Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

信頼が壊れるとき(6)

2020年12月14日 06時08分22秒 | Weblog
 「三千代との結合はéchangeの究極型であり、échangeを拒否する連帯と真正面から衝突する。しかるに、まさに「一人の女をめぐって友と激突する」:このパラダイクマは凡そ社会組織の原点ではなかったか。・・・平岡が三千代を押さえ、その上から代助が押さえ、結果平岡と代助は曖昧かつ重畳的に三千代を押さえている。この関係が切断されなければならない。切断されていないことを定義上不自由という。平岡はその押さえ合いのために三千代を犠牲にしてきた。逆に重畳解体つまり一義性は取引不可すなわち掛け替えのないという感覚を生む。三千代の解放である。そして、ここが解放されて初めて代助と平岡の間には真の友情が生まれる。つまりその前には一義的でなければならず、一義的たるためには一切妥協なく争わなければならない。」(木庭・前掲p119)

 目の覚めるような文章で、まるで漱石が自作を解説しているかのようである。
 ここでは、échange全般が悪というわけではなく、échangeの究極型である「三千代の請け出し」は代助-三千代-平岡にとっての自由の前提であり、échangeを切断するéchangeであって、それに際し一切妥協は許されないという点がミソである。
 これに対し、ノーベル文学賞や社内における地位のように、代替性のある対象であれば、私見ではあるものの、いったんこれを獲得した後で友人に(クリエンテラを目的とするのではなく)譲ることは、あってもいいと思う。
 もっとも、その友が、ジジェク流に受け取りを辞退することが条件である(遠慮なく受け取るようであれば、それは真の友ではない。)。
 さて、翻って、川端がどう対処すれば良かったかを考えてみると、判定者であるノーベル文学賞選考委員会が、「川端と三島で話し合って決めてくれ」ということ自体が、自分の職責を放棄しているわけであるし、échangeをそそのかしているようでもあり、おかしな話である。
 したがって、川端としては、「ギリシャ・ローマの古典文学すら理解していない選考委員会にノーベル文学賞を授与する資格はない。よって、私は受賞を辞退する。三島君、君はどうするかね?」という風に、投げかけてみるとよかった。 
 そうすれば、三島は、次のように答え、川端はそれにこう応じて、麗しい友情が続いていたのかもしれないのである。
 三島「全く同感です。私も辞退します。但し、故人ではありますが、谷崎潤一郎先生に賞を授与するよう、選考委員会に進言してみるのはいかがでしょうか?故人が相手であれば、échangeとの誹りも受けますまい。」
 川端「そうだね、私も大賛成だ!」
コメント
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