Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

信頼が壊れるとき(5)

2020年12月13日 06時12分44秒 | Weblog
憲法9条へのカタバシス(みすず書房、木庭顕)
 「この小説はミステリーであると述べた。実はミステリーの中のミステリー、ミステリーを創建したとされるSophoklesの『僭主オイディプース』を鮮やかに踏襲するものであった。つまり聡明な糾問官が精緻に捜査すればするほどますます犯人は自分であることが動かせなくなっていく。何の罪か。友情をそれと正反対のものと混同した罪である。これはただのclientelaであり、庇護者気取りの親分風であり、押し付けた物に譲渡担保を設定し債務者を縛り上げる債権者に似た行動であった。要するに父や平岡と同根であった。「胡麻化し」の正体がついに明らかになったことだけは疑いない。」(p114)。

 代助にとって三千代はかけがえのない恋人であり、しかも彼女とは相思相愛の仲だった。
 にもかかわらず、代助は、「義侠心」から「友情」を優先させ、三千代を平岡に譲ってしまうという、漱石がいうところの「自然」でない行為に出る。
 しかも、ここで行われた「胡麻化し」に、代助自身が気づいていないのが致命的で、これがこの小説における最大の問題である。
 木庭先生によれば、何のことはない、「英雄的な義侠心」と思ったものは、単なるクリエンテラ(要するに、平岡に対するマウンティング)であり、三千代はそのための道具(échangeの対象)にされてしまったのだった。
 問題は、これに代助(及び江藤淳を含む多くの文芸評論家)が気づかないことであり、「超自我の声」に騙されていたということである。
 なお、柄谷行人は、新潮文庫版の解説(p299)において、フロイトを援用して「無意識の偽善」という言葉を用いているが、「義侠心」は外部(社会)から来ているはずなので、超自我による抑圧とみる方が適切と思われる。
 こうした「『英雄的な義侠心』、『崇高な自己犠牲』などという仮面を被ったクリエンテラ」は、日本社会の深部に潜むウイルスのようなものである。
 これと比べると、川端の三島に対する「庇護者気取りの親分風」は、あからさまではあるが、その分自覚的であり、病気としてはまだ軽いのかもしれない。
コメント
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