おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

浜離宮庭園(水上バスの旅。その3。)

2014-04-09 19:24:44 | 世間世界
 北側の部分は大きなお花畑。菜の花が咲き乱れていました。

都心でこれだけの菜の花畑があるとは思いませんでした。


サクラも見事。
内堀。


築地川からの船着き場。
三百年の松。都内では最大級の黒松。


庭園の変遷図。

案内板。


築地市場方向を望む。
築地川。
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浜離宮庭園(水上バスの旅。その2。)

2014-04-08 18:48:28 | 世間世界
 浜離宮は手入れの行き届いた庭園の一つです。松をあしらった築山や池。茶店。久々にのんびり春の一日。孫達はどこへ行ったのやら。


潮入の池。東京湾の水が出入り。


 浜離宮恩賜庭園
 潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。
 旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。浜離宮は、この潮入りの池や鴨場を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されます。
 この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。
 以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。
 明治維新ののちは皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物が焼失したり樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20年11月3日、東京都に下賜され、整備のうえ昭和21年4月有料公開されるに至りました。なお、国の文化財保護法に基づき、昭和23年12月には国の名勝及び史跡に、同27年11月には周囲の水面を含め、国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。
                                  (以上、「東京都公園協会」HPより)

中島のお茶屋。
 
                                   鴨場。
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浅草から浜離宮(水上バスの旅。その1。)

2014-04-07 20:40:10 | 隅田川

 春休み。孫達二人に約束していた「水上バス」。春休みに入ったので、さっそく28日に、消費税アップの前には、という事もあって出かけました。水上バスに乗って、浜離宮まで。そこでしばらく遊んで帰りは、電車に乗って。
 吾妻橋の西のたもと・隅田公園入口が乗船場。いっぱいなのかと思ったら、案外スムーズに乗れました。けっこうたくさん待ち人がいましたが、船内はゆったりと座って、出発! 40分ほどの船旅。
 もっとはしゃぐかと思いきや、小学生の孫達、乗ったとたんに「妖怪ウォッチ」攻略本を取り出して見る始末。でも、それが後で役立った! 「浜離宮」、特に遊具はなく小高い丘や池が広がる庭園。妖怪探しだとか言って、二人で駆け上ったり駆け下ったり・・・、楽しそうに遊んでいました。「水上バス」乗船経験はどうなったのだろう?

 こちらは、そういう連中の相手もせずに、いつものように携帯で写真を撮りました。これまで探索してきた風景を隅田川から眺めるのもいいものでした。

スカイツリー。
「三味線堀」から始まる「鳥越川」と「隅田川」との合流点。朱塗りの欄干の橋があざやか。
「日本橋川」河口にある「「豊海(とよみ)橋」。昭和2年関東大震災復興事業の一つとして鉄骨橋になった。橋の形式は、フィーレンデール橋(考案者の名前をとった)。ハシゴを横にしたようなこの橋は、日本では数例しかなく希少価値の高い橋。
霊岸島と佃島を結ぶ「中央大橋」橋脚部にある彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像。
「月島の渡し」築地側。
勝鬨橋を遠くに望む。
船内のようす。お酒でも飲みながらゆっくりという気分になりますが、孫連れではそれも出来ず・・・。

 「浜離宮」に到着。突堤を回り込んで築地川に入ったところに船着き場があります。遠い昔に来て以来。
奥に見える川が「築地川」。
「将軍お上り場」跡。
灯台跡。
樋の口山。

  
 富士見山からの遠望。


1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」)より。上の写真部分。直線の広い部分は「馬場」(現在は立入り禁止区域)。
 現在もほぼこの当時のようすをとどめている。


ほぼ同じ場所の1970(昭和45)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

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新六郷橋と六郷土手・旧東海道(大田区)(六郷橋。その3。)

2014-04-06 15:37:07 | 旧東海道
 神奈川県・川崎市側から東京都・大田区側へ向かう。
大田区側を望む。
大田区側の河川敷。灌木の中に道があり、無線アンテナがある瀟洒な建物も・・・。
大田区側河川敷。グランドやゴルフ練習場などがある開放的な空間。


「六郷橋」の親柱風な三箇所にあるオブジェその1「笹舟」(右岸―川崎側―上流)。
その2「和船」。渡し船をイメージしたものか(右岸下流)。
同。
その3「和船」。(左岸―大田区側―上流)。

「第一京浜」側道。この先に、旧東海道の一部が残っている。
右側の一方通行の道が旧東海道。
案内用の道標が設置されている。
そこから多摩川方向を望む。
しばらく細い道が残されている。蒲田方向を望む。


 この先で旧東海道は「第一京浜」に合流するので、痕跡は不明。ここから「品川宿」までまだまだ続く。


「多摩川」左岸・現大田区側の1880年(明治13)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央が旧東海道。左が鉄道。曲がりくねった土手道がかつての多摩川(六郷川)の流路。現在は、そのすぐ南側の一部が河川敷になっている。


ほぼ同じ場所の1970年(昭和45)頃のようす(「同」より)。左の線路は京急線。曲がりくねった土手道はそのまま道路として残っている。
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旧六郷橋遺構。(六郷橋。その2。)

2014-04-05 18:19:26 | 旧東海道

「六郷橋」川崎側・大師道沿いにある記念碑。

 六郷の渡しは、旧東海道における八幡塚村と川崎宿を結ぶ重要な渡船場であった。「北条記」に武田信玄の侵入を阻止するため六郷橋を焼き落としたとある事から古くから橋はあったと思われるが、慶長5年(1600)家康が築橋し、慶長18年(1613)頃にも架け替えられたとの記録がある。
 その後、貞享5年(1688)の洪水で流失してから橋は架けなくなり、もっぱら渡船が用いられた。明治7年(1874)に地元の鈴木左内が有料の木橋を架け、「左内橋」と呼ばれた。大正14年(1925)先代のコンクリート橋が完成、渡船はこの時をもって消滅した。



 六郷(大)橋は千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。貞享元年に架橋された「六郷橋」は長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m)。
 1874年(明治7年)1月に鈴木左内が私費で六郷の渡しに左内橋を架けた。長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。この橋は1878年(明治11年)9月に洪水で流された。
 左内橋が流された後しばらく橋がない状態が続いたが、地元の人々が六郷架橋組合を作って1883年(明治16年)に有料の橋を架け、六郷橋と名づけた。1885年(明治18年)に破損したものの引き続き使用され、1900年(明治33年)に京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)が買収した。
 1903年(明治36年)には通行料の徴収をやめ、1906年(明治39年)に国に譲渡されたが、1910年(明治43年)に流された。流された橋のかわりに長さ52間 (95m)、幅3間 (5m) の仮橋が架けられた。1913年(大正2年)にこの橋も流され、再建された。この橋の親柱は六郷神社に保存されている。
 1925年(大正14年)8月には長さ446.3m、幅16.4m の六郷橋が架けられた。川の水路部分を1本の橋脚と連結した2つのアーチ(タイドアーチ)で越え、河川敷の部分は連続桁橋であった。片側1車線の車道に加え、両側に歩道があった。



 設計した増田淳は大正11年(1922)から昭和10年頃をピークに活動した天才橋梁設計技術者である。東京帝国大学土木工学科を卒業後、15年間米(ミズーリ州カンザス市)に滞在し、その間約30橋の設計・施工を手がけ、1922年(大正11年)11月帰国して、橋梁の設計・監督を主な業務とするコンサルタント会社を設立した。(会社の活動が確認されている約20年間に設計した橋は約70とされ、その範囲は、東北北海道から九州四国、台湾韓国にまで及んでいる。
 増田淳の設計は力強いタイドアーチのほか多重連形の長大なトラス橋(徳島県吉野川橋(昭和3年)は62メートルのワーレントラスが17径間連続し全長は1000メートルを超える)が有名だが、実際には地盤などの環境条件に合わせ景観にも配慮して様々な設計技術が駆使されている。
多くの橋がなお現役として実在するが、下道や上道から可動橋までその構造は実に多彩だ。
東京に現存する橋としては、隅田川に掛かる千住大橋(昭和2年:昭和48年に隣接して新橋が出来たが旧橋も残された)や白鬚橋(昭和6年全長168メートル、ともにタイドアーチ)が有名。
北海道斜里町の旧国鉄根北線越川橋梁や長浜大橋(愛媛県喜多郡長浜町:バスキュール式鉄鋼開閉橋)は文化遺産として登録され、「美々津橋」(宮崎県日向市美々津町 昭和9年 上路アーチ橋)のように土木学会が推奨土木遺産に認定し、地方自治体が有形文化財に指定しているものもある。
「独立行政法人土木研究所」の配布資料によれば、昭和中期、戦時色が強まり橋梁建設事業が少なくなると、ドック、水門、地下鉄などの設計も手がけていたらしいがその後の活動は不詳。1947年(昭和22年)脳溢血で他界した。享年65歳。

(以上、「制作 web-photographer 上野 隆史  Copyright 2003- All rights reserved.(ueno@tamagawa-kisui.jp)」より)


六郷橋歩道上から西を望む。木の陰から橋門の先端部分が見える。
六郷橋脇(大田区側)の宮本台緑地にある1925年の橋門と親柱。
親柱。
橋門の柱の意匠。大正期のモダニズムがうかがわれる。
橋脇の手すり。
橋門上部。アーチが見事。
公園から多摩川方向を望む。
説明板。ここには、「左内橋」(木造)の写真と1925年架橋の橋の写真がある。

 1984年12月、架け替えのための解体・撤去作業中に橋桁が落下し、死傷者18名を出す事故となった。橋門の柱にはこのときの事故で亡くなった5人の氏名と、作家の森村桂による鎮魂の詩が刻まれたプレートが取り付けられている。


雄々しい五人の男たちへ
 星がひときわ美しくまたたいた翌朝、
 橋造りに命をかけた男たちが、
 星の国へいってしまいました。
 どうか、天国で、
 こんどは、虹の橋を造る仕事をして下さい。
        森 村 桂

金子義男 菊池幸雄 小俣方一男 鈴木司郎 三宅郁夫 (1984・12・14)


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。旧六郷橋。上方、大田区側の河川敷が現在ほど広がり、整備されていないことが見える。

 現在の橋は、1979年(昭和54年)に工事を始め、1997年(平成9年)に完成した。

正岡子規句碑(稲毛神社」内)。「六郷の 橋まで来たり 春の風 子規」。
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大師電気鉄道六郷橋停留所跡。(六郷橋。その1。)

2014-04-04 22:52:58 | 鉄道遺跡

 国道15号・六郷橋への歩行者および自転車用階段と直角に交わる堤防の下辺りにある廃駅跡。
歩道橋脇にある「大師電気鉄道六郷橋停留所跡」という説明板。

 実際に確認できるのは1899年に大師電気鉄道によって開業された六郷橋駅ではなく、京浜電気鉄道になってから1926年に移設された六郷橋駅の跡らしい。戦時中に休止となり、1949年(昭和24年)廃駅となった。

 明治32年(1899)、「京浜急行」前身となる「大師電気鉄道」が「京都電気鉄道」、「名古屋電気鉄道」に続き日本で3番目、東日本では最初の電気鉄道として開通した。

 現在、相対式の2面2線の、ともにほぼ同じ長さのコンクリートでできた短いホームが確認できる。
上り線(市内側)。上はマンション敷地。
下り線(多摩川・堤防側)。
 堤防側の道には高い防護柵があって、線路側に入れないようになっている。防護柵の内側には、非常用の階段や、ホームへ続く小さな階段が取り付けられている。

 堤防の護岸工事などによって、駅周囲にはホームの他は、当時につながる遺構はほとんど確認できない。
ホーム上の四角い痕跡は何だろうか?

下り線を大師方面への電車が通過。 

 京急大師線全区間において地下化する計画があり、当駅周辺は一部ルートの変更を含めた計画となっていて、使用されなくなる可能性がある。
HPより)

 なお、京急大師線は現在の終点・小島新田駅よりも先に延びていたらしい。駅や線路などすでに廃線になっていて痕跡もないらしいが、探索の心がかき立てられる話題です。地下化によって大変化するでしょうから。
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「八丁畷」駅付近の鉄道遺構。

2014-04-02 22:30:58 | 鉄道遺跡

 「芭蕉句碑」の裏手は、京急線。その向こう側にツタや樹木に覆われた煉瓦造りの橋台が残されている。これが廃線となったJR貨物線の遺構。、国鉄南武線(現:JR南武線)の支線としてかつて存在した廃線。
1922(大正11)年頃のようす(「今昔マップ」より)。国鉄・川崎駅から南東に延びる貨物線として早くから運行されていた。


1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。すでに線路は撤去され、造成されている。↓が橋台跡。斜めの線路が京急線。上がJR川崎駅方向。
1998(平成10)年頃のようす(「今昔マップ」より)。○が貨物線跡一帯。

 「川崎宿」を「六郷の渡し」跡からたどりつつ、「八丁畷」(「川崎宿」から出たあとの、かつての旧東海道のたんぼの中の広く土盛りした道)までやってきた、そこでの発見でした。すでに先達がいて、この廃線跡についてはレポートが掲載されています。その資料を参考にし、遅ればせながら廃線跡の現状報告を。 

本線からの分岐点付近。左がJR関係の施設、ここは小さな公園になっている。
線路跡に建つ公共施設。
 この右側(北側)は、「簡易宿泊所」がたくさん建ち並んだ一角。路地には何人かの老人の姿。かつての面影はなさそうだが。
「八丁畷」駅方向を望む。右手が線路跡地。
線路跡地沿いのマンション。
 撤去された線路の跡地は「駐車場」「駐輪場」のスペースになっている。いくぶん小高くなっていて、土盛りした形跡がある。


線路跡の駐車場。
建物の正面奥が橋台跡。左手が「京急線」。
「八丁畷」駅近くの踏切付近から望む「橋台」跡。かつてのレポートと比べると、木々に覆われ、はっきりしないのは、残念。川崎駅方向を望む。
京急線の東側。跡地は駐輪場になっている。
正面奥が京急線。

線路敷地際によく見かける枕木を再利用した柵が数本残っている。

 中途半端な探索に終わってしまいましたが。
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麦の郷。芭蕉句碑。八丁畷。・・・。(旧東海道・川崎宿。その3。)

2014-04-01 23:23:38 | 旧東海道

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。直線の道が「八丁畷」。田畑の中を幅も広い、並木道になっている。下方が「鶴見市場」。集落がある。現在でも、「京急、JR八丁畷」駅の踏切を越えると、幅広い直線道路として残っている。左の直線は鉄道線路。


2010年代のようす。↓の道。

直線道路が続く。京急・JR「八丁畷」駅前。

 江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場のあたり)へいたります。この区間は八丁(約890メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていましたので、この地を八丁畷と呼ぶようになりました。(「八丁畷」由来碑より)

日進町町内会館「麦の郷」。
日進町町内会館「麦の郷由来」。

 京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。
 元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ)向かいました。芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、このあたりまで来ました。そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。
 弟子たちに対して、芭蕉が詠んだ句が
 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。
 芭蕉はこの年の10月大阪で不帰の客となりました。享年51才。
 弟子たちにとって、この場所での別れが、本当の別れになりました。
 弟子たちが詠んだ句は、旧東海道沿い川崎警察署のすぐ近く、ビバース日進町1階「芭蕉ポケツトパーク」で見ることができます。 平成16年(2004年)、日進町町内会館は新しく建て替えられ、その機に、松尾芭蕉の句碑にちなみ会館名を「麦の郷」と名付けました。
 
芭蕉の句碑と川崎宿絵図(江戸時代後期)

 川崎宿は全長約1。5Kmのほぼ中央に宿駅業務をとりしきる問屋場と高札場があり、その上手に佐藤、下手に田中の二つの本陣がありました。旅籠には奈良茶めしで有名であった「万年屋」など72軒がありました。そのほかに、教安寺、一行寺、宗三寺などの寺院、川崎宿の鎮守である山王社(現在の稲毛神社)があり、これらの寺社は現在も同じ位置にありますので、往時の宿場の様子を推察する手がかりとなりましょう。この芭蕉の句碑は上手の棒鼻(宿場入口)付近に文政13年(183O)俳人一種によって建立されたもので、そののち現在の位置に移されました。この棒鼻を出るといわゆる八丁畷の並木道になります。旅人は、富士の雄姿をながめながら次の宿へ足をはやめたことでしょう。

八丁畷駅の手前にある「松尾芭蕉の句碑」。
「麦の別れ」。

 元禄7(1694)年5月11日(現在の六月下旬)に俳人芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国拓植庄へ帰る時江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休息しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は
 麦の穂をたよりにつかむ別れかな
と返歌し弟子達の親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり街道の両側は一面の田畑でした。このあたリによしず張りの掛茶屋ができ酒や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年の十月大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなりました。

「芭蕉の句碑」。

 俳聖松尾芭蕉は、元禄7年(1694)5月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、 門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
  麦の穂をたよりにつかむ別れかな 
の句にたくしました。
 芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の十月、大阪で、
 旅に病んで夢は枯野をかけめくるという辞世の句をのこし、五十一歳の生涯をとじました。
 それから百三十余年後の文政13年(1830)8月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。



「八丁畷」駅。
高架線沿いの細い路地風の飲食街。

「八丁畷の由来と人骨」説明板。

・・・
 八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代ごろの特徴を備えた人骨であることが判明しました。
 江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
 不幸にして落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。

慰霊塔。

「旧東海道・川崎宿史跡案内図」。
拡大図。
 これによると、この「八丁畷」は松28本、杉249本、榎7本の並木があり、現在の「下並木」という地名の由来になっている、とのこと。
 
 川崎市では、川崎宿が出来て400年目に当たる2023年に向けて、川崎宿の歴史を活かしたまちづくりを進めているようです。
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