居宅として、廃藩後は、旧藩士の「山田家」の住宅として今日まで受け継がれてきました。
部屋を横一列に配置する武家住宅特有の間取りが特徴で、長年住宅として使われてきたことで、間取りなどに変化はありましたが、調査により、建築当初は間口約8間半、奥行はお勝手を入れて4間半、建坪は28坪(92.56㎡)であることがわかりました。棟札が発見できなかったため、建築年は明確にできませんが、柱間の長さや間取り、柱配りなどから、江戸時代後期に造られたものと考えられています。
群馬県内においても、現存する数少ない武家住宅の一つで、江戸時代の建築様式や武士のくらしを伝える歴史的価値の高い建造物として、平成11年に館林市指定重要文化財に指定され、平成12~13年にこの場所に移築復元しました。
長屋門
「長屋門」は、近世の武家屋敷の表門の形式の一つで、物置や使用人などの住居も兼ねていました。
この長屋門は、木造瓦葺き平屋建て、屋根構造は和小屋組で、中央部に門扉、両袖に部屋が配置されています。建築年代は棟札がなく明確にはできませんが、大正期の建築と考えられています。
旧城下に江戸時代の長屋門が現存しないこともあり、江戸時代の武家屋敷街の格式や雰囲気を伝える貴重な建造物と考えられます。また、附属する住宅は、昭和29年に増築されたものですが、従来の日本建築の工法を伝えています。「旧館林藩士住宅」の移築に合わせ、管理や活用のための設備として、外観を活かして整備しました。
外観のようす。
「館林の街並みと建造物」ポスター。
通りの向かい側には「田中正造資料館」。
大手町にある「正田邸」。
この付近に「館林城江戸口門」があったようです。
「館林駅入口」交差点。
館林市概要
館林市は古くから開けていた地域で60基以上の古墳が存在したとされますが、最大とされる山王山古墳や富士塚古墳などは全長50m前後の為、巨大な豪族とまではいかない勢力が分布していたと思われます。
鎌倉時代になると幕府の御家人である佐貫氏が館林市周辺を支配しますが、時代が下るにつれて一族の舞木氏が台頭し、下克上の世になると舞木氏の被官赤井氏が取って代わります。赤井氏は館林城を居城とし、小田原北条氏と組みし勢力を広めていた為、関東管領を譲渡された上杉謙信(春日山城の城主、越後守護職)と上野国諸侯と対立し、永禄5年(1562)には上杉勢の侵攻により館林城は落城し、赤井氏は武蔵忍城(埼玉県行田市)に落ち延びていきました。
謙信が死去すると小田原北条氏が支配し、天正18年(1590)の小田原の役で没落すると徳川家支配になり館林には重臣である榊原康政が10万石で入封し館林藩を立藩します。
以後も東国の抑えの城として幕府から重要視され徳川綱吉を筆頭に松平氏、太田氏、井上氏、秋元氏など親藩や有力譜代大名が藩主を歴任し明治維新を迎えます。
ちょっと周囲を散策。
(1)館林駅(2)竜の井(3)毛塚記念館(4)大道寺(5)旧町屋地区の住宅(6)青梅天満宮(7)外池商店(8)旧二業見番組合事務所
(9)青龍の井戸(10)鷹匠町長屋門(11)鷹匠町武家屋敷武鷹館(12)土橋門(13)第二資料館(14)旧秋元別邸
実際に歩いたのは(7)から(11)までですが。
「青龍の井戸」。
青龍神社概要
この井戸は、江戸時代に福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると、延宝年間(1673~1681年)に突然清水が湧き上がり、中から女官姿の「青龍権現」が姿をあらわしたことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったといわれています。
当時は徳川綱吉が館林の城主となった頃で、城下は、御三家の一つである水戸家に並ぶほどのこれまでに例を見ない隆盛をほこっていたことから、ますます良い兆しであるとして、人々の大変な噂となりました。
この話を聞いた綱吉の生母「桂昌院」は井戸のかたわらに「青龍権現社」を再建したといわれ、綱吉も5代将軍となると10石をの来印地を寄進したと伝えられており、神社の入口には、現在でも「葵の御紋」が見られます。
又、この井戸と善導寺(現在は移転)境内の「竜の井」と「城沼」とが一つにつながっていたという伝説もあり、こうしたことから、7月10日の縁日荷は、延命長寿の霊験があるこの井戸の水を参拝者に与える習わしがありました。
平成10年に、井戸の調査がおこなわれましたが、井戸の深さは7㍍程、井戸の断面は、深さ約3㍍のところで大きく膨らみ、集水のための工夫が施されていることがわかりました。 現在でも、冷たくてきれいな水がこんこんと湧き出しています。
「旧二業見番組合事務所」。
昭和前/1938
木造2階建、瓦葺、建築面積195㎡ 1棟
群馬県館林市本町二丁目1704
登録年月日:20160225
登録有形文化財(建造物)
料亭と芸妓置屋の二業の旧組合事務所。木造二階建で通りに西面する。一階は事務室と座敷、二階は舞台を持つ畳敷の大広間をおく。通りに面する西面は入母屋造屋根の妻と唐破風造の玄関を見せ、二階には左右対称の切妻屋根を並べるなど、和風意匠で華やかに飾る。
この建物は昭和13年(1938)に芸妓屋業と料亭業の二業を取り仕切る事務所として建てられたもので、木造2階建、入母屋、桟瓦葺、妻入、外壁は1階が下見板張、2階が真壁造、白漆喰仕上げ、延床面積約390㎡。正面は左右対称で両側を前に出させる事で切妻屋根が重なるようにし、2階には手摺を廻し楼閣風の意匠にしています。
玄関は大きな唐破風屋根を設えて建物を強く印象付けると同時に利用するお客様にとって非日常空間を演出する効果があったように思われます。その他にも花を模った止め瓦や照明、土間のタイル、折り上げ天井、懸魚などなど細やかな意匠や工夫が随所に施されてます。
2階には芸妓さんの練習舞台があり3方の壁には松や竹が描かれ当時の華やかな空間が残されています。
旧二業見番組合事務所は所謂、料亭建築で、外観や内部の細かな意匠に至るまで通常の町屋建築や農家建築、武家屋敷には無いある種の艶っぽさが感じられます。
「料理屋」・「芸者置屋」・「待合」の3種の営業を「三業」、前2者のみを「二業」という。
注:待合と料亭(料理屋)の大きな違いは、前者では料理を直接提供しない(板場がない)ことである。料理は仕出し屋などから取り寄せる。待合は席料を取るほか、取り寄せた料理に手数料を乗せ、これらが主な収入になる。また、待合では(料理屋と異なり)客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(東京などでは、娼妓は遊郭以外で営業できないため、待合へ呼ばれることはない)。なお、芸妓と客の同宿はほとんど黙認状態であったが、売春が公認されていたわけではない。
その他、門口に盛り塩、帳場に縁起棚、あるまじき所に酒樽、眉毛のあとの青いかみさんが待合の特徴と言われた。
同じ待合という名を冠していても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、内実は相当な違いがあった点に注意すべきである。格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であった。永井荷風は「おかめ笹」の中で芸者と気軽に遊ばせる白山などの小待合の様子を描写している。有名な阿部定事件の舞台は、尾久(荒川区)の待合である。
第二次世界大戦後、待合は「料亭」と名を変えた(このため、かつての料亭は「割烹」と称することが多くなった)。料亭と名前は変わっても、相変わらず政治家の会合や企業の接待などに使われていたが、次第にバー、クラブ、ゴルフなどと接待の場も多様化し、芸妓が減少するのと並行して、廃業する店が多くなった。
(この項、「Wikipedia」参照)
「肴町」。
突き当たりには「外池商店」。
外池商店(館林市)概要:
外池商店は江戸時代中期に近江国(現在の滋賀県)から当地に移住して創業、「和泉屋」の屋号で醤油や味噌などの醸造業を営んでいました。現在の店舗は昭和4年(1929)に建築されたもので、木造2階建て切妻、瓦葺、平入り、桁行4間、1階正面は下屋が張り出し、2階は格子戸となっています。表門から敷地内に入る事が出来、背後にある土蔵は創建当時に建てられ建物で近年改修して"百々歳蔵"として多目的利用されています。
「まちなか散策」絵図。
右に折れ、左に曲がると「長屋門」。
鷹匠町長屋門
旧野辺町(三野谷)の豪農「松沢家」が利用していた長屋門を利用して、武家屋敷長屋門として、平成21年に新築したもの。長屋門は武家の屋敷門の一つで、長屋の間に門があることから長屋門といわれており、門の両側の部屋は使用人の部屋や物置として使われていました。
続いて「武家屋敷武鷹館」へ。
「鷹匠町」。
庭側から外を。
旧館林藩士住宅
この建物は、旧館林城の侍町の一つである「外伴木」(現在の尾曳町)に現存した館林藩の中級武士の住宅で、秋元藩時代には、藩士「伊王野惣七郎」の居宅として、廃藩後は、旧藩士の「山田家」の住宅として今日まで受け継がれてきました。
部屋を横一列に配置する武家住宅特有の間取りが特徴で、長年住宅として使われてきたことで、間取りなどに変化はありましたが、調査により、建築当初は間口約8間半、奥行はお勝手を入れて4間半、建坪は28坪(92.56㎡)であることがわかりました。棟札が発見できなかったため、建築年は明確にできませんが、柱間の長さや間取り、柱配りなどから、江戸時代後期に造られたものと考えられています。
群馬県内においても、現存する数少ない武家住宅の一つで、江戸時代の建築様式や武士のくらしを伝える歴史的価値の高い建造物として、平成11年に館林市指定重要文化財に指定され、平成12~13年にこの場所に移築復元しました。
長屋門
「長屋門」は、近世の武家屋敷の表門の形式の一つで、物置や使用人などの住居も兼ねていました。
この長屋門は、木造瓦葺き平屋建て、屋根構造は和小屋組で、中央部に門扉、両袖に部屋が配置されています。建築年代は棟札がなく明確にはできませんが、大正期の建築と考えられています。
旧城下に江戸時代の長屋門が現存しないこともあり、江戸時代の武家屋敷街の格式や雰囲気を伝える貴重な建造物と考えられます。また、附属する住宅は、昭和29年に増築されたものですが、従来の日本建築の工法を伝えています。「旧館林藩士住宅」の移築に合わせ、管理や活用のための設備として、外観を活かして整備しました。
外観のようす。
「館林の街並みと建造物」ポスター。
通りの向かい側には「田中正造資料館」。
大手町にある「正田邸」。
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