お、じじいがやってきたぞ。生意気に「らくらくスマホ」じゃないって、か。
大丈夫か? 手元が不如意じゃないのか?
こっちは海千山千、容赦はしないぞ。
まず小手始めに、と。ほら、最初から「ダメだし」になったじゃないか。
ま、あちこちいじって試してみな。
って、そうやたらに闇雲に触らないの!やらないの!
敵を知る前に己の立ち位置を把握しろよ。
だから、こういうど素人はいやだね。
分からないことは分かっている、それなりの人に聞くの!
自分が何でも知ってる、分かっている、って思っちゃダメだよ。
あんたの人生、それで通用してきたの? こなかったでしょ。
自己反省しない人生なんてダメだよ。
それなりの方に教えを請う、そうして成長するもんだよ。
って、若造にだったらこんこんと説教するけれどね。
マニュアル?
マニュアルなんて、何が書いてあるか、理解できる?
あれは、なるたけ理解しずらいようにしているわけ。
なんでもそうでしょ。あんなんで分かる人がいるなら、俺、心から尊敬しちゃうよ、ホント。
また、マニュアル通りにしか動けない連中、それも軽蔑するけどね。
ふう、やっとお目にかかりましたね。
って、また消された! いいかげんにしてくれよ。
そうやってむやみやたらに俺の顔をいじらないの、なでないの!
「仏の顔も三度」っていうの知らない?
どんなに穏やかな人でも、面と向かって顔をなでるような失礼なことを三度も繰り返されては怒りだす。これまで大目に見てきたことも、度重なればただではすまないというたとえ。
《使用例》
「もうあなた。みんなわたしが悪いんですから。」「あやまりさえすれば、それでいいと言うもんじゃない。仏の顔も三度という事があるぜ。何ぼ僕が甘いからッて、そうそう踏付けにばかりされたくないからな」(永井荷風『二人妻』)
ま、これは、「コトバンク」からの引用だけどね。
ついでにもっと講釈するとね。
ことわざに「仏の顔も三度」というものがありますが、この「三度」を「三回」に言い換えて、「仏の顔も三回」と言うことはできるでしょうか?
答えはNOです。なぜなら、「度」と「回」の間には意味の違いがあり、単純に入れ替えることができないからです。「度」は、「回」に比べると度重なる経験や繰り返されることが予測しにくい行為を数える傾向があります。例えば、「太郎には一度会ったことがある」「二度目の優勝」のように、再び太郎に会う保証がない場合、次に優勝することを予測することができない場合には「度」で数えます。一方、「回」は、「三回忌」や「第三回大会」のように、繰り返されることが予測・期待される行為や催しを数えます。
もし、「仏の顔も三回」と言ってしまうと、同じこと(仏の顔をなでる行為)を意図的に繰り返して行うことになり、ことわざとして説得力が無くなってしまいます。わざと計画的に仏を怒らせるわけではありませんので、「三度」を「三回」に置き換えることはできません。
これも「Japan Knowledge」からの借用だけれどもね。
俺ってけっこう学識があるだろう、尊敬しろよ。
またまた知識をひけらかすと、英語じゃ、
even the patience of a saint eventually runs out; (if you touch) the Buddha's face three times (he will get annoyed)
ってなるわけさ。
「Buddha」ってあるように、慈悲深い仏様(お釈迦様)でも三度顔を撫で回されたら腹を立てる、ってわけさ。
でも、三度撫でられたくらいで怒るようじゃ、仏陀も狭量すぎないか?
そこが俺の度量の大きさだよ。どうぞ、どうぞ、好きなだけ撫でて、いじって、押して、回していいよ。
落とすのだけはやめてくれよ、壊れるからな。
そうして、人間は成長するんだ。ま、爺さんの余生はたかが知れているけれどさ。
ま、末永く俺を大事にしてくれよな。
マスコミは、自民党総裁選で賑わっていますが、世間(市井の人)は、こうして身辺雑記に満足しているわけです。
気がつかないうちに変な世の中になっていたら、オオゴト(ゴッドーGodー)!
時々世間の窓も開いておかなければなりません、自戒!
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