おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「ふたつの講演 戦後思想の射程について」(加藤典洋)岩波書店

2013-03-11 19:12:56 | 読書無限
 同世代の(ということは大学紛争を経験した、遠近の差はあれ、関わった)方の「戦後思想」論。そもそも「戦後」とは一の時代か、またその「思想」とは何か。それを「超える」とはどういうことか。徹底した思索による著書をものしている方。特に、2011年3月11日東日本大震災、とりわけ福島第一原発事故をどう受け止めていくか。当時者世代として次世代に対する責任を「腰高」ではなくどう取っていくか。かつて言い方をすればどう「落とし前」をつけるか。
 このところ(一週間ほど)、知人の(同世代の)突然の死とその後の葬式、残された遺族への関わりなどで、落ち着かない日々が続く。合間を見ての読書も・・・。ただこ原発事故の収拾には、いずれ(遅かれ早かれ)我々世代がおそらくすべてこの世から消え去ってもまだまだ続く道筋。政治的、経済的な課題に止まらず、国と地方、公と私のからみなど、きわめて心身のあり方につながっていく課題として捉える必要がある。その意味では、生と死、人の生き方、にも深く通じる課題として存在している。著者の真摯な発言に肯く。
 二年前の今日。人が車が家々が大津波に飲み込まれるTV映像を固唾を飲んで見ているしかなかった。その8時過ぎ。雑踏のJR新宿駅西口地下街。すでに通じにくくなった携帯で、福島原発近くにいる親族に早く避難しろ!原発が危ない!という知人からの伝言を伝える友人の緊迫した声が今でも耳に残る。
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「ロマンスX」(古きよき映画シリーズその27)

2013-03-08 19:08:59 | 素晴らしき映画
原題「Romance」。1999年のフランス映画。
小学校教師のマリー(キャロリーヌ・デュセイ)は、恋人・ポール(サガモア・ステヴナン)とセックスをめぐって関係はぎくしゃくしている。性的な欲求不満で心身ともに満たされないマリー。

 勤め先の学校の校長ロベール(フランソワ・ベルレアン)と密やかな緊縛による性的快感を味わっている。・・・
 妊娠したマリーは出産を決意。妊娠を喜んだポールだが、陣痛が始まった朝も酔いつぶれて起きない。
 マリーは、家を出る前にガス栓を次々に開いていく。そして病院で出産。
 同じ頃、ポールは自宅でガス爆発で死んでしまう。
 
 上映当時、性描写が本番論争を巻き起こし、各国で成人指定を受けた。
 
 ラスト近くは、「生々しい」出産シーン。そして、葬式で終わる。
日本食のお店。
 日本食を好み、難しい本を読み、性的にはきわめて淡泊。いわば今時の「草食系男子」の典型みたいな恋人。一方で、白を基調にした部屋の設定と白い服をまとっている女主人公。校長との逢瀬では濃厚な赤と黒の服、黒の下着。そして、最後は喪服。生と死と・・・。まさに「ロマンス」という題名の意味するものは果たして。日本では、[X]が付されて、成人指定の映画内容であることを暗示するが。あ、[x]ではなくて、[R]か。
 今の日本の、草食系だの何だのと言われる若者たちにとっては、どういう風に受け止められるか。ま、最後の出産シーン。おそらく今時の草食系男子は卒倒するのではなかろうか。

 『寂しい時は抱きしめて』(2005年。原題:Lie with Me)も、若者の「屈折」した性を描いて(セックス・シーンばかりのポルノ映画まがいだった)いたが、この作品、映像的には監督(女性)の主張したい場面が所々にあった。性的な秘密の関係を持つのが、ただ、小学校の校長と教師という設定には・・・。

ロマンスという言葉(日本語的な意味で)のイメージはこの映像くらい。
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読書「色川大吉歴史論集 近代の光と闇」(色川大吉)日本経済評論社

2013-03-05 21:41:03 | 読書無限
 宮沢賢治。麻原彰晃。1980年代の時代相(バブル期とその崩壊)の中で、「銀河鉄道の夜」の公開と歩を一にした宮沢賢治の再評価・ブームの到来とオーム真理教の出現、そしてその末路。
 当時、閉塞状況の下に置かれた青年達の心のあり方を世界観の理想のごとくに賢治の作品がとらえ、一方では、閉鎖的な空間の中で、教祖麻原に帰依し、エセ宗教的観念からついには武装化をおし進め、無差別殺人に向かっていった青年達の心のありよう。その双方のある種の屈折した思いの方向は、時代を先取りした賢治の精神世界の生き方への光明を求め、オームに心酔したあげくの末路に闇を深くする。まさに明治以降の「近代」がたどり着いた「光」と「闇」。
 歴史学者としての同時代的洞察。さらに、積み上げてきたこれまでの「自分史」まとめ直しの上からの歴史の総括、「近代史」の「光」と「影」を自らの戦争体験を通して語りかけていく。
 多摩五日市の市民が作り上げ、育まれていた(しかし、埋もれてしまった)、「五日市憲法草案」などの「自由民権運動」に関わるおびただしい資料の掘り起こし。その評価、現代的な意義。歴史の中で、千葉卓三郎、深沢権八親子などの、民衆の中で生き、死んでいった先人達の生き様に一筋の光を見いだす、困難でありながら未来を照らす発掘作業。
 2000年に書かれた文章では、当時盛んになり始めた憲法改正論議への問いかけ。「第9条」の改変(国防軍、自衛戦争、海外派兵、徴兵制、・・・)に改憲派の狙いがあるにもかかわらず、それをあいまいにしつつ、国民を「改憲論議」へ導こうとする動き。特にそれは、改憲派が圧倒的になった、2013年現在の政治動向への警鐘にもつながっていく。
 「敗戦と青春」の項では、学徒出陣として兵役に就き、「三重海軍航空隊」に所属、わずかの期間共に過ごした人との57年目の再会。戦争末期のすさまじい現実を見つめ直す。骨肉からの反戦の思いが切々と伝わってくる。「フー老のヰタ・セクスアリス」では、芸者置屋での「お芳さん」「君ちゃん」たちと心の交流がほほえましくも、したたかで悲しい女性の生き様が綴られている。
  さらに「網野史学」を民衆史の視点から捉え直すことの必要性を実証的に明らかにしていく文章は、興味深い。
 多種多様な素材・対象を扱いながら、一貫して日本という国土に住み、生活する人々の生き様、それは同様に朝鮮半島や中国大陸、地球で暮らす人々への眼差しでもあるのだが、その奥行きの深さに改めて感服します。

 
 
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戯曲「寿歌 全4曲」(北村想)白水社

2013-03-02 13:00:48 | 読書無限
 昔、高校演劇に関わっていた頃、「シェルター」は3回上演、「雪をわたって」「草稿・銀河鉄道の夜」は少し改編してそれぞれ1回、練習用台本として。そして、「寿歌」は、本読み段階で、残念ながら、挫折。たぶん「プロジェクト・ナビ」の頃。
 もう10年くらい前、何となく懐かしく「雪をわたって」の台本を頼んで、懐かしいガリ版印刷もどきの台本を手に入れた。

 『寿歌』が書かれたのは、1979年(昭和54年)の春である。この年、私は27歳。1977年(昭和52年)の暮れあたりから、体調に異変を感じ、次の一年は寝ても起きても具合が悪く、医者や病院に行っては「何処にも異常はない」と診断されるだけで、たぶん難病だろうと諦念して、さまざまな人々宛に遺書などを書き、それでも、劇団への戯曲執筆を滞らせることが出来ないので、実家にもどって、ボ-ルペン原紙に直筆で原稿を書いた。近所のあばら家の梅の木に蜜蜂が飛び交っていたのを記憶しているので、春だったと思う。書くとはいえ、10分ばかり書いては、横になり、また起きては書くというありさまだった。微熱があったのか、私は自分を心地よく冷やしてくれる雪が欲しくて、ラストシ-ンを雪にした。書いているさなかも、自分がいったいナニを書いているのかヨクワカラズ、とりあえずこれは女優の稽古用台本ということにしておこうと決めて、四組のキャストで上演してみた。
 上演はしてみたが、何の話なのか私にもワカラズ、意に反してこれが岸田戯曲賞の候補となって、世間に注目されるようになってしまうのだが、当時は、リアリズム演劇の諸派からは、こんなものは演劇ではナイといわれ、反核派からは、反核演劇扱いされ、ある批評家からは、文章が安っぽいと貶されて、当人は、窮していたのだが、意地でも、これが何の話なのかワカルまで上演しようと、15年ばかりやって、要するに実に単純な話であると了解、理解、納得、出来た。
 『寿歌』は、私自身の人生の予言のようなもので、登場人物のキャラクタ-をいってしまえば、ヤスオ(ヤソ)は役立たずの神そのものであり、世界が滅んでから、のこのこと出てくるのだ。とはいえ、そんなヤスオ(神)に、無垢で白痴な魂のキョウコは恋をしてしまうのである。それを知ってか知らずか、ヤスオ(神)はさっさと何処やらかに行ってしまうのだが、ゲサク(これが私の分身らしいのだが)信仰を持つことも出来ず、ただ、芸を売って廃墟をさすらう運命(さだめ)の芸人で、せめてキョウコにはと、ヤスオのアトを追わせるのだが、キョウコは帰ってきてしまう。ゲサクが生き返るのは、復活でもナンデもなく、死んでみせるのも芸のうちということなのだ。そこで、ゲサクはキョウコとともに「ただ、いくしかない」荒野を行くのだが、つまり、なんのことはナイ、観てのとおりのお話である。私の人生そのものを私は、27歳のときにすでに予言して、それを書いたので、何の話なのかワカラナカッタのも無理はナイ。そうして15年して、自らの人生に気づいて、ああ、そうだったのかと、この作品と私自身との関係を了解しえたという、ごくろうさん、の、おつかれさまなのだ。蛍と櫛と雪、このメタファ-がナンであるのかは、また次回。
 
 以上、ご本人のブログ「北村想のネオ・ポピュリズム」・自作解題『寿歌』・1:6659893.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-f7de.html―2011/03/24 ― より)

 
シス・カンパニー 寿歌(ほぎうた)
作 :北村想
演出:千葉哲也
出演:堤真一、戸田恵梨香、橋本じゅん
 3・11「福島原発事故」が起こる前から上演が決定していた、とのこと。


作 :北村 想、
演出:柄本 明
出演:柄本 明、角替 和枝、西本竜樹
 「東京乾電池」が3月、高松、大船渡、盛岡などで、芝居のごとく、「どさ回り」一座として上演する、とのこと。

 それにしても、北村想さんの個人的心身疲労(終末観に冒されていた?)頃の作品が、30年後の現実を照らしていたかのような、と言われてはご本人もこそばゆいのではないか(ご本人は、「核融合炉発電」への夢を捨ててはいないし)。
 よほど「シェルター」の内容の方が、将来、現実的なことになるかと思った「家庭劇」であったので。
 
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