教育に悪い法学教室記事~山口裕之論文批判~
「【④一審無罪に対する職権勾留について】
「かかる場面の勾留は、制限的であるべきだといった論が一部にあるが、正しくない。1審判決が、明らかに間違っているということも、現実的に起こる・・」(中略)
④のような発想は更にひどい。ぱっと記録を読み、その一存で無罪を破棄しようと確信する、ということである(現に論文の別の箇所では「1審判決は明らかに誤りと確信できなければ、職権勾留といった挙に出られるはずもない」とされている)。自分が間違っているかも知れない、という畏れの念は微塵も見受けられない。無論、弁護人が控訴答弁で何を言おうと、耳を貸す御仁ではなかろう。」
ボ2ネタで紹介されていた、金岡先生による山口裕之論文批判。
こんなヤバい人が高裁の部長まで務めていたとは、愕然とする。
山口氏は、一審の記録を読んだだけで判決が「明らかに間違っている」と判断出来るらしいが、まるで「私は神だ」とでも言わんばかりの傲慢ぶりである。
金岡先生が指摘するとおり、刑事裁判官にとって最も必要なものは、「自分が間違っているかも知れない、という畏れの念」であり、これが欠如しているから冤罪が生まれるわけである。
「【④一審無罪に対する職権勾留について】
「かかる場面の勾留は、制限的であるべきだといった論が一部にあるが、正しくない。1審判決が、明らかに間違っているということも、現実的に起こる・・」(中略)
④のような発想は更にひどい。ぱっと記録を読み、その一存で無罪を破棄しようと確信する、ということである(現に論文の別の箇所では「1審判決は明らかに誤りと確信できなければ、職権勾留といった挙に出られるはずもない」とされている)。自分が間違っているかも知れない、という畏れの念は微塵も見受けられない。無論、弁護人が控訴答弁で何を言おうと、耳を貸す御仁ではなかろう。」
ボ2ネタで紹介されていた、金岡先生による山口裕之論文批判。
こんなヤバい人が高裁の部長まで務めていたとは、愕然とする。
山口氏は、一審の記録を読んだだけで判決が「明らかに間違っている」と判断出来るらしいが、まるで「私は神だ」とでも言わんばかりの傲慢ぶりである。
金岡先生が指摘するとおり、刑事裁判官にとって最も必要なものは、「自分が間違っているかも知れない、という畏れの念」であり、これが欠如しているから冤罪が生まれるわけである。