おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小田急線「町田駅」~東急田園都市線「長津田駅」。その7。つくし野駅。JR横浜線。大きな車両基地。横浜市入り。長津田駅。こどもの国線。(「都県境を探ってみる」。第14回目)

2023-03-15 20:38:08 | 都県境を探ってみる

いったん国道246号の東南に進んだ都県境が再び西側に移ります。

「横浜みどりの森(墓園)」の西をかすめるように進みます。

※路上のマンホールは、町田市。

住宅街を歩くことに。

        町田市内。都県境からは西に外れてしまいます。

左の森が都県境。

         

テニスクラブの素敵な建物。

                  

さらに、都県境は、「森村学園」の西側を進みます。生徒がたくさん下校中。

東急田園都市線「つくし野駅」。

右手奥が都県境。

       

この付近で、線路を越えて都県境が来ます。

都県境を進むと、JR横浜線に突き当たり、さらに、東急長津田検車区へ。

                

横浜線の踏切を通り、跨線橋で向こう側に。

横浜線。正面が東急田園都市線。

大きな車両基地。

                 右手、中央付近を都県境(町田市と横浜市)が通っています。

             

長津田駅方向へ。横浜市のマンホール。

この付近が都県境?

すでに横浜市内に。

                      横浜ナンバーの車。

横浜市のマンホール。

           ベイブリッジがモチーフ。ローマ字で「OSUI」と刻まれている。

車両基地を望む。

                都県境は、左手の森付近から車両基地を横切り、右手へ。

「こどもの国線」。

1959年昭和34年)に、当時の皇太子明仁親王結婚を記念して旧日本軍田奈弾薬庫跡地の丘陵に1965年(昭和40年)に開園した「こどもの国」へのアクセス路線として、1967年(昭和42年)4月28日に開業した。

当時の国鉄長津田駅から田奈弾薬庫への専用線を利用している。

こどもの国駅からは現在の緑山スタジオ・シティ、三輪緑山付近を経て小田急小田原線鶴川駅までの延伸案や、同線玉川学園前駅への延伸案があった。

開業初期には大井町駅からの直通臨時快速列車や小学生の遠足などの団体列車の運行もあった。

1986年頃から沿線の大規模な宅地化が進み、沿線人口の増加によって通勤需要が高まり、公益法人としての目的から逸脱するため、こどもの国協会は1997年(平成9年)8月1日付で第三種鉄道事業を第三セクター横浜高速鉄道に譲渡した。

さらに行き違い可能な恩田駅を新設し、2000年(平成12年)3月29日から全時間帯運行し沿線住民の通勤需要も担う通常の鉄道路線として営業を開始した。

新設された恩田駅付近には長津田車両工場があり、東急電鉄と横浜高速鉄道に所属する全車両の整備と、地方に譲渡される車両の改造などを行っている。

(この項「Wikipedia」参照)

長津田駅(東急田園都市線。)

                                                                          

今回は、ここまで。都県境が入り組んでいて、二駅間を歩きました。次回以降も、町田・横浜・川崎の都県境を行き来することに。

東急田園都市線で帰途につきました。

 

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小田急線「町田駅」~東急田園都市線「長津田駅」。その6。東名・横浜町田IC。国道246号。東工大。旧大山街道(馬の背)・青山通り。(「都県境を探ってみる」。第14回目)

2023-03-14 21:10:23 | 都県境を探ってみる

この付近の今昔。

                       2010年代のようす。鋭角に折れる都県境。

                     1880年代のようす。当時から鋭角に折れている。

「横浜町田IC」付近の込み入った道を避けて、迂回し、インターの北側に。

東名の向こう側のラブホテル街。

東名を走っているとき、短い距離で「神奈川県から東京都」、「東京都から神奈川県」と標示されるところです。

料金所へ向かう道路に沿って、回り込みます。

「横浜町田料金所」。

その手前で、都県境の道に復帰。左が町田市、右が横浜市。

振り返る。この付近もホテルが建ち並ぶ。

横浜市のマンホール。

「町田市辻」交差点。

ここは、「八王子絹の道」歩きで通過しました。奥から来て、東名入口交差点から南に向かいました。

今回は、右折して「国道246号」を進みます。

左側に「道祖神」。

                

「渋谷(まで)29㎞ 長津田(まで)3㎞」。

「すずかけ台駅 この先70 ㍍」。

左手に東急田園都市線が近づき、眼下が開けてきます。

国道246号の反対側は、「東京工業大学(東工大)キャンパスの大きな森。

「神奈川県横浜市緑区」。

振り向くと、

左手には、馬の親子像。

                   「南つくし野こうま公園」(町田市)

東工大キャンパス通用口。

都県境は、左に曲がり、すずかけ台駅方向に。

「すずかけ台駅」。

        

すぐ「国道246号」に復帰します。

                     「三宅坂まで32㎞」。

「東工大入口」交差点。

すぐまた左の坂を上っていきます。

                  眼下が大きく開けてきます。「旧大山街道(馬の背)」。

遠くに「大山」が見えます。

「矢倉沢往還」=「大山街道」

江戸時代中期以降になると大山が盛んになり、宿駅などが整備されていた矢倉沢往還が江戸からの参詣道として盛んに利用されたことから、「大山街道」(おおやまかいどう)、「大山道(青山通り大山道)」(おおやまみち)とも呼ばれるようになった。

矢倉沢往還の街道は、律令時代より東海道の本道にあたり、鎌倉時代に湯坂道(箱根峠)が開かれるまで官道として機能していた。江戸時代に入って大山講が盛んになる享保年間から、江戸から大山へ、あるいは足柄から大山への道としても機能する。急峻な箱根峠に対して足柄峠は緩やかであり、また、江戸-沼津間の短絡路であったために、東海道の脇往還としても発達した。神奈川県内の区間は大正時代になると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として機能している。

(この項、「Wikipedia」参照)

             

「旧大山街道」。

         左が町田市、右が横浜市。

国道246号(「青山通り」)に下りていきます。

              都県境は、通りを越えて進む。

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読書「イン・レイト・スタイル(In Late Style) 晩年様式集」(大江健三郎)講談社。2013年10月24日第1刷発行。

2023-03-13 20:55:57 | 読書無限

大江健三郎さんが亡くなりました。

いろいろな作品(様々なジャンルの)を読みましたが、8年前に発刊された「イン・レイト・スタイル 晩年様式集」の読書感想を掲載しました。再掲し、哀悼の意を。

 4年前の3月11日。「東日本大震災」。

 このあいだ岩手に行きましたが、復興の話は随所に出てきても(悩みや不安や期待や・・・)、原発の話はなし。
 こちらも、復興への励ましはあっても、福島原発の、今も悲惨で、しかし忘れ去れてしまいそうな(ここでも「復興」という大義名分によって)現状について、言い出し得ませんでした。

 そして、確実に原発の再起動は迫ってきています。またしても、災禍を乗り越えて、日本の「輝かしい」再建が「着実な」歩みとなっていく、と多くの国民を信じさせながら。

 多くの被害者や科学者や政治家や哲学者や文学者が、そして市井の人々が語ってきた「福島原発事故」。さまざまな立場での発言。それらが(賛否いずれもが)、アベ自公政権の強引な再稼働方針とその実施に対する強固な姿勢(4年前の出来事をすっかり忘れさった)に、すっかり(遅れた)過去の言説にでもなってしまったかのような、今の日本の、暗澹たる文化状況、言論状況。
 
・・・

 気がついてみると、
 私はまさに老年の窮境にあり、
 気難しく孤立している。
 否定の感情こそが親しい。
 自分の世紀が積みあげた、
 世界破壊の装置についてなら、
 否定して不思議はないが、
 その解体への 大方の試みにも、
 疑いを抱いている。
 自分の想像力の仕事など、なにほどだったか、と
 グラグラする地面にうずくまっている。

 しめくくりに記された「詩のごときもの」の冒頭の一節。

 福島原発事故のカタストロフィーに追い詰められる思いで書き続ける主人公・長江。

 大江さんの分身ともいえる長江古義人が主人公のシリーズ。

 「晩年の様式を生きるなかで」書き表す文章となるので、“In Late Style”それもゆっくり方針を立てではないから、幾つもスタイルの間を動いてのものになるだろう。そこで、「晩年様式集」として、ルビをふることにした。

 私=長江は、執筆途中だった長篇小説に「3・11後」興味を失い、揺れに崩壊した書庫を整頓しながら、以前購入した「丸善のダックノート」に、思い立つことを書き始める。
 一方、四国の森の中に住んできた老年の妹が、自分と2人(妻・千樫と娘・真木)、そして何よりも息子・アカリが、長江(大江)に一面的な書き方で小説に描かれてきたことに不満を抱いている。こうして、3人の女は、あなたの小説への反論を書いたので、読んでもらいたいという。それらを合わせることで私家版の雑誌「晩年様式集+α」をつくるという設定で、話が進んでいく。
 妹、妻、娘という3人の厳しい批判が、そして、アカリのつぶやく言葉が、長江に突きつけられる。「家庭を基盤にして、個人的なことから社会的な事まで小説にしてきた。・・・モデルにされた家族からいえば、兄の小説はウソだらけだ」・・・。
 さらに、ギー兄さんの子供、ギー・ジュニアや塙吾良(義兄の伊丹十三)の愛人であったシマ浦なども登場し、かつて「小説(フィクション)」のモデルとして扱われた当事者達によって、「事実」が明かされる手法をとっている。

 「イン・レイト・スタイル 晩年様式集」は、大江の今までの作品の一つ一つを「解題」しているようなものにも感じられる。「懐かしい年への手紙」、「空の怪物アグイー」、「個人的な体験」、「万延元年のフットボール」、「人生の親戚」、「新しい人よ眼ざめよ」、「『雨の木』を聴く女たち」、「M/Tと森のフシギの物語」、等々。特に、息子の「アカリ」との関わりでしばしば登場する「アグイー」の存在。
 また、伊丹十三の自死にまつわる『取り替え子(チェンジリング)』、父の死にまつわる『水死』など、当事者からの異議申し立てを含みながら、謎解きをしていく。特にアカリとの関わり。

 そうした展開の中で、その根底にあるのは、3・11後の出来事。

 福島原発から拡がった放射性物質による汚染の現状を追う、テレビ特集を深夜まで見終わった後、2階へ上がっていく途中の踊り場で、長江は子供の時分に魯迅の短編の翻訳で覚えた「ウーウー声をあげて泣く」ことになる。

 ・・・この放射性物質に汚染された地面を人はもとに戻すことができない。(中略)それをわれわれの同時代の人間はやってしまった。われわれの生きている間に恢復させることはできない・・・この思いに圧倒されて、私は、衰えた泣き声をあげていたのだ。

(息子のアカリは父に向かって)

 モノマネの語り口はとめないままで。
――大丈夫ですよ、大丈夫ですよ! 夢だから、夢を見ているんですから! なんにも、ぜんぜん、恐くありません! 夢ですから! 

 「反原発」運動に積極的に関わりながらの執筆(3人+αとのやりとり)は、長江をとりまく大勢の生きる者、死んだ者達。そして、真木や千樫とりわけアカリとの関係の再構成を目論むやりとりでもあった。

 《「すべての国民は、個人として尊重される」という第13条に、自分の生き方を教えられた気持でした。あれから66年、それを原理として生きてきた、と思います。もう残された日々は短いのですが、次の世代が生き延びうる世界を残す、そのことを倫理的根拠としてやっていくつもりです。それを自覚し直すために、「原発ゼロ」へのデモに加わります。しっかり歩きましょう! 》

 誰かれから、『形見の歌』からの詩が「3・11後」の詩ではないことを知って驚く、といわれるのを聞いた。私自身、詩の中の私の70年という言葉通り70歳の自分から80歳の定点に向かう私への〈端的に、さらに苛酷となる「3・11後」に生き残っている自分への、ということだ〉手紙だったのかもしれない、。と感じる。しかしそれとしての言葉の勢いに、千樫はともかく希望が感じられるといったのだ。
 書き写して、終刊号の付録とする。

・・・

 否定性の確立とは、
 なまなかの希望に対してはもとより、
 いかなる絶望にも
 同調せぬことだ・・・
 ここにいる一歳の 無垢なるものは、
 すべてにおいて 新しく、
 盛んに
 手探りしている。

 私のなかで、
 母親の言葉が、
 はじめて 謎でなくなる。
 小さなものらに、老人は答えたい、
 私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。

 この小説の執筆時点(現在)は、福島原発事故直後からの約2年間。大震災、大事故からすでに今年で4年が経過した。この作品が世に出てからも1年半が経とうとしている。
 大江さんがこの小説の中で、憂いたこと、嘆いたこと、確信したこと、期待したこと、・・・それらは、その後の4年間、いな2年間経ち、今、どうなっているだろうか? 

・・・

 「私」から「私ら」へ。

 少なくともまだ大江さんよりも若い「私ら」(といっても、途方もなく長く残された年月ではないが)は、「生き直すことができる」だろうか? 自問自答しつつも、生きながらえなければならない。

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小田急線「町田駅」~東急田園都市線「長津田駅」。その5。横浜市瀬谷区。五貫目道祖神・左義長。東名高速道路。(「都県境を探ってみる」。第14回目)

2023-03-12 20:18:23 | 都県境を探ってみる

鶴瀬橋。

対岸は、神奈川県大和市。

一つ下流にある「鶴間橋」から左に折れて「国道246号線」をくぐります。

境川下流を望む。

横浜市のマンホール。ここは、横浜市瀬谷区。

中央に市章。地紋はYokohamaの「Y」と「O」をイメージしている。

「目黒」交差点。

左折すると、右手に「五貫目道祖神」。

解説板。

五貫目道祖神は、徳川中期に旧青山街道(旧国道246号)現所在地より約300㍍西方境川鶴瀬橋手前に祀られ、北は世田谷青山、西は伊勢原小田原、南は戸塚鎌倉に通ずる三方分離点として旅人の道標としての役を果たした道祖神です。

現在の道祖神は徳川後期安政三年丙辰八月と記され、二代目道祖神と言い伝えられております。青山街道は別名大山街道とも言われ、多くの旅人の行き来した街道でした。五貫目地域住民も明治時代より平成の今日迄、毎年1月14日道祖神地先にて1年の無病息災並びに豊作を念して、左義長別名ダンゴ焼きの行事を実施しております。

平成4年3月一般国道246号大和厚木バイパス開通に伴い、建設省のご配慮により現在地に移転いたし、これを後世につたえるべく由来碑を建立し、永く顕彰するものとする。

左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事。地方によって呼び方が異なる。日本全国で広く見られる習俗である。

1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松注連飾り書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた(三色団子ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる。また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと、その年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると、字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い。

民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている。

とんど(歳徳)とんど焼きどんどどんど焼きどんどん焼きどんと焼きさいと焼きおんべ焼き等とも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。とんどを爆竹と当てて記述する文献もある。これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字であろう。

子供の祭りとされ、注連飾りなどの回収や組み立てなどを子供が行う。またそれは、小学校などでの子供会(町内会に相当)の行事として、地区ごとに開催される。

民間・町内会が主体となって行われる場合は基本的に上記したような名称で呼ばれ、寺社が主体となって行われる場合には、お焚き上げ(おたきあげ)・焼納祭(しょうのうさい)と呼ばれたりする。

(この項、「Wikipedia」より)

「五貫目町」交差点。

江戸時代の初期に年貢の石高が五貫目と定められ、それが字名となったという。昭和49年の新設の際の町名は字名を採った。

↑厚木・大和 ←鶴ヶ峰 →相模原 ←八王子街道→

都県境。「東京都町田市」。

右折して都県境となっている道を進みます。

                       道路の向こうの細道へ。

右手は、横浜市瀬谷区。

横浜市方向。

この道が都県境(左が町田市、右が横浜市)。

町田市のマンホール。

                 中央に市章、周りに市の花サルビアの花を放射状に描いている。

 

大きなお屋敷。

来た道を振り返る。右が町田市、左が横浜市。

                 

「町田市鶴間六丁目」。

都県境を進む。

右手の梅林。

左の畑の脇には、

「東名高速道路」に近づいてきます。

「東名」がこんな身近に迫っているとは思いもしませんでした。しかし、防音壁のせいか、まったく車の騒音は感じません。

さて、この先、都県境は「東名」と「横浜町田IC」に阻まれてしまいます(高速道路上になっているところも)。

複雑な道筋をたどって東名の向こう側に出ることも可能ですが、・・・。左手の公園で小休止。

            「鶴間ひだまり公園」(町田市)。

2010年代のようす。↓が都県境の道。右が「東名」。都県境は、東名を越えて東に進む。

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「東日本大震災」「福島原発事故」から12年目・3月11日。読書を通して、大震災と原発事故を考える。

2023-03-11 20:33:15 | 平和

未曾有の大震災・原発事故から12年。このブログでも2年後に訪問した記事やその後の様子など何度か掲載していますが、今回は、《読書無限》で掲載した本をいくつか紹介。ただし、掲載当時のままの文章ですので、あらかじめご了解を。

『初夏の色』 橋本治

 3年前の「東日本大震災」。その傷も未だ癒えずにいる、その中で、生活する家族、そして一人ひとりの生き方。
 阪神淡路を超えてきつつあった多くの日本人が再び未曾有の災害に見舞われ、まして、福島原発事故に遭遇し、それまでの生き方、生活の見直しを余儀なくされた・・・。
 しかし、3年を経過し、原発の再起動路線が政治日程に組み込まれ(「日本復興」という大義名分のもとで)、いつしか風化しつつある(風化させられつつある)今日、改めて、三年前を振り返る。立ち止まって考え直す。そんな連作。最近の橋本さんらしい一代記風の慌ただしさで、家族の、夫婦の、親子の「絆」を、どこかで声高に叫ばれるものとは異なる切実な思いのこもったものとしてではなく、とらえ直していく。
 橋本さん自身、「面倒臭い病気になってぶっ倒れ、その後には大震災によって日本そのものが『立ち止まる』」状況に立ち至った」かなりやっかいな病気に冒された橋本さん。
 ・・・。身辺を巡る時間と空間を自在に操る橋下さんらしい切り口。

※橋本治さんは、2019年(平成31年)1月29日、70歳で亡くなりました。

『恋する原発』 高橋源一郎

 刺激的過ぎる書。良識派からは不謹慎、いくら表現の自由があるからと言ったって、というような具合に。福島第一原発事故をモチーフにした作品は他にもあるだろう、ただし、小説的なものではなくて。これは、タカハシさんなりの(顰蹙文学としての)原発事故のとらえ方である。
(信じるしかなかった、信じ込まされた)安全「神話」が瞬時にして崩壊し、多くの地域・住民を巻き込んでの大惨事。
 現在の人間だけでなく、未来の人間(生まれてくるであったろう人々)の生存権までも奪ってしまった、現実。福島県の人口は(日本全体の人口が減少は、するのだが)20年後には事故前の50%~60%に減少するという予測も登場している。
 カワカミヒロミさんの「神様2011」によってタカハシさんが触発された、あるいは、『苦海浄土』イシムレミチコさんに語らせているように・・・、結局は脆弱に過ぎなかった、と一撃の下に暴露された日本という国土の、政治の、経済の姿をとらえ直している。
 そんなばかな!この小説だかなんだかわからない書き物は、たかがAVディレクターの世迷い言の世界。読むに堪えない下品な語句の羅列によって繕っただけのものではないか、という批判、あるいは無視、侮蔑・・・。それを甘んじて受けてもいいと居直って(そう計算して)読まれる作品。
 人間の根源的な生の生き様をオブラートに隠していた世間、常識をあえて暴いて見せた、という言い方も実にあえて通俗的に。
 これまで「神話」とか「物語」というきれいな表現で見失ってきたものをとらえ直す時期なのかもしれません。でも、物語を喪失させた時代からは、いったい何を見いだすことができるのか。そこを見据えたとき、「物書き」の真骨頂があると思います。
 すでに薄消しより、無修正のものが、あるいはますます過激になって巷に(まさにネット上に)出回っている現在、タカハシさんなりに、少しおとなしめに(わざと郷愁的に)描いた業界話でもあります。

『神様2011』 川上弘美

 1993年に書かれた短編「神様」。熊の神様が登場するお話。暑い季節、三つ隣の部屋に引っ越してきた「くま」に誘われて近くの川原に散歩にでかます。そこで出会った親子連れとの微妙にすれ違う会話、水に入って魚を捕るくまのようす、干物にしてくれる・・・。「いい散歩でした」、と。
 作者は、2011年3月末にあらためて「神様2011」を書き、「群像」6月号に掲載されました。その二つを合わせて一冊の本にしたものが、これ。
 川までの道の両脇に広がっていた水田もなく、川には親子の姿は消え、防護服を着た人物がいるのみ。荒涼とした風景の中でのくまとの会話。同じように魚を捕ってもその放射能含有量のことが常に話題になる。・・・
 川上さんは、日本のみならずこの地球上には人為的な神様もいれば、自然の神もいる。そういう様々の神様の存在、それらとの人間の関わり、相手から見た人との関係性、どちらも人間の都合から神様をとらえていくことへの傲慢さ。そうしたことを突いています。
 今は、むしろ自然の神様の側から人間の所行をどのように見ているか、特に地中深く眠っていた放射性物質を人間の欲望のために取り出し加工し、今回のような事態を生んだ近現代の歴史。神をも恐れぬ人類の営みへの警告、それを肩を張ったものではなく描いています。
 今回の原発事故、さらに原発再稼働を考え、行動する糧として一読をお勧めしたい。

『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』辺見庸

 米軍と一体化した、むしろ肩代わりすら当然とする「安保法制」法案。中国、北朝鮮の脅威をその根拠として、万一の場合にはアメリカ、オーストラリア、イギリスと共に軍事的行動に出ることの法制化。
 しかし、アベ達が具体的に挙げていた、イランによるホルムズ海峡の機雷封鎖云々も現実的ではなくなって、今度は南シナ海を挙げてくる。日本人を輸送する米艦が攻撃されたら云々も今や言い出さない。

そして、つまならいたとえ。

 「お前を殴るぞと脅かしている相手が隣にいる自分の友人を殴りかかってきたら、友人に加勢して相手を撃退する。」

 →そんな兆候があったら、先制的に相手を殴る行動を一緒に行う。むしろ友人の代わりにやっつける。

 「隣家が火事になったら、一緒に火事を消す。」

 →火事の原因となった放火犯を一緒に捕らえに行く。むしろ放火しそうな行動を起こすことをキャッチしたら、放火される前に積極的に相手をたたく。いな、友人に代わってやっつける。

→が「集団的自衛権」の実体的な行使になるわけ。でも、けっして言わない。「 」は、言葉遊びに過ぎないことは承知の上で。

 「友人(隣家)は、自分(我が家)に被害が及ばないよう、わざわざ体張ってがんばっているんだから」とも言う。でも、友人はそれほど体をはることはしない? 結局、「個別自衛権」の行使となり、自衛隊の出動となる。どちらにしても、自衛隊の海外派兵に結びつく。
 アベ達は、「自分や友人によけいなちょっかいをだしてきたら、このように戦うぞ」。これが戦争の抑止力になるのだという。しかし、これが本当の「抑止力」たりうるのか?
 アベにとっての究極の抑止力は「核兵器保有」。そう公言できないから次善の策として、「日米軍事同盟」強化と称し、「ガイドライン」など国会をないがしろにしてどんどん進めている(アメリカのいいなりに)。また、「安保法制」を先取りした合同軍事作戦行動訓練を展開している(沖縄のヘリ事故でその一端が暴露される)。
 さらに、何としても自前の国軍を持つことが究極の選択。それが憲法改正(悪)。これをめざして「譲るべきところは、(やむをえず)譲る。そうすれば支持率は回復する」、その典型が「総理談話」。
 そこへの「一里塚」(それどころか、何本もの法律を十把一絡げで提案するのだから、一里毎ではない、「一里塚」がまとめて築かれるようなもの。)が、今回の「安保法制」。もちろん「(憲法9条を廃棄しての)戦争の道への一里塚」。
 のんきに東海道・京都までの「一里塚」をたどるようなものとは訳が違う。
辺見庸さんの作品をもう一つ。

死と滅亡のパンセ』 辺見庸
 辺見さんの出身地が昨年の3月11日の大震災で壊滅した。その時まで行き来し、親しんでいた故郷。多くの人の命を奪い、懐かしい土地を一瞬うちに奪い去られたという現実の「出来事」への言語による痛切な総括。未来への言葉を紡ぐため自らを励ましながら、屈折した思いを語る。
 特に震災後の言論界が詩人も小説家も評論家も自己規制のもとで画一的な言動を吐いていることへの厳しい批判、ともすればそれに屈服してしまいそうな自らをも「叱咤激励」しながら言論活動。脳出血で倒れ、ガンに冒されまだまだ不自由な身体とも対峙しながら「闘う」作者のすさまじい「思い」をひしひしと感じる。
 
 2011年(平成23年)3月11日。突如襲った「東日本大震災」。それによって、故郷石巻が壊滅的に破壊され、土地も人も生活も文化も伝統も、一切合切、一瞬のうちに失われた(失わさせられた)という痛切な体験の上に(それもその場ではなく、映像や風聞や友人・知人の切々たる言葉によって知らされたものであった)筆者の痛恨の思いを書き綴った書。
 「2011年4月24日に放送されたNHK『こころの時代 瓦礫の中から言葉をー辺見庸』で話したのをきっかけに全面的に書き下ろした、わたしなりの3.11論である。」(あとがき)翌年の1月に初版が出された。
 文章と写真と自らの詩による構成。そこには、郷里・石巻にとどまらず、その後明らかになった「福島第一原発」メルトダウンという衝撃を語る。「安全」、「神話」、「平和」・・・、言葉はいかに人間をだましてきたか。言語表現を生業とする筆者の自らを鞭打ち、自己批判し、それでもなお言語によって、人間の、社会の回復(これすらもまやかしの言葉だが)を思うしかない人間の業。
 とりわけ自らの命をずたすたにされ死んでいった多くの死者に(文字通り手も足も頭もバラバラにされて)、はたして語りかける言葉があるのだろうか。自問自答の末、振り絞っての言葉が真に迫る。辺見庸さんは、読者に何を語りかけているのだろうか?
 一人ひとりにとっての「東日本大震災」「福島第一原発」が問われている。

 「・・・すべてを震災ビジネスが吸収しつつあります。言葉はいま、言葉としてたちあがってはいません。言葉はいま、言葉として人の胸の奥底にとどいていません。言葉はいま、自動的記号として絶えずそらぞらしく発声され、人を抑圧しているようです。」(P182)
 「・・・われわれはほんとうのところは、言葉に真に切実な関心をもっていないのではないでしょうか。それは、かつて石原吉郎が指摘したように、人間そのものへの関心の薄らぎを示すものかもしれません。」(P160)

 「よいひと」吉本隆明の言動批判、堀田善衛「方丈記私記」の記述作法批判など、また桜本富雄さんの文学者の戦争責任追求の諸作に関わって、震災以降の言論状況が新たなファシズムを内包していることへの指摘、さらには自身の詩集「目の海」にもふれながら渾身の(といっては失礼だが)の「パンセ」。「思い」とは、「思」であり「想」であり、人を含む生きとし生きるものへの「愛」(根源的な)である。
 
呪いの時代』 内田樹

 2011年11月発行の書。ということは、「新潮45」誌上に2008年11月から不定期に連載してきた内容にプラスして、「東日本大震災」以後のものが加わっているということ。
 加筆修正があるとはいえ、第1章「『呪い』の時代」で提起した時代状況(「現在」に対する問題意識)がそのままより深まっていくことに驚く。11年以前と以後との筆者の、現在のとらえ方に大きな変化はない、つまり、「東日本大震災」とりわけ福島原発の未曾有の事故が起こったことで、よりいっそう2年半前から思索してきたこととのつながりを持つ、と。
 改めて2011・3・11以前と以後のスタンスに変化がないことに驚嘆する。それは、一貫して主張してきたことに間違いはなかったという筆者の確信でもある。特に、筆者自身が「阪神淡路大震災」を直接に経験したことが、より強い説得力を持っている。

 ますます「呪い」「呪われ」の様相を見せている社会情勢。特にメディア、左翼的な批判的態度への批判は鋭い。

 そうした中で、「呪い」から「贈与」という価値観をもとにした人間関係、社会的な関係を結ぶことによって社会の未来を見いだす、安定させていくことができる、このことを提唱しているが、今はそんな「悠長な」価値などなどは「くそ食らえ」の世の中。にもかかわらず、あえて「徒手空拳」的価値観をかかげる武闘家としての筆者の立場は一貫している。

 呪詛も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている。けれども、多くの人々はそれは神話や物語の中のことであって、私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうではない。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。(P285 「あとがき」より)

 さて、世間はそう甘くはない。この書が世に出てからの4年間。自滅した民主党からアベ政権に移った後の政治、経済、文化状況はどうであろうか。 
 責任をとらない・認めない、反面、自らの主義・主張を数の多さで国民に強要し、(領袖様の恩恵を有り難く頂戴せよと)、メディアへ露骨に介入してもの言わぬ国民にさせ(物をいわせぬように仕向け)、一方でもの申す人々に対してレッテル貼りをし(呪詛し)、・・・。

 それでもなお、「贈与」の価値観を訴える筆者だとしたら、騎士道物語を読んで妄想に陥ったの主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語の主人公のようではある。
 が、この物語をもとにした「ラマンチャの男」の主題歌が「インポシブル・ドリーム」(邦題が「叶わぬ夢」でなくして「見果てぬ夢」)であることにまさに筆者は価値ある「夢」を託しているのだろう、と。

人間が永遠に続くのではにとしたら』 加藤典洋

 人は思索することで人間としてより深く変容する。とは思うが、突き詰めれば、言語活動としてとりわけ他者に向けて発信することによって、必然的に生じるアクション、リアクションの関係でより思索が深化する、という実に当たり前のことを思う。それはまた、外界の事物・現象に向かう(対処する・思索する)自らの体内作用、そして体外への発露としての言語活動ということになるのだろう。
 人は、そういう永続的な言語活動によって、自らをより次元の高い、あるいは次元の低い立場(あくまでも過去の自らにとっての)に置くことになるのだろう。評論活動というのは、たぶんにその成長と怠惰と停滞という進行の中にあるのだろう。そういう意味では、加藤さんだけでなく、内田さんも、高橋さんも、自らの発した言語によって打ちのめされ、励まされ、降りかかってきた火の粉に敢然と立ち向かって意図的に「変容」し続けるのだろう。読者としてはまさにその面白さがかの方々の評論活動にはあることを想う。吉本だとかの人達とは一皮も二皮も剥けていく、その興味が読者を誘うのだ。
何と自由なことよ!  西洋哲学に依拠した哲学者たちの不自由な言語活動に比べれば。 けっして皮肉ではなく。
・・・これから考えていく手がかりは、全くの「シロート」として、技術、産業、科学といった道の新しい領域に「非正規的な思考」を駆使して、抗いながら、踏み行っていくことだろう、
 ・・・私たちは、かつて革命について、戦争について考えたように、いまは技術、産業、事故について考えることで、ようやく世界で起こっていることがらとそれがさし示す未来とに、向きあうことができるという気がする。(本文あとがきP416)
 その思索の根底には、地球と世界が有限性を前にして、人類の新しい経験の核心にあるものはどのような試練か? がある。
 人間が人類であるとともに生命種でもあること、そのような人間観に立った場合、「いまある問題がどのように私たちの前に見えてくるかを見定めよ、それが私たちの最初の課題なのだ、と」(P402)
 そして、「贈与」の本質、原理を提示する。

※加藤典洋さんは、2019年5月16日、71歳で亡くなりました。

「権力はリセットだと私は数年前に言った。今、言い換えというよりはもう一度言う。降り積もった汚染をなかった事にするためにそれは物事をゼロにするのだ。しかし汚染を引き受けさせられた身体を持つ、人々はけしてゼロに出来ない。そこで権力はその人達を見えなくする。そしてその理不尽の中からまた新しく税をとっていく。そう、結局リセットは国家にとっては税の契機に過ぎない。それと、学生に講義している最中に思った事を今ひとつ付け加える。汚すという事と経済という事は表裏一体ではと、大儲けの欲とは汚してはならないものを汚したいという欲望を内蔵しているのかも。
 回避出来る汚染を回避させず、人を汚染するもの、それが権力だ、その汚染をつかってまた大金を儲ける事と汚す事の両方が権力の目的だ。そう言うと性の話みたいだが、これが『核』ではないのか。」(P208)

 ここに来て、高橋さんの『恋する原発』をものした意味・意図の一分が理解できた。たかがお湯を沸かす道具・装置に過ぎない、それでいて、何千年かけても処理しようのない放射性廃棄物を生み続ける「原発」。そのマイナスをも儲けに変えるシステムそのものを覆さなければ、未来はないだろう。

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向島百花園で、うぐいすの初音。満開の河津ザクラ、オオカンザクラ、白木蓮。隅田公園・「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」。

2023-03-10 20:15:08 | 隅田川

百花園を出て、隅田公園へ。

百花園を出たとたん、「ホーホケキョ」と一声、園内から響いてきました。これぞ、「うぐいすの初音」。

一瞬、春を感じました。姿を見せず、啼く鶯。その初音を聞くことができ、何だか気分がいい。

「初音」といえば、わざわざウグイスと断らずとも、ウグイスが…

(「東京新聞 2020年11月12日 07時19分」より)

「初音」といえば、わざわざウグイスと断らずとも、ウグイスがその年の春に初めて鳴く声のことである。「初音」が昔から大切にされたのは人々の春を待つ心からだろう。春を待つようにウグイスの初声を待つ▼永井荷風が季節の音について書いていた。夏の夜の下駄(げた)の音。油紙で張った傘に時雨のはらはらと降りかかる響き。荷風にとってそういう懐かしい音は時代とともに消えてしまった。「わたくしは蝉(せみ)と蟋蟀(こおろぎ)の庭に鳴くのを待ちわびるやうになつた」。その声だけが昔から変わらず残る季節の音なのだと▼気象庁は植物の開花や鳥の初鳴きなどで季節の移ろいをとらえる「生物季節観測」を大幅に見直し、来年以降、ウグイスの初鳴きなどの観測を取りやめるらしい▼ウメの開花やサクラの開花、満開などは残るようだが、動物の二十三種類は全廃となる。ツバメ、シオカラトンボの初見も、荷風が待ちわびたセミやコオロギも皆「落選」した▼気象台や測候所周辺の環境が変わり、対象動物を見つけるのが難しくなったという。セミなどは、今でもいるだろうにと思わぬでもないが、経費など別の理由もあるのかもしれない▼これも時代なのだろうが、かつては身近だった鳥や虫たちが急に遠くへ行ってしまったような気がする。ウグイスではなく同じ鳥でもトラツグミの聞きなしをふと思い出す。<サビシイ、サビシイ>

・・・

園内で、老人二人。「ここ数年、メジロの姿を見なくなって、さびしいものですね。」と言葉を交わしていました。

たしかに、新型コロナで梅祭りが中止になって、以前の賑やかな鳴き声が聞こえなくなった、という印象があります。

初音を聞いただけで、「よし」と、しましょうか!

隅田公園に向かいます。すでに河津ザクラが満開。緑の葉がチラホラ伸びています。

      

 

隅田川方向へ。

   カンヒザクラ。(「百花園」にもありました。)

オオカンザクラ。

           

ほぼ満開。

隅田川。

            高校生らしい集団が鈴なりで手を振っています。青春ですね。

浅草側には、「白木蓮」。

              

ハクモクレン(白木蓮)は、モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種である。早春の葉が展開する前に、白色の大きな花が上向きに咲く。

しかし、みやこどり・ユリカモメの姿が全く見当たりません。どこに行ってしまったのでしょうか?

さて、今日、3月10日。78年前、隅田川以東・本所地域一帯を焼き尽くした「東京大空襲」。

隅田川沿いには、橋のたもとや隅田公園などに被災者の慰霊碑があります。

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」。

戦災によって亡くなられた方々の碑

隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年ごとに薄れ、平和な繁栄のもとに忘れさられようとしている。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。昭和61年3月 台東区

「言問橋の縁石」。
 ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

・・・

「東京スカイツリー」では今日を慰霊の日としてライトアップするそうです。

荒川・「四つ木橋」から(2022/3/10)。

(附)東武線「東向島駅」近くにある「墨田区立第二寺島小学校」校庭の「くすのき」。

樹齢400年とも伝えられる「くすのき」は、高さ約6m、幹回り約2.7m。幹の中に大きな空洞ができていますが、見事に蘇り、校庭のど真ん中にどっしりと構えています。

この「くすのき」は、東京大空襲の戦禍にも耐えて、今も校庭の真ん中に。

(2022/3/10)             

        

                 

「東京大空襲」の体験者もほとんどいなくなりました。語り継ぎ、戦争の悲劇を二度と繰り返さないために。

※「四つ木橋」のたもと、「曳舟川」沿いの河津ザクラ。

          

 

           手前が「曳舟川」。

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向島百花園。梅は散り始めて、残念。でも、雪割草。おおまつゆきそう。木瓜の花。カンヒザクラ。

2023-03-09 20:34:50 | 向島百花園

7日。快晴。向島百花園を久々に訪問しましたが、残念! 梅は、ほぼ散っていました。

            

松の菰外しの作業が進んでいました。

松の菰。「向島百花園」にて(2022・12)。

すっきりした松。

片付けの作業中。遠くに「スカイツリー」。

       

足もとにはフキノトウが花を咲かせています。

             

小さな「雪割草」が、

                

咲き始めた「おおまつゆきそう」。

            

ヒガンバナ科.の植物の1つ。和名はオオマツユキソウ、別名はスズランスイセン。英名は「 スノーフレーク」。

スイセンに似たすらりとした葉に、スズランのようなベル形の花を下向きに咲かせます。白い花弁の先端に緑色の斑点があり愛らしいです。秋に球根を植えつけると、2月上・中旬に葉が現れて生育し、3月中旬から1花茎に1~4個の花を咲かせます。その後、5月下旬には地上部が枯れて休眠に入ります。庭植えであれば、群植すると美しいです。

(NHK「みんなの趣味の園芸」HPより)

「ぼけ(木瓜)」。

              満開の白色と緋色の花。

          

奥に「かんひざくら」。

 

     

いよいよ春本番。

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小田急線「町田駅」~東急田園都市線「長津田駅」。その4。二津屋橋。横浜水道「水管橋」。鶴間公園。境川ともお別れ。(「都県境を探ってみる」。第14回目)

2023-03-08 20:48:44 | 都県境を探ってみる

「国道16号線」バイパスの「境川道路橋」が見えてきます。

               

「二津屋橋」。右岸の旧地名から。

「東急田園都市線」鉄橋。

            左(上り)が「南町田グラン ベリーパーク」駅方向、右(下り)が「つきみ野」駅方向。

横浜水道「水管橋」。

解説板。

水管・口径1500㎜ 3条 橋長・56m 完成・昭和49年(1974年)3月

この水管橋は、道志川から取り入れた水や相模湖にためた水を川井浄水場や西谷浄水場まで運ぶ溜の導水路の一部です。3本のうち1本は道志川の水、2本は相模湖の水を運んでいます。最初に水管橋が造られたのは明治20年(1887年)で、当時は口径22インチ(560㎜)と口径18インチ(460㎜)の2本の管が川を渡っていました。

      

        

左から右に流れている。

※手前の水管(1本)は、神奈川県内広域水道企業団の上水管で、酒匂川系統の飯泉取水堰から伊勢原、相模原浄水場を経由して横浜市の川井、西谷浄水場などへ中継している。

右岸に大きな遊水池。

              

海辺テラス。

この付近の境川も、かつては激しく蛇行する流路でした。

                                                                                                                          

1880年代のようす。蛇行する流路。                2010年代のようす。直線化した流れ。

左手に大きな「鶴間公園」。

1979年昭和54年)開園。町田市最南端、鶴間・南町田地区に位置し、東急田園都市線 南町田グランベリーパーク駅から歩で約5分と非常に近い。広さは約7.1ha(再開発事業前は約5.7ha)と広く、市南部としては最大の広さである。公園内は起伏に富んでおり、西側と比べて東側の方が高くなっている。周囲は駅に近いこともあり、商業施設・住宅地が広がっており、近隣住民の憩いの場となっている。

さわやか広場・水道みちを中心に桜の木が多く植えられており、春になると花見客で賑わう。更に雑木林(つるまの森)もあり、町の喧騒から離れ自然に触れることができる。公園駐車場、グラウンド、人工芝テニスコート(3面)は公園西側の道路(鶴間パークウォーク)を挟んで設けられ、元々は鶴間第二スポーツ広場(市が所有する中学校用地[4])として公園とは別の施設として扱われていたが、2019年令和元年)のリニューアルを機に同公園の一部として組み込まれた。公園駐車場とグラウンドには洪水対策として、地下調整池が設置されている。

東京都神奈川県の境を流れる境川とも近く、境川をサイクリング・ジョギングしている人の休憩スポットとしても利用され、川沿いにはせせらぎ広場が設けられている。(「Wikipedia」より)

園内マップ。

親子の歓声を聞きながら、先に進みます。

             

振り返る。

            右手が東京都町田市鶴間、左手が神奈川県大和市下鶴間。

観音寺(大和市下鶴間)。

この先で、都県境となります。

ここまで、境川が都県境として存在していましたが、ここからは神奈川県と東京都の境界が東に折れていきます。

都県境。右が横浜市瀬谷区。

1880年代のようす。当時から、都県境は東に折れています。

2010年代のようす。赤い線が「246号線」、緑の線が「東名高速道路」。

対岸は、大和市。

ここで、上流から歩いてきた境川ともお別れです。この先、境川は相模湾・江ノ島付近まで流れていきます。都県境歩きが一段落したら、境川を下ってみようと思います。

上流を望む。

            撮影地点は、横浜市内になります。

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小田急線「町田駅」~東急田園都市線「長津田駅」。その3。満開の梅。枯れ芙蓉(ふよう)。大和市。鶴間橋。カワセミ。(「都県境を探ってみる」。第14回目)

2023-03-07 20:31:44 | 都県境を探ってみる

迂回路で見かけた旧流路の土手。

        

その先、左手のおうちの庭先で、色んな種類の梅の花が咲きそろっています。

ちょっとお邪魔して、

          

                    よく見ると、メジロがたくさん()。

        

  

 

この先を右折、境川沿いの道に戻ります。

                      工事用のフェンスが続く。

     

「町田市立定方寺公園」。

            

庭先で見かけた「ふよう(芙蓉)」。(「枯れ芙蓉」)。

(「Wikipedia」より)。枯れたあとの姿も印象的です。  

芙蓉」はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には「木芙蓉」(もくふよう)とも呼ばれる。

大きな通りに出てきました。

                    対岸(右岸)は、「神奈川県大和市」。

左岸は、「東京都町田市」。

         「境川金森調整池工事のお知らせ 東京都建設局」。

「鶴間橋」。

上流の工事現場を望む。

ここからは、左岸沿いの「境川ゆっくりロード」を歩きます。

左岸は町田市。

 カルガモ。

この先で、保育園児と保育士さんたちが川面を指さしています。

「あそこにとまっている小さな鳥はなんですか? けっこう青くきれいに光っていて」

「カワセミですよ」「そうですか! 初めて見たわ。なんかいいことありそう。」お喜びです。

       

境川では、これで2度目でした。

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小田急線「町田駅」~東急田園都市線「長津田駅」。その2。鶴金橋。両岸に「鶴間」の地名。境川金森調節池工事。(「都県境を探ってみる」。第14回目)

2023-03-05 20:01:45 | 都県境を探ってみる

シラサギなどの水鳥の姿。

         

水辺テラス。

         一連の護岸工事では、こうした施設も整備されています。

             

カルガモ。

大きな鯉の群れ。

                      錦鯉も混じっています。

旧流路跡。

この跡に囲まれた一画が相模原市に。(↑)

      「神奈川県相模原市南区上鶴間本町」(↑)。

            右側は、町田市。

「上鶴間橋」。対岸は、相模原市南区上鶴間本町。

微妙に入り組む都県境。

                 「東京都管理地」。

振り返る。

             右(左岸)が町田市、左(右岸)が相模原市。

先に進むと、

左手に「境川広場」、「防災市民いこいの広場」と続きます。

      「遊水地」仕様。

   振り返る。

鶴金橋から鶴間橋までの間、この先工事箇所で大きく迂回します。

「鶴金橋」。

この付近の左岸は、旧流路に沿って相模原市が大きく入りこんでいます。旧鶴金橋があるようです。

                                     2010年代のようす。旧流路に囲まれた地域が、相模原市に属しています。

           旧流路跡。

梅が満開に。

      

         

大きな工事のようです。

「西田スポーツ広場」の地下に大規模な調節池を建設することに。

・・・

●「境川金森調節池工事のお知らせ」
東京都では、台風や集中豪雨による水害から皆様の命と暮らしを守るため、西田スポーツ広場の地下に洪水を一時的に溜める調節池を設置します。

●施設概要
貯留量:約15万㎥
(内訳 一次貯留量:3万㎥ 二次貯留量:12万㎥)
形式:地下式(鉄筋コンクリート造り、管理棟一部は地上)
施設規模:長さ約190m、幅約90m、深さ約20m

●工事期間は2024年5月31日まで。

・・・

迂回する住宅地には、「西田スポーツ広場」が長期間使用できなくなることから、建設反対運動が起こり、幟や垂れ幕などがありました。

そんな迂回路を歩く途中、とある庭先で、色とりどりの満開の梅を見ることができました。次回に。

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小田急線「町田駅」~東急田園都市線「長津田駅」。その1。谷口橋・鹿島橋・千寿橋・境橋。原町田。(「都県境を探ってみる」。第14回目)

2023-03-02 20:28:14 | 都県境を探ってみる

小田急線で町田駅まで。

JR町田駅側に回り込み、「境川歩き」を再開します。

2月25日(土)。晴れ時々曇り。

駅付近も都県境が複雑に入り組んでいます。

駅前のデニーズは、相模原市。

ヨドバシカメラは、町田市内。

境川。「谷口橋」。

          この付近は、相模原市内。

さて、境川の下流に向かって。

「鹿島橋」。

対岸は、相模原市。

「千寿橋」。

ここからは、しばらく境川が都県境となります。

「原町田境橋広場」。

※「原町田」

鎌倉時代頃より鎌倉街道が通っていたが、江戸時代半ば頃までは鎌倉時代に宿の置かれた本町田が中心で、この地域は農地や原野が広がっていた。江戸時代後期頃、八王子から横浜へ生糸を運ぶための絹の道や、東海道大山街道の脇往還がこの地を通り物資の中継地となったため、次第に生糸取引や宿場として栄えるようになり、製糸・織物・乾物を中心とした商業も盛んに行われた。昭和に入ると、近隣地域に原町田陸軍病院原町田陸軍通信学校原町田陸軍兵器学校(いずれも原町田と冠しているが所在地は相模原市)や陸軍士官学校(座間市)が移転し、1942年綾瀬市大和市にまたがる厚木飛行場が完成すると、軍人や軍属の住民が周辺地域に増加し、原町田周辺がより発展することとなった。第二次世界大戦時は陸軍関係の学校や病院は相模大野周辺に多かったものの、軍需工場が少なかったためか空襲の被害は少なかった。(以上、「Wikipedia」より)

境橋より相模原市内を望む。

「境川ゆっくりロード」

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ソウタの今と昔。わずか1年半前には、よたよた歩きのソウタ。箱好きは変わらず。(DAYS with CATS)。

2023-03-01 20:38:47 | わがやの猫たち

今日も元気なソウタ君。

相変わらず箱好き。

この間も、大きめの箱だけでなく、

              窮屈でも・・・。

ここも窮屈そう。

そんなソウタ。

家に来たときは・・・、

                生まれて一ヶ月余り。手のひらに乗せられたほど。

ジジと一緒に寝ているソウタ。埋もれています。ジジと同じくらい。

それが今、

ジジと比べると、この大きさ。

ジジをもてあそぶ。

 

少し垂れ目ぎみで、クリクリした眼は変わらず。

アンズと相変わらずケンカしながらも、元気です。

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