Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

作家の「恥部」(その2)

2007年12月26日 21時08分42秒 | Weblog
 谷崎が最も嫌悪した自作が「金色の死」であるならば、川端のそれは、「禽獣」ということで異論はないだろう。そこで、昨日購入した「水晶幻想・禽獣 (講談社文芸文庫) 」中、禽獣のところを読むことに。
 むむむ、これは傑作であるが、毒が強すぎる。全編「人間嫌悪」の臭いが充満している。例えば
「動物の生命や生態をおもちゃにして、一つの理想の鋳型を目標と定め、人工的に、畸形的に育てている方が、悲しい純潔であり、神のような爽やかさがあると思うのだ。」
と述べるあたり、期せずして「神のような」という言葉が飛び出たところでは、結局のところ自然の造詣には及ばない芸術家の悲しい運命と川端の虚無感を象徴している。
 だが、人間というものは、虚無感を突き抜けたところで、なぜか「生」へと反転するのである。例えば、心中を試みた主人公が翻意する場面では、
彼は稲妻のように、虚無のありがたさに打たれた。『ああ、死ぬんじゃない。』
と心の中で叫んで、主人公は日常に帰るのである。
 
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ネロの犬死

2007年12月26日 07時54分45秒 | Weblog
 「フランダースの犬」は、なぜか日本でだけウケるという。子ども時代の感覚を思い出すと、これは要するに「冤罪事件」で死ぬわけだけれども、最後は「ルーベンスの絵が見たい」という願いを神の恩寵によって叶えてもらったという、一種の俗世嫌悪の物語なのではないかという気がする。
 こんなことを書くのは、落合先生の今日のブログにちと感動してしまったからである。

「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画
 死について、すべての終わり、敗北、といった捉え方しかできなければ、ネロやパトラッシュの死も、上記の記事にあるような「負け犬の死」でしかなくなります。しかし、そうではなく、清く、正しく、誠実に生き、志半ばに倒れはしたものの、最期に、神の恵みか、ルーベンスの名画を目にすることができ、心安らかに従容として死を迎えた、その気高くも美しい(この「美しい」という感覚が日本人独特のものではないかと思います)姿に、多くの日本人が魅せられるのではないかと思います。

 
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