おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

さいたま副都心駅から馬室原一里塚まで。その3。(旧中山道をゆく。第3日目。)

2016-01-07 21:26:41 | 旧中山道
 「上尾宿」から次の「桶川宿」へ向かいます。「北上尾」駅を過ぎると、右手に木々に囲まれた大きなお屋敷が見えてきます。「武州紅花仲買問屋」であった須田家。鬱蒼とした屋敷林の中に垣間見る白壁の土蔵が見えます。

「久保西」交差点から。豪壮なお屋敷。

左右の道路の名称も「べにばな通り」「BS通り」。
                           左には「ブリヂストンサイクル」の工場、右には「須田倉庫」。


ベニバナ(紅花、学名:Carthamus tinctorius)

 キク科ベニバナ属の一年草または越年草。雅称を末摘花(すえつむはな)余計な注:「源氏物語」に異様な赤鼻の女性を主人公にした「末摘花」という挿話がある)ともいう。紅色染料や食用油の原料として栽培される。
 エジプト原産といわれ、古くから世界各地で栽培されている。日本にはシルクロードを経て4 - 5世紀ごろに渡来したといわれている(6世紀伝来説もあり)。古くは和名を「くれのあい(呉藍)」といい、中国伝来の染料との意味[1]。
 高さは1m。花期は6 - 7月で、枝先に頭状花をつける。花は、はじめ鮮やかな黄色で、徐々に赤くなる。
 日本では、平安時代に千葉県長南町で盛んに栽培され、江戸時代中期以降は現在の山形県最上地方や埼玉県桶川市、上尾市周辺で盛んに栽培された。しかし、明治時代以降、中国産の紅花が盛んに輸入され次いで化学的に合成可能なアニリン染料が普及したことから、こうした紅花生産は急速に衰退した。現在では紅花染めや観光用などにわずかに栽培されている。
 山形県ではベニバナが県花になっており、同県河北町には、「紅花資料館」がある。また、千葉県長南町も紅花を町花に指定し、月1回の紅花染め教室を開催している。
 紅花の花を摘んでから発酵・乾燥させたものが、紅色の染料や着色料(食品添加物、化粧品の口紅)の材料となる。
 ベニバナの花の色は黄色である。紅色にするには花を摘んですぐに水にさらして乾燥させる。これを何度も繰り返すと紅色になる。ベニバナの花の色素は水に溶けやすい黄色の色素サフロールイエロー99%と水に溶けにくい紅色の色素カルタミン1%が混在しており、水にさらすことによって分離するのである。
 紅花染めは、水にさらして乾燥させた花を水に含ませて餅つきと同じ方法で杵でついた後、丸餅の形にして乾燥させた状態の紅餅(べにもち)を灰汁の中に入れてかき混ぜた状態にしたのち、衣類を漬け込み(一次染め)水にさらす(灰汁はアルカリ性の液なので苦く、色もオレンジ色に仕上がる)。次に、紅餅入りの灰汁に烏梅(注:未熟な梅の果実を、薫製にしたもの)を少量加えたものに漬け込み(二次染め)水にさらす(烏梅はクエン酸の多い酸性の液体なので酸っぱく、色も赤みが加わってくる)。さらに、烏梅を少しずつ加えて配合を変えながら何度も染め上げて水にさらし乾燥させると完成する。このような手間をかけるのは、色が中に染み込みにくい特性を持つからである。

    (桶川市内)。

(以上「Wikipedia」参照)

 その先で、「桶川市」に入りますが、その手前、右手になにやら細く高い木が。てっぺんまで刈り取ってあるような、しかし、どうやって? 何という名前の木でしょう。

           

すっかり道路も拡幅・整備され、かつての農村地帯らしい雰囲気はありません。道ばたのこういう棚も初めて見つけました。
   
                                    右の「雷鮨」は、「雷電神社」にあやかったものか。

いよいよ「桶川市」に。右手前に祠。

「中山道」という表示も新品に。

街道筋らしいおうち。

「桶川宿」に入ると道幅も旧道のように狭くなってきます。「旧跡 木戸址」。「下の木戸址 江戸方の宿場の出入り口」にあたり、朝夕定時に開閉されました。

    
                                            来た道を振り返って望む。

左手に「武村旅館」。

 江戸末期創業の旅籠で、現在はビジネス旅館として営業中。当時の間取りをほぼ引き継いでおり、国の登録有形文化財に登録されています。

    
国登録有形文化財 武村旅館
 桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅籠が数多くありました。その数は江戸末期の天保年間(1840年ころ)には36軒を数えたといいます。
 この武村旅館は宿場町当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物です。・・・

その斜め前にも古い商家。「べに花まんじゅう べにっこ」。

こちらは古い「中山道 桶川宿」という道標。

 ここで「桶川宿」の概要を「Wikipedia」を参照して。

桶川宿(おけがわ-しゅく)

 中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて6番目の宿場。
「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛したとするもの。 他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。
 日本橋から距離にして10里14町(約40.8km)と、ちょうどそれは江戸を出立した旅人が1日で歩く道程とおおよそ等しく、江戸方に一つ手前の上尾宿(9里16町、約37.1km)とともに、宿場町として絶好の位置にあった。(ちなみにこの距離はフルマラソンの距離とほぼ同じ)。
 桶川宿は寛永12年(1635年)に設置された。 当初わずか58軒に過ぎなかった宿内家数は、「中山道もの」といわれた紅花等の染料や食用農作物の集散地となっていた天保14年(1843年)頃には347軒に達し、経済的にも文化的にも繁栄を見せている。
 天保14年の記録によると当時の桶川宿の規模は、宿内人口1,444人、町並み9町半(約1.0km)、宿内家数347軒であった。 本陣は1軒、脇本陣は2軒。府川家が世襲した敷地面積1,000坪余、建坪200坪に及ぶ本陣は、当時の建物の一部が個人宅として現存している。 旅籠は36軒あり、「武村旅館」はその中の一軒であった。
 加賀前田家を始めとする参勤交代の大名の多くが、桶川宿の府川本陣を定宿としていた。 水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が足跡を残していることも知られている。また、文久元年11月13日(西暦1861年1月2日)には、皇女・和宮(親子内親王)が公武合体政策の一環で徳川将軍・家茂の御台所として降嫁すべく江戸へ下向の際、宿泊している。
 桶川宿は近隣の村々で生産された農作物の集散地でもあった。 大麦や甘藷(かんしょ。さつまいも)など食用農作物のほか、「武州藍(ぶしゅう-あい)」と呼ばれた染料の藍、「桶川臙脂(おけがわ-えんじ)」と呼ばれた紅花なども取引された。
なかでも紅花は桶川宿を中心とした桶川郷一帯で盛んに栽培され、最上紅花に次いで全国第2位の生産量を誇っていた。
出羽国最上郡・村山地方に比べて気候温暖な桶川周辺の紅花は早く収穫できたため、紅花商人たちからは「早場もの」として喜ばれた。当時の取引価格は、田1反あたりの米収穫量およそ2両に対し、紅花は倍の4両で取引され、幕末には最上紅花を上回る相場で取引されていて、桶川は紅花がもたらす富によって大いに潤った。
 しかし、明治維新後は化学的合成染料の導入などから衰退し、消滅した。
 現在、桶川市では発展をもたらした紅花を蘇らせ、街づくりのシンボルとする「べに花の郷づくり事業」を展開している。

                      
             『岐阻街道 桶川宿 曠原之景』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 簡素な家の庭先で麦の穂をこぐ農婦に、旅人が氷川天満神社(加納天神)への道を尋ねている。桶川宿の北に広がる湿潤な昿原(こうげん)に暮らす庶民を描いた一図である。
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さいたま副都心駅から馬室原一里塚まで。その4。(旧中山道をゆく。第3日目。)

2016-01-06 20:05:39 | 旧中山道

 街道筋に古い土蔵、家屋が残っている「桶川宿」です。

    
                    国登録有形文化財 島村家住宅
 桁行6間、梁間3間の木造3階建ての土蔵で、江戸時代後期の天保7年(1836)の建築と伝えられています。島村家は中山道桶川宿の本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家で、土蔵の屋根の両端にある鬼瓦には当時の屋号の一時を取った「木」の字が刻まれています。
 また、この土蔵の建築工事は、天保の飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くに人が救われたことから、「お助け蔵」と呼ばれたとの伝承も残されています。
 現在は、黒漆喰壁がトタンで覆われていますが、建築当時の島村家(木嶋屋)の勢いを感じさせる堂々とした土蔵です。

 平成14年9月  桶川市教育委員会

「御茶處」。
 「島村茶舗」は嘉永7年(1854)創業、現在も営業中のお店。

     
                     矢部家住宅店蔵

 現存する建物の中で最古のものは中山道から最も奥に位置する土蔵造りの文庫蔵で、棟札から明治17年の建立であることがわかります。この土蔵は、屋根の鬼瓦の上から鋳鉄製の棘状の棟飾りが出ているのが特徴です。これは「烏」または「烏おどし」とも呼ばれ、鳥よけと言われています。
 中山道に面した土蔵造りの店蔵は、矢部家第六代当主の五三郎氏(安政4年~大正9年)が明治38年に建立しました。桁行5間、梁間3間、黒漆喰塗りの重厚な構えで、棟札には川越の「亀屋」建築などに係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶が名を連ねています。
 桶川宿で現存する土蔵造りの店蔵はこの矢部家一軒のみとなりましたが、往時の桶川宿の繁栄と賑わいをしのぶことのできる貴重な建造物のひとつです。

    
                     国登録有形文化財 小林家住宅主屋
 小林家住宅主屋は、江戸時代末期頃に旅籠(宿屋)として建てられました。発見された棟札から、「子三月吉日」に建てたことがわかります。この「子」の年がいつかは不明ですが、文政11年(1828)、天保11年(1840)、嘉永5年(1852)のいずれかの「子」の年と考えられています。
 その後の当主となった小林家は材木商を営み、それに伴い大きく改修されましたが、外環は当時の姿をとどめています。旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、2階は中藤か敷きになっており、旅籠当時の部屋割りの名残と思われます。
 構造の要となっているのは、2間半(1間=約1.8m)の幅で2本建てられた大黒柱です。屋根を支える小屋組は和小屋構造といわれる伝統的なもので、太く丈夫な部材を使用しています。建物正面の2階には6間にわたって出窓を出し、格子戸をはめこんでいます。宿場町当時の旅籠のたたずまいを今に伝える貴重な建築物です。

 平成25年3月  桶川市教育委員会

重厚な土蔵造り。

 その先の右手に「桶川宿本陣」。

    

県指定文化財 桶川宿本陣遺構

 桶川宿府川家本陣は、埼玉県内の中山道筋では、唯一現存する本陣です。
 本陣は、公家や大名、幕府の役人などが宿泊・休憩するため江戸時代に設置された宿です。一般の旅籠と違い、門と式台のある玄関の設置および畳が一段高くなった「上段の間」を持つことが、格式として認められていました。
 また、宿場の政治の中心的機能も担い、その補佐役として脇本陣が置かれていました。
 本陣の宿泊は身分の高さによって勅使・院使・宮門跡・公家・大名・旗本などの優先順位があり、宿泊客が多い場合には脇本陣がかわりに使われました。
 桶川宿に本陣が置かれたのは、寛永年間の上半期と伝えられています。本陣職は代々甚右衛門を襲名した府川家が勤め、問屋名主役として宿場の運営にもあたっていました。脇本陣は内田家と武笠家がそれぞれ勤めました。府川家は、本陣職のほかに問屋名主役(町村長)、代官補佐や寄場組合大総代(地域警察署長・簡易裁判官)を代々勤めました。桶川宿本陣は、江戸時代を通して町村自治の役所になっていました。
 桶川宿本陣は宿内の大火による被害をたびたび受けてきましたが、絵図面などから、寛政12年(1800)当時の建物の広さは199坪、さらに天保14年(1843)には207坪に拡大されていることが分かっています。
 現存する本陣は、かつての座敷構えの一部にあたり、「上段の間」・「入側」・「次の間」と、それに付帯する「御湯殿」・「御用所」からなります。「上段の間」は8畳で、正面の右に床・左に違い棚がもうけられています。「入側」は上段の間をL字型にとりまいた畳敷き13畳で、外側にはすべて障子引き違いで雨戸がもうけられています。「次の間」は14畳の一室になっています。「御湯殿」・「御用所」は、文久元年(1861)の和宮親子内親王(皇女和宮)下向のときに改築されました。
 当本陣は、天保14年(1843)尾張・紀州・水戸の御三家の日光参拝や文久元年11月13日の皇女和宮の宿泊のほか、明治11年(1878)の明治天皇御巡幸の際の「行在所」となりました。

   平成27年3月  桶川市教育委員会

 (13:40)「中山道宿場館」のすぐ先に「ポケットパーク」。
 石柱があり、正面に「中山道 桶川宿」、左面に「左 上尾宿 三十四町」、右面に「右 鴻巣宿 一里三十町」と刻まれています。「桶川宿絵図」と「桶川宿はこんなところ」という説明板があります。ここで、小休止。
                  
  
「桶川宿はこんなところ」。


●どこに
 桶川宿は、日本橋から10里余り、江戸から6番目の宿として開かれました。この距離は、現代のフルマラソンの距離とほぼ同じで、健脚であった江戸時代の人々のほぼ1日の行程にあたります。

●街の生い立ち
 中山道は、徳川家康が天正18年(1590)に江戸に本拠を置いた後、五街道の一つとして整備が進められました。やがて、関ケ原の合戦を経て、江戸幕府による全国支配の確立の中で街道と伝馬制度が整えられ、三代将軍家光によって参勤交代の制度が確立した寛永12年(1635)ころには、ここ桶川宿もすでに成立していたと考えられます。
 宿場の開設当初に近い寛永14年に58軒であった宿場の戸数は、紅花が取り引きされるようになった寛政12年(1800)には247軒に達し、桶川宿も「町」としての姿を示すようになったようです。
 その後、桶川宿は、「中山道もの」といわれた麦や、紅花の集散地として栄え、幕末に近い天保年間(1840年ころ)には、家数347軒に達しています。中山道桶川宿は、明治に至り、明治18年(1885)の高崎線桶川駅の開業とともに、宿場としての役割を終えますが、以降、近代をとおして、埼玉県中央部における麦の集散地として、その繁栄は続きます。

●出来事 ―皇女和宮のお泊り―
 桶川宿は、加賀百万石前田家をはじめとする参勤交代の大名を迎え、15代将軍徳川慶喜の父君である水戸烈公徳川斉昭もこの地に足跡を残しています。
 文久元年(1861)には、近世中山道の最後を飾る大通行として知られる皇女和宮の江戸下向のときに、ここ桶川宿は、―行の宿泊と人馬の継ぎ立てに大きな役割をはたしています。11月13日、和宮を迎える桶川宿には、3万人を超える人々が行列の通行のために集められたと記録されています。

●中山道67次
 東海道をはじめとする五街道の一つとして、江戸幕府によってその道筋が整えられた中山道。その道程は、近江国(滋賀県)草津宿で東海道から分かれ、守山宿から板橋宿までの67次の宿場を経て、江戸日本橋に至ります。また京までの草津宿と大津宿を加え木曽街道69次とも呼びならわされてもいました。
 山岳地帯を通るこの道は、和田峠、碓氷峠などの難所をもちます。しかし、夏には涼しく、大きな川を渡ることもなかったため、多くの旅人に利用されました。

●中山道データ
 草津宿~日本橋の距離/129里8町(約507Km)
 桶川宿~日本橋の距離/10里14町(約41Km)

 中山道・桶川宿は旧東海道では「戸塚宿」に相当しそうです。「戸塚宿」江戸・日本橋から10里半(約42㎞)で、「桶川宿」と同じように宿場町として繁盛していました。
 しかし、「戸塚宿」。天保14年(1843)の記録で「人口2,906人、家数613軒、旅籠75軒、本陣2軒」となっています。規模の上では「桶川宿」は、「戸塚宿」より小規模のようです。

トイレの前に顕彰碑。
    
       「滋味 みちよ」。

 平成25年度協働推進提案事業の一環として、桶川地域文化研究会と協力して、豊橋市にあった顕彰碑を桶川市の中山道のポケットパーク脇に移設いたしました。
この顕彰碑は、辻村博士の姪・中野韶子(よしこ)様が、伯母である博士を深く敬愛して、博士の「生涯を懸けた仕事」が忘れ去られぬ事を願い、博士が教鞭をとったお茶の水女子大学、実践女子大学の教え子たちと諮り豊橋市のご自宅内に建立されたもので、石碑正面の「滋味」は博士が豊橋市の中野家を訪れた際に式紙へ揮毫されたため、中野韶子様はこの石碑を「式紙塚顕彰碑」と名付けました。
 移設にあたって、ご親族をはじめ関係者が集まり、除幕式を行いました。(平成25 年11 月30 日・寿1丁目地内)
 今後は、多くの市民の方に辻村みちよ博士について、知っていただけるよう、学校、観光協会のほか、観光ボランテイア、桶川地域文化研究会など市民の皆さんの協力のもと、辻村博士の情報を発信していきます。(以上、「桶川市」広報より)

 辻村 みちよ(つじむら みちよ、1888年9月17日 - 1969年6月1日)さんは、日本の農学者で、日本初の女性農学博士となった。茶カテキンを初めて分離するなど、緑茶の化学成分に関する研究で知られ、女性科学者のパイオニア的存在。


 「女郎買い地蔵」で有名な「大雲寺」を左手に見て、進むと歩道橋にくくりつけられた「一里塚」跡解説板。

 桶川の宿に飯盛女(めしもりおんな)が大勢いて、女色に溺れる男たちを飯盛旅籠に引き入れていた。そのような町で、土地のお地蔵さまが女を買いに出掛けているらしいとの噂が立った。 それを耳にした寺の住職は困り果てたが一計を案じ、件(くだん)の地蔵の背に鎹(かすがい)を打ち付け、鎖で縛って動けなくしてしまったとのことである。さても不思議な話ではあるが、実のところは、一人の飯盛女に熱を上げ、通い詰めた若い僧にまつわる小さな事件の顛末(てんまつ)であったらしい。坊主頭を布で隠して人目を忍ぶ様子のこの若者を怪しんでいたある人が、その後をつけてみたところ、最後に大雲寺の中へ帰っていったというのである。このことを知らされた住職は、必ず見つけ出して仕置きすると約束をした。すると、次の日になって、鎹と鎖で動きを封じられたお地蔵さまが立っていたのである。 住職は煩悩多き若い僧に、その罪を地蔵菩薩に被っていただくゆえ、以後は心を入れ替えて精進するよう諭し、一件を落着させたのに違いない。地蔵の背には、今も鎹が残っている。
                                           (以上、「Wikipedia」参照)

「中山道桶川宿 一里塚跡」。

 一里塚は江戸日本橋を起点として、1里(約4㎞)ごとに塚を築き、旅の道しるべとしたものです。
 桶川宿の一里塚は、この付近の中山道の両側にあり、塚の上には杉が植えられ、その根元には石の妙見菩薩が祀られていました。
 この一里塚は明治9年(1876年)に取り壊されました。

 平成21年12月  桶川市教育委員会

 江戸・日本橋から10里目。

    
「旧跡 木戸址」。「上の木戸址 京方の宿場の出入り口」にあたり、朝夕定時に開閉されました。                    
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さいたま副都心駅から馬室原一里塚まで。その5。(旧中山道をゆく。第3日目)

2016-01-05 21:56:20 | 旧中山道

(14:10)「桶川宿」を出て次の「鴻巣宿」へ向かいます。

交通量も多く、広いまっすぐな道をひたすら歩きます。

途中見かけたお店。昔ながらの建物を利用したものか? 

(14:20) 「北本市」に入ります。
「さいたま市」がかなりの広域なのに比べ、「上尾」「桶川」「北本」と、こじんまりとした市が続きます。

広く整備された直線道路。振り返って望む。
                           「東海道」なら「畷(縄手)」でしょうか。かつては杉並木だった?

 最近、開通した「圏央道」を通過します。まだ工事中の箇所も。
    

沿道にユニークなお店。南国風の建物。

こちらは大きなお屋敷。

ちらほら果樹園も。

こちらは豪壮な建物で「売り家」の表示。

(14:50)「本宿」交差点の先に「北本の歴史」の解説板。

    
                    「中山道と本宿」
 今日の北本のもととなる街並みがつくられたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村と呼ばれ、これが北本の地名の起こりともなっています。街道沿いに旅館や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の二ヶ所には立場がおかれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました。

この古木もいずれ伐採される運命か? 

(15:00) JR「北本」駅前のベンチで小休止。「馬室原(まむろはら)一里塚」は、線路をはさんだ西側にあります。そこに向かいます。

 

踏切を渡り、右に曲がって線路沿いに進むと、左手に案内表示。

(15:18)畑の中にある小高い塚。

 埼玉県指定史跡 一里塚
 徳川幕府は参勤交代を契機として、街道の整備、宿駅の制、伝馬の制を定めた。一里塚は、街道整備のひとつで、主な街道に設けられた距離の目印である。
 江戸の日本橋を起点として、1里(約4キロメートル)ごとに道の両側に5間(約10㍍)四方の塚を築き、その頂上に榎や松などが植えられた。中山道の一里塚は、慶長17年(1612)に築かれた。
 この一里塚は、当時の中山道を挟み両側に築かれた一対のうち西側のもので、旧中山道の道筋が分かる貴重な資料である。なお、東側の塚は明治16年(1883)の高崎線敷設の際に取り壊された。
 明治維新以降交通手段の変化と発達に伴い、一里塚のほとんどが取り壊されて現存する例は少ない。

 平成24年2月  埼玉県教育委員会 鴻巣市教育委員会 

           
                            「埼玉縣北足立郡馬室村大字原馬室」

塚の上からJR線を望む。

帰り道、北側を望む。

 この一里塚があったころの「中山道」は、この道よりももう少し西側(左側)にあったようです。しかし、その道は廃道になったのか、現在は不明となっていて、今、「旧中山道」として歩く道は線路の東側になっています。

踏切付近から「北本」駅方向を望む。
                駅前広場に通じる、正面の道がかつての「中山道」?

(15:40)今回はここまで。北本駅まで戻り、帰宅。ふと、駅そば屋さんを見ると、「中山道」。そこでお蕎麦を食べました。
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