「それから」の続き。
「今日始めて自然の昔に戻るんだ・・・始から何故自然に抵抗したのかと思った」(p229)は、柄谷行人氏も指摘するとおり、抑圧された無意識(自然)を代助が明確に意識化した瞬間である。だが、「抵抗」は代助自身が作り出したものであり、要するに、美千代を友人に譲ったという「義侠心」のことである。
このように、代助は、問題の種を自ら蒔いているのであり、柄谷氏がいうところの「オイディプス王」である(この指摘には木庭教授も賛同する。その他の個所には手厳しい批判を行っているが・・・)。・・・それにしても、柄谷さんって、こうした単発の指摘は当たっているけれど、それをマルキシズムその他の装置で位置づけようとすると失敗してしまい、他の評者の攻撃を受けるようだ。
かくして、木庭教授(ないしソクラテス)のいわゆる「最後の一人」となった代助と美千代は、「社会」から隔絶することを余儀なくされる。かといって、「自然」にべったりとなったという解釈は誤りである(無意識は意識化されている)。それまで「自然」(エス)と「社会」(超自我)の二者択一でしか動けなかった代助は、「寄る辺のない」美千代を媒介として、「自我」(ないしユングのいう「自己」)を確立したのであった。というのがバーディーの解釈。
「今日始めて自然の昔に戻るんだ・・・始から何故自然に抵抗したのかと思った」(p229)は、柄谷行人氏も指摘するとおり、抑圧された無意識(自然)を代助が明確に意識化した瞬間である。だが、「抵抗」は代助自身が作り出したものであり、要するに、美千代を友人に譲ったという「義侠心」のことである。
このように、代助は、問題の種を自ら蒔いているのであり、柄谷氏がいうところの「オイディプス王」である(この指摘には木庭教授も賛同する。その他の個所には手厳しい批判を行っているが・・・)。・・・それにしても、柄谷さんって、こうした単発の指摘は当たっているけれど、それをマルキシズムその他の装置で位置づけようとすると失敗してしまい、他の評者の攻撃を受けるようだ。
かくして、木庭教授(ないしソクラテス)のいわゆる「最後の一人」となった代助と美千代は、「社会」から隔絶することを余儀なくされる。かといって、「自然」にべったりとなったという解釈は誤りである(無意識は意識化されている)。それまで「自然」(エス)と「社会」(超自我)の二者択一でしか動けなかった代助は、「寄る辺のない」美千代を媒介として、「自我」(ないしユングのいう「自己」)を確立したのであった。というのがバーディーの解釈。